(切島)
なまえから『体調を崩したから今日はお休みするね』と連絡が来たのは今朝の事だ。なまえの事が心配で一日中心ここに在らず状態だった俺は学校を終えるとすぐになまえの家へと向かう事にした。
なまえの部屋のドアを二回ノックする。「はあい、」という返事と一緒に扉が開いて、まさか出迎えられると思ってなかった俺は動揺した。病人だというのに起き上がっているなまえに慌て、強引にベッドへと戻らせる。
「ちゃんと寝てないと駄目だろ!」
「もう熱も無いし大丈夫だよ?」
「……本当か?」
「うん、薬のお陰ですっかり元気!……あの、鋭ちゃん。大変な時期なのに心配掛けちゃってごめんね」
「なんで謝るんだよ。俺が来たかったから来たのに」
「大事な幼馴染が体調崩したら心配すんのは当たり前だろ」と眉を下げているなまえの頭を撫でると、へにゃりと力の抜ける笑みを返された。……久し振りになまえに触れた気がするな。胸が甘く疼く。体育祭が近付くにつれ、なまえと過ごす時間は減っていた。抱き締めてなまえ成分を補充したい、なんて事を考えながら髪から手を離す。ああ、名残惜しい。
「起きたら調子が悪かったのか?」
「ん……昨日のお昼休み位からちょっと熱っぽくて」
「何で昨日言わねーんだよ。連絡くれたら家まで送り届けたのに」
「鋭ちゃんに迷惑掛ける訳にはいかないと思って……あ、でも同じクラスの子が送ってくれたから」
その言葉に指先がぴくりと反応した。なまえの顔を見ると、大きな瞳を瞬かせている。−−送ってくれた?嫌な予感に胸の辺りが騒つく。
「なァ」
「?」
「……クラスの子、って……男か?」
頷いたなまえにじくじくと胸が痛んで、叫び出したくなる。なまえが俺を頼らなかった。その事実だけでも苦しいのに、辛い時に頼ったのがクラスメイトの男?それも家まで送ってもらった、って。
「……あの、鋭ちゃん?」
「……部屋に入れたのか」
「うん、人使くん、お部屋まで送ってくれたから……っきゃ!」
−−なまえに覆い被さったのは殆ど反射に近かった。腕の下で困惑の表情を浮かべているなまえが俺の名前を呼んでいる。心臓の音がうるせェ。頭に血が上って、くらくらする。苛立ち、不安、悲しみ。負の感情が混ざり合って、それを抑え付けて吐いた言葉はなまえを傷付ける鋭利な刃の様だった。
「え、鋭ちゃん……?」
「人使くんにされなかったか?こういう事」
「されてないよ……っわたしすぐに寝ちゃって、だから人使くんもすぐ帰ったみたいで、」
「……ああ、じゃあなまえが寝てる間に何かされたかもしれないよな」
「……っえいちゃん、い、痛い、よ」
「なまえは眠りが深ェからさ、何かされたのに気付いてないって可能性もあんだろ?」
俺に押し倒されたってなまえは不安そうな顔で見上げるだけだ。抵抗一つしようとしない。俺はなまえが昨日知らない男にこのベッドで押し倒されていたかもしれないと想像するだけでどうにかなりそうなのに。俺以外の男がこの部屋に入ったってだけでも許せない。ここは俺となまえが過ごして来た大切な場所で、俺となまえだけの、場所だった筈で。
腹の中をぐるぐると渦巻く不快な感情のせいで、押さえつける手に力が入っている事に気付けない。いつも心を穏やかにしてくれる筈のなまえの言葉は全て耳を通り抜けていって、俺は体調が悪いなまえ相手に一方的な感情をぶつけてしまう。
「なまえ、お前はもっと危機感を待つべきだ。何かされてからじゃ遅ェんだぞ」
「何かって……ん、」
「こうやって男に組み敷かれたらどんなに抵抗しても逃げられないって、ちゃんと分かってんのかよ」
「え、鋭ちゃん、やだ、何でこんな、」
「お前が気付いてないだけで周りの奴らはお前にこういう事がしたいって思ってんだよ!」
酷い事をしている。怯えさせている。分かっているのに止まれない。ぐ、と体を寄せた俺に対して顔を背けるなまえに込み上げてくる感情の名前を俺は知らない。
−−晒された白い首筋に噛み付くとなまえの目尻からはらりと涙が伝った。それでも、なまえは抵抗しない。白い肌に真っ赤な噛み跡を残されて、けれど耐えるように身を震わせて泣くなまえを見た瞬間、一気に体の熱が引いて自身の顔がサッと青くなったのが分かった。
俺は、何をして……!
