焦凍くんと遊園地デートをした日から、わたしの身の回りでは色んな事が起きていた。働いているカフェが大規模な改装工事を行う事になり、従業員はその期間は別店舗で働く事になったり、小説の続編の書籍化が決まったりと、それはもう色々だ。
別れを悲しむ暇も無く、忙しなく日々が過ぎて行く。今のわたしにはそれが有り難かった。忙しくしている方が余計な事を考えなくて済む。何も無い時間があると、すぐに焦凍くんの事を考えてしまうから。
−−−改装工事をしている間働いているカフェのある駅前には、大きなクリスマスツリーがある。点灯式を終えたツリーは夜になると色とりどりの電飾で彩られ、幻想的で美しいのだ。ライトアップされたツリーを見上げながら帰るのがここ最近のわたしの密かな楽しみだったりする。
はあ、と吐き出した白い息が夜空に溶けていく。冷たい両手をコートのポケットに突っ込んだ。……そろそろ手袋買わなきゃなあ……。
指先で触れたスマホがバイブして、通知を受け取った事を伝える。ポケットの中から取り出すと、そこに表示されていたのは後輩ちゃんの名前だった。
「−……もしもし?」
『あ、なまえさん出た!』
「どうしたの?何か用事?」
『なまえさん、今って仕事終わりですか?』
「うん、そうだよ」
『XX駅のすぐ近くの居酒屋で何人かで飲んでるんですけど、良かったら来ませんか?っていうか来て下さい!』
「えー……いきなりだなぁ……」
『どうしてもなまえさんに来て欲しいんですっ!お願いしますー!』
『なまえさんが来てくれないと泣いちゃいますー!』と電話の向こうで泣き真似をし始めた後輩ちゃんは良い感じに酔っているらしい。あはは、と苦笑を漏らしながら''行かないと後で面倒臭そうだなあ''なんて事をぼんやりと考えた。
別にこの後何かある訳でもないし、いっか。「分かった、今から向かうね」と伝えると『はーい!待ってますね!』と電話を切られた。……切り替え早いなあ。
ふう、とまたひとつ白い息を吐く。
指定された居酒屋の場所をスマホで確認して、目的地へとゆっくり歩き始めた。
***
(轟)
倒れた一件以来、緑谷にはすっかり心配を掛けてしまってるらしい。もう倒れる程の無理をするつもりは無い、と言っても半ば無理矢理オフの日を合わせ、俺を外へと連れ出すのだ。……お節介な奴。
そして今日も「夜ご飯でも一緒にどうかな?」と誘われ、緑谷がずっと気になっていたという店に夕飯を食べに来ていた。
連れて来られた小さな洋食店。席数はあまり多くはなかったが、その殆どが埋まっていた。案内されたテーブル席に座ると、向かいに座った緑谷が上着を脱ぎながら「待たずに入れて良かったね!」と気の緩む笑みを見せた。
「テレビでここのお店のビーフシチューを特集してて、それが凄く美味しそうでさ!」
「そうなのか」
「うん!轟くんもあの番組見てたら絶対食べたい!ってなったと思うよ」
「それは……楽しみだな」
緑谷が絶対に美味しい、と言うビーフシチューを二つ注文して、冷えたグラスに口を付ける。
「今年の冬は寒いよね」
「っつーか年々寒くなってるよな」
「僕寒いのは苦手だから、これ以上寒くなられると困るんだけどなー……」
「来週、雪降るかもしれないんだろ」
「みたいだね!ホワイトクリスマスになる可能性が高い、ってニュースで見たよ」
「ホワイトクリスマスか……」
そんな話をしている間に、注文したビーフシチューが「お待たせしました!」という言葉と共に目の前に置かれた。匂いと見た目だけでもう、美味しいことが分かってしまう。自然と口の中で唾液が分泌されて、腹がきゅう、と可愛らしい音を立てた。緑谷に視線を向けると、それはもう幸せそうに頬が緩んでいて。
その表情につられるように、口元が綻んだ。
「美味しそうだね、轟くん!」
「ああ……冷めないうちに食うか」
「うん!いただきます!」
「いただきます」
手を合わせ、スプーンで一口分すくって口元に運ぶ。口の中に広がる濃厚な味に一瞬手が止まった。蕎麦以外で食べ物に特に拘りは無かったが、このビーフシチューは素直に美味しいと思った。食べる度に体の内側から温まっていく。
「美味いな、」
