22.〜〜〜より ー真逆の日ー

 映画館周辺を歩いて感じる、妙な胸騒ぎ。

 殺気だったその空気は、組織のもとは違う。むしろアメリカに居た頃に近い胸騒ぎだった。映画館が入っているビルの従業員入口は人の出入りが激しい。赤井はしばらくその動きを刺すように監視しながら、周りのビルも見渡す。

 ビルの入口は、どこからでも狙えそうな隙だらけで、何か起きても不思議ではないと思った。しかも今日はまだ映画館しか営業しておらず、ビル内は試写会の関係者しかいない。ならばあの広いビルの中は、穴だらけなのではないか。もし、自分が何かを仕掛けるのなら……。

 好都合すぎるこの環境に、思考はどんどん悪い方へ向かう。しかし、名前の小さく息を吐く声が聞こえて、ハッとする。
 
 そうだ、ここはニッポン。組織の気配がないなら、問題ないはず。これは気のせいだと、赤井は必死に言い聞かせていた。



「わー!すっごくかっこいい映画館ですね!近未来みたい」

 沖矢昴の隣で楽しそうにする名前。その姿を見ながら赤井は、考えすぎかと思うように努めていた。今は、この時間に集中するべきだ。彼女と居られる、貴重な時間なのだから……。

 バーボンの接近により一時はひやりとしていたが、降谷ではなく沖矢昴に頼るようになった名前の姿に安堵していた。彼が公安警察だと、こちらが正体を掴んでもなお名前の友人をしている点は気にはなるが、それも許せるぐらいには、自分の思い通りになっていると感じる。

「そうですね、かなり広そうですし」
「私、映画館が大好きなんです。異世界に連れて行ってくれる、エントランスみたいで!」

 弾けるような笑顔でキョロキョロと館内を見渡す名前は、見ているだけで心が安らぐものだった。全く、そんな発想したこともないぞと、内心思いながら、楽しげな名前の姿を目に焼き付けていく。

「沖矢さん見てください!やっぱり休日だし、外は人が多いですね」

 ロビーから窓の外を覗き込みながら、名前はそう言って沖矢を手招きする。

 しかしその時、赤井は後方に妙な気配を感じた。素早く振り向くと、マスクをし帽子を目深に被った短髪の作業員が一人歩いているのが目に入る。片手には紙袋。トイレがある通路から出てきたようだった。

「あ、見て!あの黒塗りのワゴン車って、いかにも有名人が乗ってそうですよね、沖矢さん!」

 鋭い視線を後方に向けたまま、不審な人物を目で追っていると、名前が沖矢の腕を軽く触る。そこで、意識を彼女に戻すものの、先ほどの人物が気になって仕方がない。

「……ああ、そうですね」

 胸騒ぎは沈む気配がない。むしろ、警告音を鳴らすように、ざわめき出す。なぜ違和感を感じた?と視線を再度、怪しい人物に戻すと、非常階段へと繋がる扉へと入っていってしまった。後ろ姿からすると、背の高い女性にも、細身の男性にも見えた。

「沖矢さん?」
「……名前さん、すみません」
「ん?」
「少し、煙草を吸ってきても宜しいですか?」
「あ……はい!もちろんです」
「では名前さんは、一階の外で待っていてください。あの、大きな看板の前で写真を撮るのはどうでしょう」
「いいですね!分かりました!」
「では、あとで」

 念のため彼女を外へ退避させた方がいい、それだけのことが起こるような気がしていた。

 すみません、と再度言っては、赤井は不審人物の後を追うように、非常階段へと向かって行く。先に声さえかけてしまえば、こちらのもの。逃しはしないと、捜査官の勘で、一つ上の階へと登っていった。上の階は事務所になっているはず。映画館関係者を狙うのであれば、そこに向かう可能性の方が高い。しかし、誰もいない廊下に出て、赤井は大きく舌打ちをする。

 どこだ……。下だったのかと、焦る気持ちで引き返そうとすると、廊下の先から物音が聞こえた。その音を辿る様に追うと、例の人物が先ほどとは真反対にあたる非常階段のドアに入っていくのが見えた。捉えた、と高ぶる気持ちを抑えながら、赤井はその非常階段のドアを開ける。

 上へと駆け上がっているその人物を追うように、赤井も階段を駆け上がった。しかし、その瞬間。大きな爆破音が鳴り響き、足元が大きく揺れ体が後へ傾く。咄嗟に手すりに捕まろうとするも、場所が悪い。

