27.願わずにはいられない

 事件の全貌はこうだ。東都大学理工学部を首席で卒業した女は、ある男と深い恋に落ち、卒業後は彼を支えるために全てを捨てた。親の反対も押し切り、その男の働く会社へ入社し、彼の右腕、そして恋人として尽くした。その甲斐あって、男は配給会社の上層部へと昇りつめ、東都に出来た最新の映画館を任されるまでになるも、彼は軽々と女を捨てる。一途に彼を支えていた女は、一瞬にして全てを失った。

 もう、半分気が狂っていたのかもしれない。女は、その映画館の開業に合わせて計画を立てた。まずは事前に仕掛けた爆弾で退路を塞ぐ。女は爆発に巻き込まれないよう上層階へ逃げるも、打ちどころ悪く意識を飛ばした。しかし彼女は意識を取り戻すと彼を探し出し、弱っている男に迫る。そして最後は、事務所の真下にある映画館のロビーにあるトイレに仕掛けた爆弾を作動させ……。

 最後に、愛の言葉でも吐いていたのだろうか。その5分に、幻想でも抱いていたのだろうか。

 それは二人にしか分からない。まさか、その真下で同じように、愛し合う二人が、最後かもしれない時間を過ごしていたとは、思いもしなかっただろう。



 あの時赤井は、これほど清い時間があるのかと思う程、穏やかな心地でその時を待っていた。今まで幾度となく死を覚悟したことはあったが、それらとは全く違う。“どちらになっても”と彼女に伝えた言葉は、本心だった。

“名前?”

 しかし、いくら待っても何も起こらない。再度、時計を見て、爆弾が無事に解除できたのだと分かるが、何故か彼女が何も反応を示さない。

“名前っ?”

 彼女は、放心しているのか……? しかし冷静な頭に浮かんでくるのは、気を失い倒れている名前の姿。そんなことあってたまるかと、赤井は何度も扉を叩き、名前を起こそうと必死に呼びかけた。だが、全く反応がない。
 
 そこからの記憶は、ほとんどなかった。しかし、しばらくして到着した救助隊が扉を壊し、ようやく中が見えた時のことだけは鮮明に覚えている。

 全身ずぶ濡れの名前が、力なく床に横たわり、額から血を流す姿。だらりと、開いたまま口に、硬く閉ざされた瞳。血の気のないその表情は、もう二度と、動くことがないのではないかと思うほどだった。

 離れてくださいと、制する隊員を振り払うこともできず、担架に乗せられて運ばれていく名前を、ただ呆然と見つめるしかなかった。

「名前……」

 そうして今、赤井は病室のベッドで眠る名前の手を握りながら、本来の声で何度も彼女を呼び掛けていた。沖矢昴の姿のまま、何度も優しく撫でては、祈るように彼女を見つめる。

 彼女は右の額に数針縫っており、そこは痛々しくガーゼで覆われていた。右腕に繋がれた点滴は、もうすぐ切れそうだ。看護師が、そろそろ来るだろうか。

「頼む……」

 冷えたその手が、早く温まる様に、そして握り返してくれるようにと力を込める。なんとか、最悪な事態だけは免れていることが何よりも救いだったが、目覚めてみないことには、とても安心できない。

 赤井は丸いパイプ椅子を動かし、もう少し名前に近づこうする。すると、足元からガサリという音がし、視線を向けた。それは、彼女の処置を待っている間、様子を見に来たコナンが彼に渡したもの。

“これ、安室さんから。名前さんのためにって……”

 その中身は、帽子にサングラス。つまり、「変装を取り、彼女に会え」という意味だろう。さらに中をよく見ると、こんな時だからだろうか、小さなチョコレートも入っており、糖分を摂取し冷静に判断しろとの降谷からのメッセージを受け取っていた。

“あと……安室さんは明日、ポアロの仕事が終わったらここに来るって……”

 その言葉から、やはり降谷零は名前に対して、利用すること以外の感情があったのだと察する。どうやら、本当に見逃してもらえるらしい。このタイミングを狙って、何かしようというつもりがないのは明らか。

 つまり、変装を取って会えるよう、わざわざこれらを用意したのは、本当に彼女を想っての行動。そう、彼は、彼女を……。しかし、そんなことはどうでも良い。彼に芽生えている感情について、今更何かを言うつもりはなかった。大切なのは、彼の気持ちではないのだ。

「今なら、会えるんだ名前」

 今、目覚めれば、全てを話してやれる。深夜の病室で、ついに待ちわびた逢瀬が叶う。もう、会わずにはいられないのだ。危険と分かっていても、この期に及んで雲隠れなどしていられない。赤井は必死に、名前の手を握る。

 これは、当初の計画とは全く異なる道だ。しかし、いくら隠そうとも消えるの事のない名前への想い、そして度重なる危機に、もはやこの道しか考えられないのだ。

「名前……?」

 すると、彼女の指先が僅かに動く。まるで彼の声に反応するかように、その指先がピクリと、また動いた。

 覚醒する兆しに、赤井は急いで変装を剥ぎ取り、素顔を晒す。その流れで自身の前髪を掻き上げれば、彼女の意識が無事に戻ることへの安堵と共に、ようやく名前に会えるのだと、そんな高揚感すら生まれてくる。