なまえにも食わせてやりてえな。寒がりななまえは温かいビーフシチューを食べたらきっと「美味しいね、」と幸せそうに笑うんだ。それを見るだけで俺は腹一杯になっちまう。なまえの顔を見るだけで満たされちまって、普段の半分くらいの量しか入らないかもしれねえ。じっと見てると「そんなに見られたら穴が空いちゃいそう」と困った顔で言うんだ。そんな顔も好きだ。笑った顔も、困った顔も−。
「……轟くん、大丈夫?」
「?何がだ」
「……気付いてないの?」
「だから、何が、」
「君、泣いてる」
ああ、何か塩辛いと思ったら。頬に手を当てると、思った以上に濡れていた。眉を下げた表情の緑谷が「でも、確かに泣けちゃうくらい美味しいね」と微笑んだ。まあ、うん、そういう事にしておいてくれ。
「……あのさ、轟くん」
何とかビーフシチューを食べ終えると、黙っていた緑谷が言い出しにくそうに口を開いた。
「あまり他人が口を出す事じゃないって分かってるんだけど、僕……君達はちゃんと話をした方が良いと思う」
「……」
「……君の話を聞いてからさ、僕なりに考えてみたんだ。実際の二人を見た訳じゃないから何とも言えないけど、でも……なまえさんは、本当に君と別れたかったのかな?」
「……どういう意味だ」
「轟くんに見せたいものがあるんだ」
緑谷が鞄から取り出したのは週刊誌だった。パラパラとページを捲り「このページを見て」と開いた状態で渡される。受け取って視線を落とすと、そこに書かれていたのは『ショートとクリエティ、遂に撮られたお家デート!』という反吐が出る程くだらない記事だった。
俺と八百万は勿論そんな関係では無く、ヒーロー仲間のひとりに過ぎない。が、世間はやたらとプロヒーローのスキャンダルを好むのだ。高校の時から交流があり、プロヒーローとして活躍し始めてからも現場が同じになったり、一緒に仕事をする機会が多い俺と八百万を世間は''そういう関係''にしようとした。ありもしない噂が次から次へと湧き、否定してもキリが無い。その内、俺達は否定する事をやめた。有り得ない噂に噛み付くからより一層疑われるのだ。
最近は大分落ち着いたと思ってたんだが……。
「この写真、まるで二人きりみたいに撮られてるけど……1-Aの皆で八百万さんの家に集まった時のだよね?」
「……ああ……」
「……君と八百万さんに何も無いって分かってる上で言うけど……この記事をなまえさんが見たらどう思うかな?」
「、」
「この雑誌が発売した時期と、君がなまえさんと別れた時期……一致するんだ」
キィン、と耳鳴りがした。喉の奥から吐き気にも近い何かが込み上げてくる。''あの日''の出来事が脳裏を駆け巡る。なまえの表情や、泣きながら言われた言葉。
『焦凍くんのせいじゃない……、わたしが……一緒には居られなくなっちゃったの……』
なまえが別れを告げた理由が、この記事を読んで俺と八百万の関係を勘違いしたから、だとしたら?
「……俺の、せいじゃねえか……」
「……ちゃんと話した方が良いよ。このまま別れてしまったら、きっと一生後悔する事になると思う」
「……」
「僕は、君となまえさんがこのまま終わってしまうの嫌だな。……それに僕、轟くんをここまで骨抜きにしたなまえさんに会ってみたいんだ」
「……緑谷」
「向き合うのは怖いと思うけど、きっと大丈夫。……なまえさんの事を話す君は、僕が見てきた中で一番幸せそうだったよ」
「あれは、一方的な感情だけじゃ出来ない顔だ。君は、確かに愛されてる」
すっかり氷が溶けてしまった水が、グラスの中でちゃぷん、と波立った。
***
後輩ちゃんに呼ばれて向かった居酒屋に着くと、そこには後輩ちゃんと知らない男性が二人が飲んでいる姿があった。え、これわたしお邪魔じゃない……?わたしに気付いた後輩ちゃんは「あ、なまえさん待ってましたよー!」と立ち上がる。
「え、何で帰る準備してるの……!?」
「んふふ、邪魔者は退散します!後は二人でごゆっくり!」
「ちょっ、ちょっと待って……!」
何故か帰ろうとする後輩ちゃんを引き止めて「知らない人と二人きりにされても困るよ……!」と顔を寄せて告げる。後輩ちゃんはわたしの肩をがしりと掴んで「なまえさん、失恋には新しい恋ですよ!」と真剣な顔で言った。あ、新しい恋……!?
