カランと落ちた恋の音



(轟)


「今あなたは幸せですか?」と聞かれたら、俺は迷いなく「ああ、幸せだ」と答えるだろう。部屋の中に薄っすらと香るなまえの残り香が、確かに彼女が数分前までこの部屋に居たという事実を感じさせて頬が自然と緩む。


轟焦凍、22歳。
職業はプロヒーロー。
今日−−−『恋人』が出来た。


なまえとの初めての出会いは、事務所のすぐ近くに出来た小さなカフェだった。隠れ家的なそのカフェは、客層も落ち着いているし何より珈琲が美味い。一人で落ち着きたい時、ゆっくり休憩したい時に良く利用していた。

そのカフェで彼女が働き始めたのは、店が出来てから三ヶ月経ったくらいだったか。最初は鈍臭くて危なっかしい店員だな、という印象だった。笑顔もぎこちなくて、珈琲を淹れる手つきも覚束ない。「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も噛むし、何もないところで躓いてる。いつも緊張した表情の''みょうじ''という名前の店員に接客される度、『大丈夫か、この店員……』という気持ちが強くなっていった。

そんな見ていてハラハラとするような彼女だったけれど、他の店員や常連客からは良く可愛がられていた。いや、弄られていた、と言った方が正しいか?確かに彼女が居ると店の雰囲気は柔らかくなって、いつも以上に穏やかな時間が流れているように感じる。まあ、俺にとっては居ても居なくてもあまり関係のない存在。迷惑を掛けられなければそれでいい、と思っていた。


徐々に慣れてきた彼女は、ミスをする事も言葉を噛む事も少なくなってきた。ガチガチに固まっていた表情も解れてきて、こちらの気が緩むような笑みを時々見せてくる。……前から思ってたけど、なんか小動物みてえだな。ちょこまかとカウンターの中を動き回って、周りに褒められると嬉しそうにへにゃりと笑って。……そして、気が付いた。無意識に彼女を目で追っている自分に。店に寄ると、彼女が居ないか探してしまう。接客されると嬉しくなる。彼女が淹れた珈琲はいつも以上に美味く感じて、普段だったら食わねえのにお勧めされたケーキも頼んだりして。

営業スマイルだと分かっていても、笑顔を向けられると嬉しくなった。他の客に笑顔を見せてるのを見ると、胸のあたりがムカムカとした。


−その日は、事務所に行く前にいつもと同じようにカフェに立ち寄った。店でゆっくりする時間は無かったから、テイクアウトでアイスコーヒーを頼んで。

(……今日は何か、機嫌良さそうだな)

笑顔でオーダーを受けたみょうじさんに、この笑顔だけで今日の仕事も頑張れそうだな……なんて事を考えた。知らぬ間に彼女の存在が自分の生活の一部になっている。みょうじさんがもしもこの店を辞めたら、俺はきっとこの場所には来なくなるのだろう。

「お待たせしました、アイスコーヒーです」

テイクアウト用の透明な容器の中で、氷が揺れる。

「……犬、」

思わず口にしていた。受け取った容器に描かれていたのはデフォルメ化された、笑ってる犬のイラスト。なんかみょうじさんみてえだな、と少し失礼なことを考えて頬が緩む。

「……今日のは、可愛く描けました。これからお仕事ですか?頑張って下さいね」

少し頬を赤く染めたみょうじさんが笑う。イラストの犬と同じその表情を見た瞬間、俺は自分の気持ちをようやく自覚したのだ。


ああ、俺は彼女に恋をしている。


自覚してからも毎日は変わらず過ぎて行く。彼女との接点を欲しながらも、俺とみょうじさんの関係はただの店員と客でしかなくて。常に身バレ防止の為に、眼鏡や帽子を被っている俺は彼女に認知されているのだろうか?っつーか急に客に連絡先とか聞かれたらビビるよな……。でも知りてえ。親しくなりたい。見つめるだけの日々には、限界が訪れようとしていた。


そんな時だった。
『あの日』がやって来たのは。


彼女とぶつかったのも、鞄が入れ替わったのも本当に偶然で。でも、運命だと思った。神様が与えてくれた千載一遇の好機だと、そう思った。俺は何としてでもこの好機をモノにしなければいけない。

すまねえ、と思いながらも開けた鞄の中は、原稿用紙と本が数冊。道理で重いわけだ。俺は、何気なく手に取った本のタイトルを見てギョッとした。……これは、女性向けのエロ本か?『彼氏が絶倫過ぎて困ってますッ!』『せんせい、おしえて…?』……こんなモノを持って何処に行く予定だったのだろう。試しにぱら、とページを捲ってみるとタイトル通り、中身も中々アレな内容だった。あのほわほわとした彼女がこれを読んでんのか?

