06.変化 ー車ー

「おや偶然ですね!またお会いできるとは」

 昨日に引き続き、定時より少し早く仕事を終えた私は駅前で例の金髪の彼と再会を果たしてしまっていた。爽やかな笑顔が、逆に怖い。どうして此処にいたのだろう。それよりもまず、この場を切り抜けるいい方法を考えなくてはいけないのだけれど、こんな状況に陥ったことのない私がいくら必死に考えようと、良い方法なんて浮かぶ筈がなかった。

「連絡いただけなくて心配していたんです。あれから大丈夫でしたか?」
「……は、はい、」
「えっと、すみません。まだお名前を伺っていませんでしたよね?」

 そう言いながら、真っ直ぐな瞳で見つめられては伝えるしかない。苗字だけ、ぼそりと口にした。ゆっくりと微笑んだ彼の口元が、印象的だった。

「一ノ瀬さんですね?今日はもうお帰りですか?」
「……っ」
「実は僕、予定していた仕事がキャンセルになってしまって時間を持て余していたところだったんです。良ければご自宅までお送りしましょうか?」

 いや、その必要はないですと、言う暇もなく、彼は車のキーを解除して助手席を開けた。でも、その車は黒のスカイライン。白のRX-7じゃない。

「ああ、車ですか? 僕、二台持ちしていて、あっちはいわば休日用なんです」

 照れを隠すように笑っている姿は、確かに悪い人には見えなかった。もしかして、ただの勘違いだったのだろうか。

「そう、なんですね……よかった、っ」
「良かった?」
「あっ、いや……」
「まぁ、僕としては一ノ瀬さんに乗っていただくのなら、もう一台の方が良かったんですけどね。せっかくこうして再会できたのですから」

 安室さんは、ニコッと純粋そうな笑顔を見せる。“こんな偶然、あるものなんですね〜!”なんて、拍子抜けしてしまうくらいの柔らかい雰囲気に、私も釣られて少し笑ってしまった。そうだ。こんなに感じの良い人が、悪い人なわけがない。

「あのっ、家は電車から降りてすぐなので大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」
「……そうですか。しかし最近物騒ですので、お一人で夜道を歩く際は気をつけくださいね」
「あ、はい……」

 物騒、というワードを聞いて蘇る数日前の出来事。あれは気のせいだったのだと、思いたい。ストーカーされるような出来事は全く思い当たらないし、酷い顔をしていたはずの自分が狙われたとはやっぱり考えられない。

「そうだ一ノ瀬さん、連絡先を交換しませんか?」
「……え、っ?」
「これも何かの縁ですし、僕は貴女と、もっと話がしてみたい」

 安室さんの視線は、先ほどよりもずっと真剣だった。私は無意識に足が一歩下がってしまう。危険信号に似たものを感じて、瞬きが増えていた。安室さんは悪い人じゃないと分かった筈なのに、まだ拭いきれていない不信感がそうさせているのかもしれない。とにかく、この場で連絡先を交換することは躊躇われた。

「っ……じゃあ、名刺、家にあるので帰ってから、」
「連絡してくださるんですね?」
「……は、はい」
「分かりました。では念のため、もう一枚をお渡ししておきます」

 そう言って彼は私の鞄の隙間に、名刺を差し入れた。

「連絡、待っていますね。一ノ瀬さん」

 安室さんは一見、優しく、丁寧で、誰からも好かれるような人。そう思うのに、やっぱり最初の印象が強すぎたのか、底知れない恐ろしさを感じてしまって少し怖い。

 一体、何が本当で、何が偽りなのか。分からないけれど、このまま。分からないままにしておいた方が良いような気がしていた。



 降谷は名前が駅の方へ歩いていく背中を見送った後、車を別の場所へ移動させていた。時刻は、二人が別れてから一時間程経ったところ。頃合いかと思っていた通り、見知らぬ番号からの着信が入り彼は静かに笑みを浮かべた。

“あ、安室さっ……あのっ、ポ、ポストに、写真、がっ!”

 彼女の安室透に対する警戒心は、車を変えたことで簡単に解けていた。現に今、名前が安室を頼って電話をかけてきたのがその証拠だと、彼は作戦が上手くいったことに満足する。

「どうしたんですか、落ち着いてください」

 こうなることを予測していただけあって、降谷の声は至って冷静だ。反対に彼女の声は震えており、言葉が続かない。しかしまあ、上手くいったものだ。

 一昨日、ストーカー紛いの尾行に一ノ瀬名前が気づいたとの報告を受け、その時点で尾行は辞めさせている。常に仕事に追われている部下達の、時間を割くまでの案件ではなかった。そして手短にこの件を終えるべく、時間のできた今日、自宅のポストに彼女の写真を送りつけてみればこれだ。ストーカー被害を自覚した彼女が警察へ相談しに行くこともあり得たが、彼女は自ら安室透へ、まさかこうなるように仕向けた当人であるとは思わず、純粋に助けを求めてきたのだから、完全に手中に収まったと言えるだろう。

「大丈夫ですか?もし良ければ今から会って、お話を聞かせてください」

 まったく、簡単なものだった。この後は恐怖から彼女を救い、安室透を信頼させるよう仕向け情報を聞き出すだけ。隙を見て、スマホを探れば一番リアルな交友関係を洗い出せる。なんなら、少し会話をするだけで話してくれそうでもあるな、と気持ちは余裕だ。

 降谷は名前を迎えに行くと、恐怖に震える彼女を励ましながら、安室らしく寄り添ってみせた。一通り彼女の話を聞きながら、車を走らせること数分。コンビニの駐車場に車を停める頃には、名前も随分と落ち着きを取り戻していた。

「それで、その封筒が今日投函されていたものですね」
「はい、でも何も書かれていなくて……これが手がかりになるか」
「そんなことありませんよ?紙質や、インクからもある程度絞れますし」
「そう、なんですね……よかった」
「怖い思いをされましたね。もう安心して大丈夫ですよ。僕の得意分野ですので」

 こうして無事に証拠品を回収しながら、ちらりと助手席を見れば、小さく何度も頭を下げながら感謝を述べる姿が目に映る。それには、やはり若干の良心が痛んだ。もし、名前が組織と無関係であれば、善良な市民の心を無遠慮に踏みつけたようなものだ。

 ただ、そうではないと、降谷は自分の直感を信じていた。彼女には、必ず何かある。あるはずなのだ。

「すみません、一旦休憩を。一ノ瀬さん、何か入りますか?良ければ何か飲み物を買ってきますけど?」

 車内を覗き込むように聞くと、彼女は静かに首を振った。遠慮から、というよりもまだ内心はそれどころではないのだろう。受け止めきれない現状を、必死に飲み込もうとしているようだった。

「では、少し待っていてくださいね」

 そう言ってドアを閉めると、彼の表情は降谷零に戻っていく。ここまで来れば、チェックメイトも同然だった。甘く、優しく、そうして一ノ瀬名前の心に寄り添い、話を聞くだけ。手元のスマホに飛び込んできた別件の動きに対して指示を送りながら、そうしてしっかりと二人分のドリンクを購入し彼はコンビニを出ていく。

 いよいよ本題に入ろうか。彼の表情は安室透に、そして思考はバーボンに。名前の秘密を暴いていくことに、僅かな高揚感をも感じながら、彼は運転席のドアを開けた。