酔い潰れて眠ってしまったかっちゃんの肩にタオルケットを掛ける。潰れるまで随分と早かったな。机に頬をくっつけているその寝顔は決して安らかとは言えないけど、恐らくまともに寝ていなかったのだろう。ちょっとやそっとじゃ起きなさそうだ。
酒で火照った頬を手で扇ぐ。かっちゃんの微かな寝息だけが響く部屋で、僕はひとつ息を吐いた。
人工的な明かりで照らされた青白い顔。(「(なまえは」)(「俺みたいな弟さえ居なけりゃ、今頃幸せだったのか」)その呟きを思い出すと、吐き気にも似た何かがじわじわと体の奥底からせり上がってくる。シャツごと鳩尾の辺りを握り締め、身体をくの字に折り曲げた。
「僕も調子に乗って飲み過ぎたかなぁ」
はは、と唇から乾いた笑いが漏れる。憔悴しきった幼馴染の姿は僕の精神にまで影響を及ぼしているようだ。
「(かっちゃんはそこまで思い詰めてたのか)」
自分さえ居なければなまえちゃんは幸せだったのだろうと言いながらも、かっちゃんはなまえちゃんへの思いを消す事も出来ないしなまえちゃんを手放す事も出来ない。
かっちゃんの想いはあまりにも綺麗過ぎる。なまえちゃんを突き放し敢えて傷付ける事で''普通の姉弟''に戻れると信じてやまなかったのはかっちゃんの方。なまえちゃんを嫌っている振りをしながら、いつだってなまえちゃんに嫌われようと必死だった。
——僕には無理だ。
大切な人に自ら嫌われる勇気なんて無い。
「(自分さえ居なければなんて言うなよ、かっちゃんの馬鹿)」
じくじくと痛む胸。油断すれば子どものように泣き出しそうで、それを振り払うように頭を振った。
かっちゃんが本気で望めばなまえちゃんはかっちゃんの手を取ると思う。かっちゃんが抱いている感情とは全く色が違うけれど、なまえちゃんがかっちゃんに執着しているのは確かな事だから。色や形や匂いは違えど、同じ愛には変わり無い。
かっちゃんは馬鹿なんだよ。嫌われようとしたって無駄な事を今もまだ理解していない。なまえちゃんの特別はいつだって君だった。彼女の心臓の中心に居座ってるのは君で、ずうっと君が一番で、何よりも大切なのは君で。
だから、僕はなまえちゃんの事を。
「(……君が幸せにならなきゃ僕だって報われないだろ)」
——今でも覚えている。僕がなまえちゃんと初めて会った日の事。『なまえ姉ちゃん!』少し先にその背中を見つけたかっちゃんが、顔いっぱいに喜色を浮かべて駆け寄っていく。桜色のスカートをふうわりと翻して振り返ったその人は、僕とそんなに年が変わらないであろう女の子で。
自分の元へと駆けてくるかっちゃんの姿を捉えた瞬間、かっちゃんと同じ色をした瞳が優しい色を帯びたのを見て、僕の心臓は確かに甘やかな音を立てた。自分に向けられている訳で無いにも関わらず、彼女の微笑みが僕の心臓を真っ直ぐ射抜いて、頭の中は名も知らぬ彼女でいっぱいになる。この時の僕に起きた現象に敢えて名前を付けるとするなら''一目惚れ''が正解だろう。
後にかっちゃんの姉だと分かるその女の子に、僕はいとも簡単に恋に落ちてしまったのだ。
二つ年上の彼女は見た目よりもずうっと大人びていて、かっちゃんの後ろをついて回る僕にいつも手を差し伸べてくれた。子どもの頃に他人に優しくしてもらった数少ない記憶の何れもになまえちゃんが存在している。
——彼女は、僕の初恋だった。
けれど、恋に落ちたのと同じくらい容易く僕の初恋は砕け散る。幼いながらに僕は気付いてしまったのだ。なまえちゃんは僕に優しい。でも、その優しさは''かっちゃんの幼馴染である僕''だから向けられているという事に。
かっちゃんがなまえちゃんに恋慕の念を抱いている事に気付くのも早かった。多分だけどかっちゃんが自覚するよりも早く、僕はかっちゃんの気持ちに気付いていた。何で分かったか?それは彼女を見る目が自分と同じだったからだ。どこからどう見ても姉に向ける目じゃなかった。目だけじゃない。いつだってかっちゃんは全身から彼女へのいとしさを溢れさせていた。彼女がいとしくて堪らないのだと、かっちゃんの全てが訴えていた。
かっちゃんが僕に辛く当たっていた理由の一つに、なまえちゃんが僕を特別気に掛けてくれていたからというのがあると思う。かっちゃんが僕に辛辣な態度を取ると、なまえちゃんは必ず僕に優しくした。でも、なまえちゃんは僕という存在を通してかっちゃんを見ていただけだと僕は思っている。彼女の伸ばす手の先を辿ってみると、いつだって行き着く先はかっちゃんだった。そんな事にも気付かないかっちゃんは「血の繋がりはないけど弟のように可愛がられる僕」にどうしようもなく嫉妬していたのだ。
でもね、かっちゃん。彼女が本当に優しくしたいのは僕じゃなくて君だったんだよ。君が拒絶して素直になまえちゃんの優しさを受け入れようとしないから、代わりに僕を労ってくれただけの事なんだ。
年齢を重ねるにつれ溝が深まっていく二人。そこに僕が混ざったらどうなるかなんて簡単に予想が出来る。だから僕はなまえちゃんへの淡い恋心が育ち切ってしまう前に、早い段階でその気持ちを心の奥底に封じ込める事にした。うん、今思い返してもそれは正解だったよな。目の前で眠る幼馴染みたいに手遅れになる前に諦められて、良かった。
僕は''諦められた''けど、かっちゃんはそれが出来ない。それこそが僕とかっちゃんの大きな差だ。
かっちゃんが眠る机から離れ、無駄に大きなソファに腰掛ける。片腕で目元を覆うようにして天井を見上げた。部屋を照らす橙色がじわりじわりとぼやけ、ゆっくりと溶けていく。
《ほんとうのさいわいは、いったい何だろう。》
ふと思い浮かんだとある小説の有名な一節をぽつりと呟き、そのまま夢の中へと落ちていく。かっちゃんの、なまえちゃんの、皆の『ほんとうのさいわい』とやらは一体何処にあるんだろう。誰一人として同じ幸福を共有出来ないなんて、あまりにも悲し過ぎやしないだろうか。
二人と過ごした数十年間の出来事が胸に去来する。楽しかった日々と仲睦まじい幼い二人の姿が走馬灯の様に流れていく。ねえかっちゃん、僕は思ってしまうんだよ。君が思う儘に行動する事で例え二人で白夜の中を行くような未来になってしまったとしても、君は自分にとって一番幸せだと思える未来を選ぶべきなんじゃないかって、そんな無責任な事をさ。
でも良いだろ。
本人の君が自分の幸せを願えないんだから、せめて幼馴染の僕くらいは君の幸せを願ったって。
——許される、だろ?