(心操)
気付けなかった。たった一つの事実だけが俺の心を確かに責め立てている。
−−思い返せば昼休み位から様子がおかしかったのだ。平気だよ、となまえが笑うからその言葉の通りに受け取っていた。こんなにも体調が悪いなまえに気付かず、体育祭の練習にいつも通り付き合わせようとしていた自分に腹が立つ。後、辛いのを隠して言い出さないなまえにもだ。
「今日は帰ろう、なまえ」
「だ、大丈夫だよ?少し休んだら楽になると思うし、そしたら」
「……駄目だ」
額に手を当てる。なまえ自身の個性の影響もあるのだろうが、それでも熱すぎる。
「その状態だと歩くのも辛いだろ。親に連絡して迎えに来てもらえないのか?」
「今日は二人とも夜まで仕事で……人使くん、わたし本当に大丈夫だよ」
「どこからどう見ても大丈夫って顔色じゃない。鏡見せてやろうか」
「……うぅ」
「迎えに来てもらえないなら俺が家まで送っていく。なまえが歩けないならおぶってやるし、俺が荷物とか持ってやるから……帰れそうか?」
「えっ、人使くんに迷惑掛けられないよ!」
慌てたように首を振るなまえに胸の辺りが騒ついた。頼ってもらえない、甘えてくれない。申し訳ないと遠慮するなまえに、親しくなった気でいたのは俺だけだったのかとほんの少しモヤッとした。騒つく心に追い打ちをかけるかのようになまえが言葉を発する。
「それにね、いざとなったら鋭ちゃんにお願いするから……!」
……''鋭ちゃん''か。
なまえの口から最も聞きたくない名前だ。ヒーロー科に宣戦布告しに行った時に見た、燃え上がるように真っ赤な髪の男。ヒーロー科に入る実力や個性を持っていて、なまえという幼馴染が幼い頃からいつも隣に居る、恵まれた存在。なまえと過ごしていると思い知らされる。切島鋭児郎という男が、如何に彼女の中で特別な存在なのか。
「幼馴染は体育祭に向けての練習で毎日大変そうだってなまえ、言ってなかったっけ」
「う……うん……」
「じゃあ邪魔したら迷惑じゃないか?」
「……確かに」
「だから今日は俺を頼って、なまえ。迷惑なんかじゃないから」
目を真っ直ぐ見ながら畳み掛けるように言うと、なまえはゆっくりと頷いてくれた。言い知れぬ気持ちが込み上げてきて、それを誤魔化すように咳払いをする。
幸いなことになまえと俺の家は方面が同じだ。少し休んでから落ち着いたなまえを連れて電車に乗る。丁度混み始めるくらいの時間帯に被ってしまった所為で席に座る事は出来なかった。電車が揺れる度にフラつくなまえの体を咄嗟に抱き寄せる。鼻腔をくすぐるのはいつもよりも濃く感じるなまえ自身の甘い匂い。体と体がぶつかった。熱で潤んだ瞳が申し訳なさそうに俺を見上げている。どくん、どくん。……まるでなまえの熱が移ったみたいだな。触れた箇所から熱を帯びていく自分の体にそんな事を考えた。
「……辛いなら、寄り掛かっていいから」
「うん、人使くんありがとう」
へにゃりと緩んだ顔が今日は何だかいつも以上に心臓に悪い。熱っぽい表情の所為だろうか。ーー電車が駅に止まる。降りる人よりも乗ってくる人が多い所為で一気に人口密度が高くなった。これでもかと人が詰め込まれた車内で、俺となまえの体は自然と密着する。こんなにも物理的に距離が近いのは二人で食堂に行った時以来だ。やたらと熱いなまえの体が隙間なく押し付けられ、制服越しに感じる女性的な柔らかさとなまえの匂いに脳が侵されていく。倒れないようにと俺の制服に縋り付く小さな手。電車が揺れる度に二つの柔らかな膨らみが俺の体に圧迫され押し潰されていくのが分かる。はあ、と吐息を漏らしながら俺の服をぎゅっと握り締めるなまえの姿を見て生唾を飲み込んだ。……弱ってる姿も可愛いな。それに、甘えられているみたいで嬉しい。まるで恋び……。そう考えた瞬間、ハッと我に返った。具合の悪い女の子相手に何考えてんだ、俺は。それになまえは友達だ。まるで、ってなんだよ、まるでって!
