安室さんからの電話が保留になってからも、私は再びその電話が繋がることを信じて待っていた。だから聞き慣れない機械音が聞こえた時、それが意味することが全く理解ができなかった。5:00だったはずの数字が、4:57と点滅していても、それを見つめるだけで身体が動かない。
「……っ、!」
でも確実にカウントダウンされていき、ようやく理解した私は、必死に、それはもう必死に、ドアを叩いて助けを求めていた。
保留になったままの電話を切って、安室さんにかけ直そうともする。でも、手が震えて上手くいかない。もたついている間に、タイムリミットは着実に迫っていく。なんとか押せた通話ボタンに、私は縋るような思いで、応答を待っていた。
そして電話が繋がった瞬間、叫ぶように助けを求めた。きっともう、ほとんど声にはなっていなかったと思う。それでも、何か手段があると信じて、安室さんを呼んだ。なのに、安室さんからの返事がない。何度も、何度も彼の名前を呼ぶのに、何も言ってくれない。
でも、代わりに、誰かの声が聞こえてくる。
「名前、」
気のせい、だろうか。それはずっと、もう、ずっと、求めていた声。
忘れてしまうのが怖くて、毎日、何度も思い出すようにしていたあの声に似ている。違う、幻聴だ。今、誰よりも求めているその声を、脳が勝手に作り出しているだけ。そう思うのに……。
「っ……名前、俺だ」
さっきよりも近くに感じる声に、私はハッとする。その声は、確かに彼の声だ。その瞬間、全身で身震いするかのように、ぶわっと血液が流れていく。
「……赤井、さん?」
いるはずがないのに。でも、そうとしか思えない状況に、私は握っていたスマホを手放し立ち上がる。両手で扉に触れながら、声の元を辿るように顔を寄せていた。
「説明は後だ。あと何分ある?」
急かしているようだけれど、話し方には優しさが含まれている。それはもう確かに私の知っている、大好きな赤井さんの声だ。
でも、何が何だか分からない。これは夢なのか、本当なのか。じゃあ、なんで赤井さんは生きていて、なんで今、私は爆弾の前に……。
「落ち着くんだ、名前」
私の様子が伝わっていたのか、赤井さんは少し笑ってそう言う。まるで、こんなこと大したことないというような言い方。どうして、貴方はいつも……。
その時、私はようやく息をしていた。
「っ……あっ、あとっ……3分30っ、」
でも、なんで、こんなことに……。
怒りと悲しみと、この上ない嬉しさと。もう、よく分からない感情でぐしゃぐしゃだ。一瞬、全てを諦めそうになっていたけれど、今はどうにか抗いたくて堪らない。こんなの、こんなの嫌だ……っ!
「名前、安心しろ」
すると、赤井さんは優しくそう言った。すぐ近くにいるような、抱き締められているような感覚さえ感じて、少しだけ、涙が引いていく。
「大丈夫だ」
「……っ」
「これは50:50。絶望する必要はないんだよ」
「……で、もっ」
「彼らから状況は聞いている。残りの線の内、どちらかを切れば、助かる。好きな方を選ぶんだ」
そう言われても、とても赤井さんのようには落ち着いていられない。だって、もし違う方を選べば、それで……。
「どちらにせよ、50:50さ」
まるで私の心境が読めているかのように、赤井さんは笑ってそう言う。
もう、よく分からないけれど、何故かその声を聞いていたら力が抜けてきた。数回、呼吸を繰り返すと、パニックを起こしていた頭が、ようやく元に戻ってくる。ごくりと、唾を飲み込み、鼻を啜った。もうすぐ、3分を切ろうとしている。
「名前……俺は、ここにいる」
「っ……赤井、さっ……ほんと、に……?」
「ああ、すまない。どうしても、言えなかったんだ」
その言葉に、ついに堪えていた涙が溢れ出す。“言えなかった”。その言葉だけで、もう良かった。
そっか、言えなかったんだ……。
でも、居たんだね。
気づけば私は、脱力するように床に膝をついていた。その拍子に、水が跳ねる。でも、そういえば冷たくない。寒くない。
「名前……っ?」
身体が、小刻みに震えている。泣いているから、なのかもしれない。これは何の涙だろう。赤井さんに会えて、嬉しいから、なのかな。もう分かんないや。
「赤井さん……よかった、話せて……っ」
「名前、本当はもっと話すべきことが、」
「いいのっ……いいの、そうじゃ、なくて」
「……ああ、分かっている」
もう残り、2分を切る。話さなきゃ、いけない。大切なことを。
互いに、出てくる言葉は愛しかなかった。もう十分、分かっていたけれど、それでも何度でも伝えていた。謝ろうとする赤井さんを止めながら。でも、伝えれば伝えるほど、どうしても込み上げてくる。
「う、っ……会い、たい……っ」
「……っ」
「赤井さ、ん……会いたいよ、!」
これが最後でもいい。最後でもいいから、最後に抱きしめて、全身で赤井さんを感じたい。
その時の、赤井さんがどんなに辛そうな表情をしていたかは分からない。しばらく返事がなかった。
「名前……俺は、 “切り終わるまで” ここにいる」
「……う、っ」
「ずっと、ここにいる。決して離れない」
「……っ」
「名前、よく頑張ったな……一人で……」
赤井さんの声が穏やかで、こんな時なのに、自然と心が安らいでいく。ずっと、待ってた。寂しかった、会いたかった。でも、最後にこうして話せたなら、もう十分。
「勝手に死んだ俺が、言えることじゃないが」
そう言って笑う赤井さんの声を、ただただ聞いていた。こんな時まで、冗談を言うのが、彼らしい。ベッドの中で、微睡むように笑い合ったあの瞬間が蘇ってくる。いつだって、貴方は笑わせてくれていた。
「赤井さん、もう……時間、がっ」
「ああ、」
1分を切ろうとしている数字を前にして、私は強引に涙を拭った。身体が重くて思うように動けないけれど、私は小さなハサミを再度握って、体勢を整える。
大丈夫、まだ……終わりじゃない。赤井さんが言うように、半分の確率で爆弾は止まるんだから。そう言い聞かせるように、私はゆっくりと息を吐く。
「名前……大丈夫さ。どちらになってもな。そうだろう?」
優しく、頭を撫でられたような気がした。そう思ったら、自然と笑みが零れてしまう。当然、“どちらになっても”という意味は分かっていたけれど、それでも、不思議と怖くはなかった。
「名前、愛している」
何度言われても、何度聞いても、心が震える。十分すぎるくらいの愛は、もうちゃんと分かっているから。
「私も……赤井さんを、ずっとっ」
「ああ、分かっているよ」
まるで、二人でベッドにいるときのような、穏やかな口調。そんな彼の声を、また聞けるなんて思ってもみなかった。私はそれを噛み締めるように、小さく返事をする。
「……切り損ねて、くれるなよ」
相変わらずの冗談に、今度は声が漏れるように笑ってしまう。同時に、心が温かくなっていた。
そうだ、悲しいままじゃ、寂しい。
いつまでも、こうして笑っていたい。
赤井さんの、喉を鳴らすように笑う声が大好き。このままの気持ちで、いたい。さよならなんて、言いたくない。また、会えるはずだから。
「秀一さん、またねっ」
こんな時だけど、ちゃんと明るく言えた。彼も、それを聞いて笑ってくれていた気がする。
「ああ、またな名前」
そうして私は、指先に力を込めた。