26.〜〜〜より ー存在ー

 安室さんからの電話が保留になってからも、私は再びその電話が繋がることを信じて待っていた。だから聞き慣れない機械音が聞こえた時、それが意味することが全く理解ができなかった。5:00だったはずの数字が、4:57と点滅していても、それを見つめるだけで身体が動かない。

「……っ、!」

 でも確実にカウントダウンされていき、ようやく理解した私は、必死に、それはもう必死に、ドアを叩いて助けを求めていた。

 保留になったままの電話を切って、安室さんにかけ直そうともする。でも、手が震えて上手くいかない。もたついている間に、タイムリミットは着実に迫っていく。なんとか押せた通話ボタンに、私は縋るような思いで、応答を待っていた。

 そして電話が繋がった瞬間、叫ぶように助けを求めた。きっともう、ほとんど声にはなっていなかったと思う。それでも、何か手段があると信じて、安室さんを呼んだ。なのに、安室さんからの返事がない。何度も、何度も彼の名前を呼ぶのに、何も言ってくれない。

 でも、代わりに、誰かの声が聞こえてくる。

「名前、」

 気のせい、だろうか。それはずっと、もう、ずっと、求めていた声。

 忘れてしまうのが怖くて、毎日、何度も思い出すようにしていたあの声に似ている。違う、幻聴だ。今、誰よりも求めているその声を、脳が勝手に作り出しているだけ。そう思うのに……。

「っ……名前、俺だ」

 さっきよりも近くに感じる声に、私はハッとする。その声は、確かに彼の声だ。その瞬間、全身で身震いするかのように、ぶわっと血液が流れていく。

「……赤井、さん?」

 いるはずがないのに。でも、そうとしか思えない状況に、私は握っていたスマホを手放し立ち上がる。両手で扉に触れながら、声の元を辿るように顔を寄せていた。

「説明は後だ。あと何分ある?」

 急かしているようだけれど、話し方には優しさが含まれている。それはもう確かに私の知っている、大好きな赤井さんの声だ。

 でも、何が何だか分からない。これは夢なのか、本当なのか。じゃあ、なんで赤井さんは生きていて、なんで今、私は爆弾の前に……。

「落ち着くんだ、名前」

 私の様子が伝わっていたのか、赤井さんは少し笑ってそう言う。まるで、こんなこと大したことないというような言い方。どうして、貴方はいつも……。

 その時、私はようやく息をしていた。

「っ……あっ、あとっ……3分30っ、」

 でも、なんで、こんなことに……。
 怒りと悲しみと、この上ない嬉しさと。もう、よく分からない感情でぐしゃぐしゃだ。一瞬、全てを諦めそうになっていたけれど、今はどうにか抗いたくて堪らない。こんなの、こんなの嫌だ……っ!

「名前、安心しろ」

 すると、赤井さんは優しくそう言った。すぐ近くにいるような、抱き締められているような感覚さえ感じて、少しだけ、涙が引いていく。

「大丈夫だ」
「……っ」
「これは50:50。絶望する必要はないんだよ」
「……で、もっ」
「彼らから状況は聞いている。残りの線の内、どちらかを切れば、助かる。好きな方を選ぶんだ」

 そう言われても、とても赤井さんのようには落ち着いていられない。だって、もし違う方を選べば、それで……。

「どちらにせよ、50:50さ」

 まるで私の心境が読めているかのように、赤井さんは笑ってそう言う。
 
 もう、よく分からないけれど、何故かその声を聞いていたら力が抜けてきた。数回、呼吸を繰り返すと、パニックを起こしていた頭が、ようやく元に戻ってくる。ごくりと、唾を飲み込み、鼻を啜った。もうすぐ、3分を切ろうとしている。 

「名前……俺は、ここにいる」
「っ……赤井、さっ……ほんと、に……?」
「ああ、すまない。どうしても、言えなかったんだ」

 その言葉に、ついに堪えていた涙が溢れ出す。“言えなかった”。その言葉だけで、もう良かった。

 そっか、言えなかったんだ……。
 でも、居たんだね。

 気づけば私は、脱力するように床に膝をついていた。その拍子に、水が跳ねる。でも、そういえば冷たくない。寒くない。

「名前……っ?」

 身体が、小刻みに震えている。泣いているから、なのかもしれない。これは何の涙だろう。赤井さんに会えて、嬉しいから、なのかな。もう分かんないや。

「赤井さん……よかった、話せて……っ」
「名前、本当はもっと話すべきことが、」
「いいのっ……いいの、そうじゃ、なくて」
「……ああ、分かっている」

 もう残り、2分を切る。話さなきゃ、いけない。大切なことを。

 互いに、出てくる言葉は愛しかなかった。もう十分、分かっていたけれど、それでも何度でも伝えていた。謝ろうとする赤井さんを止めながら。でも、伝えれば伝えるほど、どうしても込み上げてくる。

「う、っ……会い、たい……っ」
「……っ」
「赤井さ、ん……会いたいよ、!」

 これが最後でもいい。最後でもいいから、最後に抱きしめて、全身で赤井さんを感じたい。

 その時の、赤井さんがどんなに辛そうな表情をしていたかは分からない。しばらく返事がなかった。

「名前……俺は、 “切り終わるまで” ここにいる」
「……う、っ」
「ずっと、ここにいる。決して離れない」
「……っ」
「名前、よく頑張ったな……一人で……」

 赤井さんの声が穏やかで、こんな時なのに、自然と心が安らいでいく。ずっと、待ってた。寂しかった、会いたかった。でも、最後にこうして話せたなら、もう十分。

「勝手に死んだ俺が、言えることじゃないが」

 そう言って笑う赤井さんの声を、ただただ聞いていた。こんな時まで、冗談を言うのが、彼らしい。ベッドの中で、微睡むように笑い合ったあの瞬間が蘇ってくる。いつだって、貴方は笑わせてくれていた。

「赤井さん、もう……時間、がっ」
「ああ、」

 1分を切ろうとしている数字を前にして、私は強引に涙を拭った。身体が重くて思うように動けないけれど、私は小さなハサミを再度握って、体勢を整える。

 大丈夫、まだ……終わりじゃない。赤井さんが言うように、半分の確率で爆弾は止まるんだから。そう言い聞かせるように、私はゆっくりと息を吐く。

「名前……大丈夫さ。どちらになってもな。そうだろう?」

 優しく、頭を撫でられたような気がした。そう思ったら、自然と笑みが零れてしまう。当然、“どちらになっても”という意味は分かっていたけれど、それでも、不思議と怖くはなかった。

「名前、愛している」

 何度言われても、何度聞いても、心が震える。十分すぎるくらいの愛は、もうちゃんと分かっているから。

「私も……赤井さんを、ずっとっ」
「ああ、分かっているよ」

 まるで、二人でベッドにいるときのような、穏やかな口調。そんな彼の声を、また聞けるなんて思ってもみなかった。私はそれを噛み締めるように、小さく返事をする。

「……切り損ねて、くれるなよ」

 相変わらずの冗談に、今度は声が漏れるように笑ってしまう。同時に、心が温かくなっていた。
 
 そうだ、悲しいままじゃ、寂しい。
 いつまでも、こうして笑っていたい。

 赤井さんの、喉を鳴らすように笑う声が大好き。このままの気持ちで、いたい。さよならなんて、言いたくない。また、会えるはずだから。

「秀一さん、またねっ」

 こんな時だけど、ちゃんと明るく言えた。彼も、それを聞いて笑ってくれていた気がする。

「ああ、またな名前」

 そうして私は、指先に力を込めた。