倒れないようにと背中に回した手が唐突に行き場を無くす。本当はしっかりと抱き寄せたい。
でも今触れてしまったら、きっと。
−−戻れなくなる。
そんな予感に、汗ばんだ手のひらを強く握り締めてぐっと堪えた。
***
電車から降りた後もなまえの辛そうな様子は変わらなかった。寧ろ電車の所為で悪化している気がする。それでもなまえが「全然平気だよ」と気丈に振る舞うから俺の胸はぎゅっと苦しくなる。なまえの家が駅からそう遠くはなかった事が救いだ。暫くはふらつくなまえの体を支えながら歩いていたけど、今は恥ずかしがるなまえを言い包めて俺の背におぶっている。
「ご、ごめんね……重いよね……」
「重くないって」
「こんな事になるならダイエットしておけば良かったあ」
「……ダイエットなんてする必要ないよ」
首筋に触れる息が熱っぽくて、喋って気を紛らわせていないと意識し過ぎてしまう。ぽつり、ぽつりと会話をしながらゆっくり歩いていたけれど、その内なまえの口数が少なくなってきて名前を呼んでも返事に数秒の間が空くようになった。
「なまえ、大丈夫?」
「うん…………だいじょうぶ……」
「家、この通りで合ってるよな?」
「……ん、わたしの家……そこ……」
何だ、思ったよりも近くまで来ていたのか。ほっと胸を撫で下ろし「鍵、開けてやるから貸して」と背中でぐったりしているなまえから家の鍵を預かる。
家の中まで入るつもりはなかったけれど、こんな状態ではベッドまで辿り着けないのではないだろうかと思案する。女の子の家に足を踏み入れるという罪悪感と少しの間戦い、ここまで来たなら最後まで、と自分の中で結論を出した。
なまえをおぶったまま「お邪魔します」と言いながら家の中に足を踏み入れ、部屋の場所を訪ねる。
教えてもらった部屋の扉を開けると、そこには俺の部屋とは全然違う光景が広がっていて少しドキリとした。女の子の部屋だ。全体的に可愛らしい印象を受ける部屋なのに、壁にはヒーローのポスターが貼ってあったり、棚には所狭しとヒーローフィギュアが飾ってあったりと良い意味でなまえらしさを感じる。−−どうでも良いけど部屋に入った瞬間、凄くいい匂いがした。
邪な考えを振り払いながら、なまえを下ろしてベッドに横たわらせてやる。
「辛いのに良く頑張ったな、なまえ。薬は保健室で貰ったのを飲んだから大丈夫だと思うけど」
「ん、人使くん、本当にありがとう……」
「俺が好きでした事だから。何か欲しいものとか無いか?コンビニで買ってくるけど」
「だいじょうぶ……寝てれば、治るから……」
「……そうか」
うつらうつらとしているなまえの顔に掛かった前髪をそっと退けてやる。「手、気持ちいい」と微笑まれたからそのままそっと頭を撫で続けた。
「ひとしくん、」
「……どうした?」
「……んぅ……」
「…………寝たのか」
すう、すう、と規則的な寝息を立てているのを見て口元が緩む。髪を撫でていた手をしっとりと汗ばんだ頬へと滑らせた。……睫毛長いな。女の子の寝顔を観察するのはどうかと思ったが、惹きつけられたように目が離せなかった。
なまえを形成するパーツはどれも小さくて可愛らしい。耳も、それから唇も−−。親指でそっと触れた唇は驚く程柔らかくて、その感触に心臓が激しく脈打った。
……自分でもどうしてそんな事をしてしまったのかは分からない、が。俺は無意識の内になまえの唇に自身の唇を……重ねていた。
本当に一瞬の出来事だった。なまえの睫毛が微かに震え、慌てて体を離す。
……俺、今なまえに何をした?自身の唇に触れる。どくん。どくん。心臓の音がうるさい。唇に残った熱が体全体に広がっていく。
ーーその後自分がどうやって家に帰ったのか、全く覚えていない。ただ、眠るなまえの唇を奪ってしまったあの瞬間が頭から離れなくて、あの柔らかさをいつまでも忘れる事が出来なくて。
結局、俺は一睡も出来ずに朝を迎える事になってしまった。