「あの人、新店の隣にあるケーキ屋で働いてる春宮さんなんですけど……なまえさん、覚えてません?」
「い、言われてみれば……挨拶された気が……」
「もーなまえさん、もっと周りの人間に関心持って下さいよー!」
「ご、ごめんなさい……?」
「まあいいですけど!わたし春宮さんになまえさんの事が気になるから話す機会を作って欲しい、ってお願いされちゃって!今日はそれでなまえさんを呼んだんです」
「え、ええー……っ」
そんな事急に言われても困るし、春宮さんとやらと二人きりにされるのはもっと困る。……それなのに後輩ちゃんは「頑張って下さいね!」とか何とか言って、わたしを置いて本当に帰ってしまった。
「……あのさ、取り敢えず座らない?」
「……えっと……はい」
−−−わたしなんかのどこが気に入ったのかは分からないけれど、春宮さんは君と話してみたかったんだ、と優しい笑みを向けてくれた。「みょうじさんが今の店舗に居る間に何とか繋がりを持ちたくて、」と照れたように言う彼に、恋愛経験の少ないわたしはそれはもう動揺した。
「みょうじさんの事、初めて見た時から可愛い子だなって思ってたんだ。……連絡先だけでもいいから交換してくれないかな?」
「え、っと……」
……こんなチャンス、もう無いかもしれない。春宮さんは普通に格好良い。こんな人がわたしを気に入ってくれている。奇跡のような出来事だ。『失恋には新しい恋』という後輩ちゃんの言葉を思い出す。…………新しい恋をしたら、忘れられるのかな。
忘れて、しまうのかな。
胸の痛みを誤魔化すように「連絡先くらいなら、」と笑みを作って机の上に伏せていたスマホを持ち上げた。
−−−嘘、何で?
画面には通知が二件。
着信があった事を知らせる通知と、
『会って、話がしたい』
というメッセージ。
−……どちらも焦凍くんからだ。
「−……みょうじさん?」
「っ……」
−−−焦凍くんとの繋がりは全部断とうと思ってた。でも、どうしても連絡先だけは消せなかった。わたしの中から完全に焦凍くんが消えてしまう事が怖かったのだ。彼との些細なやり取りが幸せだった。わたしはまだ、幸せだった日々に惨めに縋り付いている。
ああ、全然駄目だ。
連絡ひとつで取り繕えないくらい、心が乱されてしまう。
焦凍くんはわたしの心から居なくなるどころか、大きくなり続けていた事を今、思い知らされた。
「……ッごめんなさい、連絡先、交換、出来ないです……」
心の容量は焦凍くんでいっぱいなのに、新しい恋なんて出来ない。他の人を好きになれる訳なんて無い。頭を下げて謝るわたしを見て何かを察したのか、春宮さんは「そっか、残念だなぁ」と眉を下げて笑ってくれた。
−−−家に着くと、何もしないでそのままベッドに倒れ込んだ。着替えるのも、お風呂に入るのも、メイクを落とすのも全てが億劫だ。
焦凍くんからのメッセージには返信していない。既読も付けてないし、勿論電話も掛け直してない。
会えない。会っちゃいけない。
好き。大好き。会いたい。好き。
次に焦凍くんの顔を見たら、わたしきっと、好きって言葉を我慢出来ない。
「しょーとくん、……しょーとく、……すき、……すき、なの……っ」
枕に顔を押し付けて嗚咽を殺す。
身の丈に合わない想いを抱いてしまうこんな心は、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまえたら良かったのに。
……好きになってくれる人だけを好きになれたら、良かったのに。