 そして名前の頬に触れながら、何度か呼びかける。優しく、何度も……。その意識が浮上するのを後押しするように、名前を呼んだ。

「名前、」

 すると、僅かに彼女の左瞼が反応を示す。

「名前っ、分かるかっ?」

 彼女は深く呼吸をし、顔を動かした。数回、瞼が動くものの、額を縫ったせいか痛みを感じるようで、少し顔を歪めている。

 ここは冷静でいなくてはと思うものの、逸る気持ちが抑えきれない。話は出来るのか、身体は動くのか、何か障害はないか。とにかく名前からの反応を確認したいと、視線をなんとか合わせた。

「名前、っ?」
「……かい、さっ」

 名前は掠れた声ながらも、確実にそう言った。その瞬間、全身が震える。彼女が自分を認識している、その事実が分かっただけで十分。十分、すぎるのだ……。

「っ……そうだ、分かるんだな?」

 名前の頬に触れながらそう聞くと、彼女は肯定するように頷いた。

 大丈夫だ、きちんと会話ができている。問題ない。奇跡的に障害もなく、無事に目を覚ましたのだ。そう実感した時、思わず良かったと、声に出ていたかもしれない。名前の両頬を包み込みながら、親指でその柔らかな頬に触れていると、愛おしさでどうにかなりそうだった。

「ん……ったし、電話……した」

 しかし、突拍子もない言葉に、赤井は動きを止める。電話……? 彼女の指す言葉の意味が分からない。何の話だと、眉間に皺を寄せた。

「火事……あっ、て」

 その瞬間、ごくりと唾を飲み込む。
 映画館、火事、爆発、恐怖、確かに酷似したその二つの出来事。目覚めた直後であるなら、それらを混同してしまうのも不思議ではない。人は、意識を失った際の直近の記憶は曖昧になることが多い。その上、彼女は爆弾処理という、極限状態にいたのだから無理もないだろう。

 しかし、よりによって、その記憶は雲隠れ前の記憶。杯戸町の映画館火災の日の事を言っていると気づいた瞬間、言葉が出てこなかった。赤井秀一が一度この世を去ったという大事な部分が抜けている彼女に、なんと話せばいい。

「名前……っ」
「……怖、かっ、」
「名前、ここは……病院なんだ」

 咄嗟に口にできたのは、今の状況説明だけだった。

 彼女が目覚めた以上、すぐに医師を呼ぶべきだろうが、人が来る前に話さなければいけない。伝えなければいけない。だから、もう少しだけと、赤井は慎重に言葉を選ぶ。

 すると名前も、自分の身に起きた違和感に気づきだし、点滴の針が刺さっている右手で額の傷に触れようとした。

「やめた方がいい、額を縫ったばかりだ」

 名前の腕を優しく掴み、動きを制しながら伝えると、彼女は不安げな瞳を向ける。どうして、と言いたげな彼女に、説明する言葉が見つからない。

「え、っ……?」

 赤井が言い淀んでいると、名前は点滴の存在に気づき困惑の表情を浮かべる。爆発の記憶が完全に抜けているのだろう。名前の呼吸が段々と浅くなり、訳の分からない状況にパニックを起こしていた。

 そんな彼女をどうにか落ち着かせようと、赤井は優しく名前の髪を撫でつける。これからどう説明するべきか、その道筋が全く検討もつかない。

「大丈夫だ名前……少し、混乱しているだけだ」

 その言葉は、彼女に言っているのか、自分自身に言い聞かせているのか分からなかった。

「大丈夫だ、問題ないよ」

 そう言って彼女の瞼にそっと手を当て、目を伏せさせる。少しでも余計な情報を減らしてやれば、楽になるかと考えての行動だった。そして、反対の手で髪をゆっくりと撫で、安心させるように大丈夫だと、何度も囁く。

 名前もまだ回復途中で、半分、意識も朦朧としていたのだろう。徐々に考えることを放棄し、静かな呼吸をし出した。今はもう、彼女の記憶を搔き乱すのはよそう。爆発による精神的ショックに、あのプレッシャー、さらに亡くなったはずの恋人が現れては、混乱するのも当たり前だ。今は何よりも、休ませてやりたい。

「名前、すまない」
「……っ」
「まだ、しばらく会えないんだ」

 今、言えるのはこれだけだった。もう、此処に居てはいけないと、自分を制するように赤井はナースコールへと手を伸ばす。変装を取ってしまった以上、看護師が来る前にここを出る必要があった。

「名前、すまないっ……」

 それだけ伝えてボタンを押そうとすると、彼女の口から絞り出すような声が聞こえてくる。

「……た、ね」

 微かな音にしかなっていなかったが、赤井には伝わっていた。

「ま、たね」

 再度、確かな声が耳に届くと、胸の奥がじんわりと熱くなる。それは、名前がまた会えることを信じて、待っているという意味だと分かるからこそ、苦しい。

 こんな男、待つ必要はないんだと、思う反面、あのビルの中、散々互いの気持ちを通じ合わせてしまった今、名前の気持ちは痛いほど伝わっていた。ならば、いつか、全てを終えて、名前の元へ帰るその日まで……。

「ああ、またな」

 偶然にも、あの時と同じ言葉だと気づいた瞬間、言いようのない想いが込み上げてくる。思わず視線を反らすと、名前は咳き込んでしまった。それを見て急いでナースコールを押すと、今の状況だけ伝え、そのボタンをベッドに置く。

 横を向いて、うずくまるように呼吸を整えている彼女の背中を摩るが、長居はできない。再度、こんな状況でも側に居てやれないことに、辛い思いをさせてしまっていることに歯を食いしばりながら、赤井はその場から立ち去った。