そこで俺は気付く。鞄に入っていた原稿用紙に書かれた名前と、本に書かれた作者の名前は同じものだと。……名前は違うけどこれ書いてんのって、もしかしてみょうじさんだったりする……のか?本の後ろに書かれていたSNSのアカウントを試しに打ち込んでみる。本の作者−……つまり原稿の持ち主と思わしきアカウントが出て来て、……そのつぶやきを見て確信した。

『原稿の入った大切な鞄を無くしてしまった』

ああ、みょうじさんだ。これを書いてんのは、間違いなく''あの''みょうじさんだ。……勢いのままDMを送って、会う約束を取り付けて。それから改めて本を読んだ。投稿されてる小説も読破した。エロい事に興味ありませんみたいなかわいい顔してんのに、こんなやらしい事考えてんのかって、すげえ興奮した。これがギャップってやつか。益々好きになった。


店の外でみょうじさんと会える。それだけでも心が浮ついてんのに、私服のみょうじさんが現れた時、何もかも全部持っていかれた。破壊兵器か?なあ、もしかして地球を滅ぼすつもりなのか?ヒーローとしては止めなきゃなんねえけど、このみょうじさんになら滅ぼされても仕方ないと思える。あまりにも可愛すぎる。不安そうな表情もすげえ可愛い。

外で済まそうとするみょうじさんを何とか言い包めて、カフェに誘う事に成功した。ソワソワと落ち着かない様子のみょうじさんは、よっぽど俺に作品を読まれた事が嫌だったのだろう。頼んだミルクティーを早々に飲み干し、この場を直ぐにでも去ろうとする。それは困る。俺としては何としてでもこの場で彼女と親しくなって、この先に繋げたい。

彼女を引き止めるために、わざと小説の話題を出す。顔を赤に染めたり青に染めたりと忙しい。質問責めにすると、動揺した彼女は聞いてない事まで教えてくれた。……そうか、恋人は居ないのか。思わずほっと胸を撫で下ろす。落ち込んでいる彼女とは真逆で上機嫌になった俺は「リアリティに欠ける」と思ったままのことを口にした。……まさか、泣くとは思わなかったのだ。好きな女性を泣かせてしまった。やべえ、嫌われたか?

えぐえぐと子供のように泣く彼女は「自分に恋人なんて出来るわけない」と言う。何言ってんだ。今目の前に恋人になりたい男が座ってんだぞ?彼女は続ける。

「無責任なこと言わないで下さい!じゃあ轟さん恋人になって色々教えてくれるんですか!?」

殆ど反射で返していた。

「ああ、構わない」

売り言葉に買い言葉のようなやり取り。しかし、心からの言葉だった。冗談でしょう?と言う彼女に畳み掛けるように「真剣だ」「恋人になってくれ」という思いを伝える。戸惑っている様子のみょうじさんは、暫く思案して−……それから、頷いてくれた。''色々なことを教えて欲しい''と言ってくれたのだ。

浮かれた。顔には出さないように努めたが、それはもう浮かれた。奇跡は起きた。親しくなるキッカケどころではない。彼女は俺の''恋人''になってくれたのだ。ずっと見ているだけだった彼女が自分の恋人になった事実に高揚した俺は、みょうじさんを自分の家に誘い、無防備なその姿に我慢出来なくなって触れた。

彼女の小説に書かれていたような甘い言葉を囁くと、顔を真っ赤にしてその身を震わせる。俺の手から与えられる刺激に素直に反応を返してくれて、その度に小さな唇から淫らな吐息を漏らして。……なんだこの生き物は。触れるたび、自分の色に染まっていく。新雪を踏み荒らしているような、イケない気分になる。彼女に自分の名前を呼ばれると、優しくしてやりてえのに滅茶苦茶にしたい……そんな矛盾した感情に支配された。


そして俺は、彼女の初めての男になった。……小さな身体を抱き締めて、幸福感に浸る。甘い匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、なまえをずっとこの腕の中に閉じ込めてしまいたい、とらしくもない事を思った。


彼女の連絡先を指先でなぞりながら、ひとり微笑む。……次は、いつ会えんのかな。早く会いてえ。……なまえ。


「……好きだ、」


ぽつりと零した言葉が彼女に伝わっていないことに、俺はまだ気付いていない。