からっぽのお城にひとりきり



(轟)



「 焦凍くん! 」


俺よりも背の低い彼女が俺を見上げて笑う。俺も笑って返事をする。なまえに名前を呼ばれて初めて、俺は自分の名前を特別なものだと感じるようになった。たったの4文字。誰に呼ばれようと何も思った事は無かった自分の名前が、愛しい人の唇から紡がれるだけでこうも変わるのかと驚いたものだ。焦凍くん、焦凍くん、焦凍くん。柔らかな声でなまえに呼ばれる自分の名前は、好きだ。


−−−だけど。


『……ごめん、ね、焦凍くん』


頭の中をあの甘く優しい声で満たしたいのに、頭を埋め尽くすのは耳に届くか届かないか、泣いて泣いて掠れたなまえの声。


−自身の微かに乾いた唇に触れる。好きな人とするキスが幸せなものだと教えてくれたのもなまえだ。なまえとのキスは甘い。馬鹿みたいに夢中になってなまえの唇に食らいついて、真っ赤に腫らしてしまった事もあった。彼女自身の唇が甘いからキスも甘くなるのかと思っていたけれど、違ったな。

最後のキスは涙の味がした。
初めてなまえからキスをしてくれたのに、微塵も甘くなんて無かった。


あの日から何日が経った?分からない。自分が今どうやって動いているのかも分からない。ただ、止まった瞬間に思考の海に溺れる事だけは確かだった。なまえの事しか考えられなくなって、身動きが取れなくなる。海の底に引きずり込まれ、二度と動けなくなる。


事務所に寝泊まりする日々が続く。あの日以来、家には殆ど帰っていなかった。家の中にはなまえが確かにそこにいた痕跡が残っていて、なまえとの思い出があまりにも多すぎて。……あの家に居ると、上手く息が吸えない。


なまえ、どうしてだ。
何故なんだ。
教えてくれ。
何で泣いてるんだ?


『……終わりに、しよう』


ああ、なまえの苦しそうな泣き顔が脳裏に焼き付いて離れない。俺は短いようで長い15分間を頭の中で何度も、何度も、繰り返す。あの日の観覧車に心だけが置き去りのまま。置いてきてしまったから、俺の胸にはぽっかりと穴が空いている。


なまえが泣いている。
−−−抱き締めてやりたいのに、抱き締められない。体が動かない。


なまえ。
なまえ。

……泣かないでくれ。


「……ッ」


目を開けると、すぐ近くに人の気配を感じた。寝起きで霞んだ視界にぼんやりとした人のかたちが浮かび上がる。

そこにいたのは、



「………………み、どりや?」
「!轟くん……!目が覚めたんだね!はあ……良かったよ……」
「……ここ、何処だ?」
「病院だよ。……覚えてない?轟くん、僕と話している途中に突然倒れたんだよ」
「倒れた……」
「原因は疲労と睡眠不足。……今日会った時に何か様子がおかしいと思ったけどさ、碌に休んでないんだって?君の事務所のサイドキックから聞いた」


眉を下げた表情の緑谷が「さっきまでここに居たんだけど、全然休んでくれないって君の事を心配してたよ」そう言って、ひとつ小さく息を吐いた。


「体調管理を怠って倒れるなんて初めてじゃない?轟くんらしくないね」
「……迷惑掛けて、すまねえ」
「……」
「……」
「…………''なまえ''」
「っ……!」
「君、魘されながらずっとうわ言のように呟いてたよ。……何か、あったの?」


ギ、と椅子が軋む音が響く。緑谷の澄んだ瞳に映る自分の生気の無さに驚いた。なまえと家で一緒に観た有名なゾンビ映画に、こんな奴が出て来た気がする。画面にドアップになる度になまえは小さく悲鳴を上げて、俺の腕に縋り付いた。怖い怖いと言いながらも俺以上に夢中になって楽しんでいた姿を思い出す。こんな酷い顔をしてたら、次になまえに会った時に怯えさせるかもしれねえな。……次?次、なんて。


来ない。


「勿論無理に話す必要は無いよ。……でも今の君は……凄く苦しそうだ」
「……」
「話してもどうにもならないかもしれないけど、少しは楽になるかもしれない。……僕で良かったら、聞くよ?」
「…………」
「……轟くん?」


「大切だと……ずっと側に居たいと思える存在に初めて出会ったんだ」


彼女に、恋をした。

なまえの存在は俺にとって、優しく降り積もる雪のようだった。触れ合うところから溶けて、ひとつになる。ずっと触れていたい。触れていて欲しい。なまえが笑う度に心の奥底から愛おしいという感情が湧き上がり、誰よりも近くで守りたいと思った。


−けれどあの日、彼女を泣かせてしまったのは他ならぬ俺だ。両の瞳を端から徐々に赤くさせ、堪え切らない涙を落とすなまえの姿は痛々しく、そして、全身で俺を拒絶していた。


''触れないで''。

''何も聞かないで''。


「……じゃあ轟くんはちゃんと理由も聞かないまま、なまえさんと別れたの?」
「問い詰めたらなまえがもっと泣くと思ったんだ……それが、怖かった」


景色が滲んで、体が冷えていく。離したくない。終わりになんてしたくない。けれど、俺たちが乗った観覧車は地上へと戻ってきてしまった。閉園を告げるアナウンスと共に、あの美しい光たちはただの暗闇に戻ってしまう。

去っていく後ろ姿を何故見送ってしまったのか。抱き寄せて「嫌だ」と言うべきだった。彼女を泣かせる事になっても、きっと引き止めるべきだった。
−−−それが、出来なかった。


「……いや、一番怖かったのはなまえを泣かせてしまう事じゃねえ。……俺は、あれ以上なまえに拒絶されるのが怖かったんだ」


初めて抱いた後、俺の傷跡に触れて柔らかく微笑んだ彼女を一生愛し抜こうと誓った。なまえは''俺''を見て、''俺''の名前を呼んでくれた。その事実に俺がどれだけ救われていたか、なまえはきっと知らない。


『何も返せなくてごめん』?
貰っていたのは俺の方だ。


「轟くん……」


思わず掌で顔を覆う。幸せは失って初めて気付く小さな不幸、か。

ああ、本当にその通りだ。