やさしい楽園のちいさなひずみ:死柄木
(死柄木) ※入学前



どうしても、忘れられない女がいる。いや……その女の事が忘れられないって言い方は違うか。正しくはその女の''匂い''だ。たった一度すれ違っただけ。それなのに、あの匂いが脳裏に鮮烈に焼き付いて離れない。何かを思い出させるような甘い香り。制服を着た女は、中学生か高校生くらいか。同じ制服を着た黒髪の男と楽しげに話すその横顔もハッキリと覚えている。見た目だけで言ったら何処にでも居そうな餓鬼。ただやたらと耳に残る笑い声と、不意に思い出すあの匂い。あれから胸が騒つく。いつも以上に苛々する事が増えた。すれ違っただけの、名前も知らない存在。あの女の事を考えると苛立つ。なのに何故かあの香りを思い出すとそれが治まるという矛盾。

がり、と首に爪を立てた。


***



「……あの……良かったらこれ、使いますか?」

雨に混じって、甘い香りがした。顔を上げるとそこには眉を下げた表情で傘を差している女の姿。ああ、……あの時の、女。雨で匂いが薄れているのが惜しいが、ジリジリと胸を焦がすあの香りがする。

す、と差し出されたのはビニール傘だった。何の変哲も無い、その辺のコンビニに売ってるようなヤツ。

「これからもっと雨、強くなるみたいですよ。……風邪、引いちゃいます」

見知らぬ人間に傘を差し出す愚かな女。今の世の中が生んだ偽善者気取りの人間。ああ、ああ、ムカつくなあ。何かされるなんて微塵も思ってなさそうな呑気な顔が、雨に濡れる俺のことを心から心配してますみたいなその顔が。……苛々とする。

「……その傘、俺に渡しちゃっていいんだ?」
「大丈夫です!使ってないのを家から持ってきたので!その傘はお兄さんにあげます。……それでは、」

「なぁ、何で俺に声掛けたんだよ」


去ろうとする腕を咄嗟に掴んだ。崩さないよう、四本の指で。女と目が合う。特に特徴がある訳じゃない。改めて、平凡な女だと思った。でもその目で見られると身体中がゾワゾワとする。全身を何かが這いずり回っているような、気持ち悪さにも似た感覚が襲う。ただその感覚は、快感にも近い気がした。女が自分を見ているという高揚感。その瞳の中に自分が入っている。


「お兄さん……朝も全く同じ場所に座ってましたよね。……何時間もずっとそこに居るのかな、と思ったら気になっちゃって」
「……」
「雨降って来たのに、傘も差さずにそのまま座って居たので……せめて濡れないで欲しいな、と思ったんです」


「使わなかったら捨てちゃって構わないので、」と言ってへらりと笑い掛けてくる。イカれてる、と思った。普通じゃない。この女はイカれてる。ずっと公園のベンチに座ってるような男に声掛けるか?気味悪がって近付かないのがフツーだろ。見て見ぬ振りをするのがどう考えたって正しい選択だ。しかも、わざわざ俺に渡す為に傘を取ってこの場所に戻って来たって事だろ?はは、頭おかしいな。どんな教育されたらこんな人間に育つんだよ!思わず笑ってしまう。

心配そうな眼差し。
苛立つのに、酷く心地が良い。
ああ、またこんな所にも矛盾だ。


ひとり口元に薄っすらと笑みを浮かべ、立ち上がる。突然立ち上がった俺に、女は瞳を瞬かせた。


「弔」
「……え?」
「俺の名前。お前は」
「……名前、ですか?」
「それ以外に何があるんだ?」
「……なまえです」
「なまえな、覚えたわ」


傘を持っていない方の手で、女の頬についていた水の滴を掬う。びくりと体を揺らしたなまえにくつくつと笑った。


「顔に付いてたぜ」
「あ、ありがとうございます……?」
「傘、借りとくわ。……なぁ、なまえ。俺優しいからさぁ、一個だけ忠告しといてやるよ」
「忠告……ですか」
「きっとお前は、今日俺にしたみたいにその辺に捨てられてる犬や猫にも同じように傘を差し出す。今までもそうして来たのかもしれない。……でもさぁ、そいつはお前の善意に牙を剥くかもしれないよ……?優しさに優しさは返ってこないモノなんだ。肝に命じておいた方がいいぜ」
「…………弔、さん?」
「なまえが生きて来た世界は、偽物なんだ。紛い物なんだ。この世界はそんなに優しくない。見て見ぬ振りが出来ないお前は、きっと沢山のものに傷つけられる。悪意に気付かず、手を差し伸べてしまうから……そう、」


一歩歩み寄って、なまえの頬に手を滑らせる。真っ直ぐに見つめてくるなまえを見ながらそのままその手を首元に当てて……笑った。


「俺だって、お前を殺すかもしれない」
「……」
「……ま、ジョーダンだけど」
「……冗談、ですか」
「はは、忠告だって言ってるだろ?この傘の礼に、教えてあげたんだ。……行き過ぎた善意は身を滅ぼす、ってなぁ」


この五本の指で触れたら、一瞬でこの女の命は終わってしまう。それなのに触れる事を簡単に許してしまう、どこまでも悪意に疎い女。……何処かで殺されていたっておかしくないのに、どうやって生きてきたんだろうなぁ。ああ、あの黒髮の男のような"ナイト''がいつも周りに居るのかな?

何が面白いのか自分でも分からないが笑えてくる。ああ、何だか酷く気分が良い。


「……次会った時に、ちゃぁんとこの傘は返してやるから」
「その傘は、弔さんにあげますよ」
「いや、返す。……多分また、すぐにでも会えるだろうから」


きっと、なまえと自分の間には何かしらの''縁''がある。善意の塊みたいなこの女は、もしかすると気付いてはいないが俺の悪意に惹かれているのかもしれない。俺が惹きつけられたように、自分とは何もかもが違う存在に、引っ張られているのかもしれない。綺麗なものを汚すのはきっと楽しい。白を黒に染め上げてしまえたら、どれだけ心地が良いだろう。

教えてやりたい。この世の汚さを。人の悍ましさを。見えていない部分を。

教えてやりたい。


この手で。