 彼は階段の上から、下へと転がり落ちていた。



 はっ、と落ちかけた意識を、軽く頭を振ってなんとか保つ。なんてざまだと、頭の奥までつん裂くような耳鳴りに、顔を顰める。軽い脳震盪も起こしたのだろうか、すぐに起き上がれなかった。手首を負傷していないことを確認し、数回呼吸をする。思いもよらない爆発に、初動が遅れていた。

 名前に、連絡を……。

 煩く波打つこの鼓動は、走ったせいだと思いたい。僅かに震える手は、爆発のせいだと思いたい。スマホを取り出すと、その画面は階段から落ちた衝撃で割れてしまっていたが、辛うじて電波は繋がっている。急いで履歴から名前の番号にかけるが、コール音が続くだけ。

 その意味が分かるからこそ、赤井は力強くスマホを握り締めていた。

 どうする……考えろ。必死に頭を働かせるが、名前の状況が読めない限り、もはや選択肢は一つしかない。彼は、映画館フロアに戻ろうと壁に手をつきながら非常階段を降りていく。しかし、スクリーン側へと続くはずの非常階段のドアはびくともしなかった。つまり、避難経路の一つが塞がれているのだとも、この時に理解する。

 名前と分かれたのは、此処から反対側にある映画館のロビー。外で落ち合う約束だったが、彼女は今、どこに。

「……っ」

 とにかく彼女の元へ行く手段を探せと、足を動かすも、彼女と連絡が取れない理由が、嫌と言う程浮かんで仕方がない。

 もし……もしも、名前に何かあったら……。それだけは、何としてでも避けなければならないのだ。そんなこと、あってはならないのだ。頼む……頼むから電話に出ろと、再度かけ直す。

 すると何コールか目でようやく、彼女に繋がった。

「名前?!」
「お、おきやさん……?」

 しかし、彼女は力ない声で、ゆっくりと話す。そして、スマホ越しに感じる彼女の周囲の静けさに、血の気が引いていく。聞かずとも、名前が今、何処にいるのか瞬時に理解出来た。赤井は思わず、スマホを耳から離し目を閉じる。

「まだ……ビルの中ですね」

 冷静に、確かめるように聞くと、名前は震えた声で返事をした。

「は、はい……私、お手洗いに行って……気づいたらっ、」
「怪我はないですか?」

 そう問いかけるも、名前の反応が遅い。恐怖で言葉が出せないのなら、まだいい。しかし、電話に出なかった点から推測すると、恐らく爆発の衝撃で意識を失っていたのだろう。だとすれば……。

「名前さん、怪我は?」

 彼女の返事を待ちきれず、急かすように声を荒げてしまう。

「な、無いと……思います。暗くてよく分からない。それに、濡れて……ちょっと冷えます」

 冷える……。その言葉を聞いて、赤井は足を止めた。恐らくフロアは、爆発によってスプリンクラーが作動しているのだろう。確かに、電話の奥から細かな水の音が聞こえる。

「濡れると、体温を一気に奪われます。死角になる場所はありますか?」
「はい、い、今はなんとか……でも、もうすでに結構濡れていて」

 だとすれば、時間の猶予はない。冷えた身体で長時間いるのは危険だ。分かり切ったことではあるが、状況が状況なだけに、いつ此処から出られるのか想像もつかない。とにかく、今はなんとしてでも彼女の元へ。

「名前さん、スマホの充電は?」
「え、っと……80%ぐらいあります」
「なら、このまま話し続けましょう。今そちらに向かっていますので」

 そうして赤井は映画館フロアの真上、事務所のある階の廊下に出る。しかしこの階もスプリンクラーが作動しており、足止めを食らった。変装を濡らすわけにいかないという理由で、立ち止まってなどいられないというのに……。

「名前さん、どうです?動けそうですか?」

 確認すると、彼女に怪我はなく歩くことも問題ないようだ。しかし、女子トイレのドアは自力では開けられないと分かる。さらに運悪くそこには誰もおらず、彼女は完全に孤立していた。運よく外からドアを開けられればいいが、救助隊が来るまでそこから出られない可能性の方が高い。時間が惜しいというのに、障害ばかりが立ちはだかり、苛立ちが募る。

「あ、あのっ、沖矢さん!」

 この状況を打開する案を考えていると、名前が何かに気づく。何か光っていて……と呟くその声に、待て!と声を張り上げるも、遅かった。

「ご、ごめんなさい……でも、もう開けちゃった」
「……どこを」
「洗面所の下の棚です。紙袋があって、それが……」

 その言葉に赤井は再度、瞳を閉じる。

 死神でも、ついているとでもいうのだろうか。
 彼女の見つめる視線の先に何があるか、分かるからこそ目を伏せるしかなかった。