慌てて体を起こすと、なまえの涙で濡れた瞳が俺を見た。そこにあるのは怯えでもなく、嫌悪でもなく−−不安だった。
「なまえ、ごめ」
「鋭ちゃん、ごめんなさい……わたしのこと嫌いにならないで……」
「嫌いにって……」
「わ、わたしが悪いことしたから怒ってるんだよね……?」
「……ッ違う……違うんだ!なまえは何も悪い事なんてしてない……ッ俺が……俺が、勝手に……」
−−すべて醜い嫉妬心のせいだ。俺が一人で勝手に傷ついて、嫉妬して、感情を一方的に押し付けて。冷静になるのと同時に大切ななまえに取り返しのつかない事をしてしまった事を知る。
汚い自分をなまえに見せてしまったという事実が恐ろしい。彼女の澄んだ瞳を通したら、きっと、俺はバケモノに見えている筈だ。
−−見ないでくれ、こんな俺を。
思わず逃げようとした体は、同時に体を起こした彼女に抱き着かれた事で硬直した。
「ッ、」
「鋭ちゃん泣かないで……鋭ちゃんが泣くとわたしも苦しいよ」
「っ、やめろ……やめてくれ……俺はお前に抱き締めてもらう資格なんてねえ……!」
俺の胸に頬を寄せたなまえの体は熱くて、その熱が触れ合った肌を通して心に染みていく。この温もりを無くしたくない。誰にも奪われたくない。彼女の隣に居られる安らぎを、失いたくない。
なぁ頼むよ、神様。俺からなまえを奪わないでくれ。他の物なら何だってやるから。彼女は、彼女だけは−−。
「なまえ、何処にも行かないでくれよ……俺の隣にずっと……」
「何処にも行かないよ?わたしはここにいるよ」
「違うッ……違う……!俺は、お前が……」
溢れる思いの丈をぶつけようとして−−……止めた。言葉を待つなまえの瞳が''大切な幼馴染''を不安そうに見上げていたからだ。同時に視界に入った痛々しい首筋の噛み跡が胸を締め付けて、紡ぐ筈だった言葉を全て消し去ってしまう。
「鋭ちゃん……?」
「……本当に、ごめん」
噛み跡にそっと指で触れるとなまえは肩を跳ねさせ、それから俺の手に自分の手を重ねてきた。
「大丈夫だよ、全然痛くないよ」
「……なまえが俺じゃない誰かを頼ったって聞いたら、なまえがそいつに取られちまう気がして、一人で焦って……酷い事した。俺、最低だ」
「ううん。わたしだって鋭ちゃんに頼ってもらえなかったら寂しくて悲しいと思う。……思わずがぶーって噛み付いちゃうかも」
冗談めかして言うなまえの優しさが痛くて、持ち上げた口角はひくりと引きつった。近いのに遠くて、俺だけが醜く歪んでいく。
「ねえ鋭ちゃん。……今度はちゃんと鋭ちゃんを頼るから……また甘えてもいい?」
「あ、たり前だろ」
「……えへへ、良かったあ」
俺の腕の中で微笑む大切な、なまえ。
「……鋭ちゃんは大切な幼馴染だもん。これからもずうっと仲良しでいたいよ」
……ああ、これは''幼馴染''という呪いなのだ。俺はこうして彼女を抱き締められる代わりに、呪いに掛かっている。他の誰よりも近過ぎる俺達は、子どもの頃から時が止まったまま。
彼女との距離がこれ以上離れる事を恐れて、俺はまた自分の感情に蓋をした。二度と暴走しないよう、厳重に。
「……ああ。……大切な……幼馴染、だからな」
……どの口が言ってんだ、畜生。