テーブルに突っ伏しているかっちゃんの姿を見て、僕は気付かれない程度に小さく溜め息を吐いた。彼の周りには一人で飲んだのかと疑いたくなる量のビールの空き缶が転がっていて、これだけ飲んだらそりゃあ酔うよなと内心呆れながら、床に落ちていた空き缶を一つ拾い上げる。
「人を呼びつけておいて既にすっかり出来上がってるってどういう事だよ、かっちゃん」
「来るのが遅ェんだよクソデク」
「これでも出来るだけ急いで来たつもりなんだけど……というか君、これは流石に飲み過ぎだろ。特別酒に強い訳でもないのに」
「うるせェ」
昔から変わらない傍若無人な態度。僕じゃなかったら許されないぞ、かっちゃん。そんな事を考えながらも口には出さず、僕は黙って向かい側の席に座った。
「君が自棄酒をして僕を呼びつける理由なんて一つしかないけど、なまえちゃんと何が、」
今までの経験から回りくどい聞き方はしない。そうして核心を突こうとすれば、かっちゃんは突っ伏した状態で片手に持っていた空き缶をぐしゃりと握り潰した。ああ……これはよっぽどだな。今日は朝までコースも有り得るかも。終電に間に合わないのを覚悟して、椅子に深く座り直す。
別に僕とかっちゃんは日頃から互いの悩みを相談し合うような仲では無いし、頻繁に会っている訳でもない。ただ、あまり他人に頼る事をしないかっちゃんが僕に唯一連絡してくる時がある。
それは''なまえちゃん''に関する何かが起きた時だ。
「なァデク、お前最近なまえと連絡取ってるか?」
「なまえちゃんと?いや、特に連絡は取り合ってないけど」
「アイツ、引っ越すんだとよ」
「えっ、そうなの!?」
「ハ……やっぱり知らないんか。所詮お前も俺と同レベルだな」
「……何だよその言い方」
煽るような言い方にカチンとしながらも、なまえちゃんが実家を出る事に対する驚きが勝った。成る程、かっちゃんはそれで荒れているのか。
漸く身を起こしたかっちゃんは脱力した状態で愉しげに肩を揺らす。酒を飲んでいるから、というのもあるだろうけど宙を見つめる瞳はぼんやりとしていて心配になってしまう。
「薄情な奴だよな。俺やお前には一言も言わねェ癖に、出会ったばかりの男に引越しの手伝いを頼んだそうだ」
「なまえちゃんが出会ったばかりの人に?」
——チリ、と微かに痛む胸には気付かないフリをして僕は言葉を続ける。
「でもそれって、かっちゃんが望んでいた事だろ。『どうせ手が届かないなら早く他の人のものになって欲しい。』君の口癖だ」
「あァ、そうだな。でも結局駄目だった」
「駄目って……」
「大丈夫だと思ってたンだよ。長い年月を掛けて俺はちゃんとなまえの幸せを願えるようになったと思ってた。でも、この先アイツの隣に立つかもしれない男の存在が明確な輪郭を帯びた瞬間、気付けば顔も知らないその男を頭の中でぐちゃぐちゃにしている俺がいた」
「……」
「よく言えたもんだよなァ。他の人のものになって欲しいなんて心にも無い事を」
心にも無い事では無かった筈だ。かっちゃんは確かになまえちゃんの幸福を願っている。それは間違いない。自分の心を押し殺して生きてきたかっちゃんの血が滲むような努力は、一番側で見てきた僕が誰よりも良く知っている。
自嘲するように笑うその顔を見て、どくどくと自身の心臓が脈打つのを感じる。嫌な予感がした。何か取り返しのつかないような事が起きてしまったんじゃ無いかという予感が、僕の心臓を激しく脈打たせる。
乾いてヒリつく喉を唾液で潤し、舌で唇を湿らせてから口を開く。
「君、もしかしてなまえちゃんに伝えたのか?その……好きだ、って」
「言う訳ねェだろ」
「そ、そっか。そうだよね」
「……まァその代わり邪魔はしちまったがな」
「邪魔って?」
「なまえが会ったばかりの男に引越しの手伝い頼んでたっつったろ?それを偶々聞いたらすげェ腹が立って、強引に約束を取り付けてその男の代わりにアイツの新居に行ってきた」
「な、っ……それってかっちゃん、なまえちゃんの新居で二人きりになったって事!?」
「……何をそんなに驚いてンだよ」
「なまえちゃんの事無理やり犯したりしてな、ッ痛!?ちょ、空き缶投げつけるなよ!」
「ンな事する訳がねェッだ…ろ……」
「ねぇその消え入るような語尾は何!?嘘だと言ってよかっちゃん、気持ちを告げるのを我慢しても無理やり組み敷いたら意味ないだろ!」
「組み敷いてねェ、誤解すんな!アレは事故だ!」
「ちょっと待って頭が痛くなってきた」
かっちゃんがなまえちゃんの家に押しかけたってだけでも驚きなのに、その反応は一体何なんだよ。ズキズキと痛む頭を押さえる。お酒なんて一滴も飲んでないのに二日酔いにでもなった気分だ。
「……本当に無理やりして無いんだよね?」
「だからてめェは俺を何だと思ってンだ!?」
「超弩級のシスコン?」
「寝言は寝てシネ!」
いや、間違ったこと言ってないだろ。シスコンを拗らせた結果、なまえちゃんへの想いがシスコンという言葉では済まなくなってしまったのがかっちゃんだ。
「君の長年の想いを知ってる身からするとそんな状況になって君が耐えられるとは到底思えないんだけど……それにしても、何年も徹底してなまえちゃんを避けてた君がなまえちゃんの新居に押しかけるなんて吃驚だよ」
「……いざアイツが本当に手の届かない所に行っちまうと思ったら、体が勝手に動いてたんだよ」
「成る程ね。で、さっき事故って言ってたけどなまえちゃんに何かしたの?」
「キス」
「へ」
「なまえにキス、した」
二度言われても理解が出来ない僕を置き去りにして、かっちゃんは自身の唇に指を這わせる。感触を確かめるみたいに唇に触れるその仕草を見て、僕はかっちゃんの言葉が真実だと知った。
「アイツが心から嫌がる事をして、もう二度と顔も見たくないと思ってもらえりゃあ良いと、そんな事を考えた。でもその手段にキスを選んだのは''こんだけ好きだったンだから最後にキスの一つくらい良いだろ''っつー俺の自分勝手な願望を叶えただけだ」
お酒の所為もあってか、かっちゃんは普段より饒舌だ。いくら事情を知ってる僕相手とは言え絶対に言わないであろう言葉をするすると口にする。
「聞けよデク。アイツ、散々な目に遭わされても、どんな暴言を吐かれても、''弟だから''俺を嫌いになんてなれないんだとよ」
「……なまえちゃんは君の事を大切に思っているから……」
「あァ。俺はアイツの大事な弟だもんな」
自身が彼女の弟である事を魔女か何かに掛けられた呪いであるかのように吐き出すかっちゃんを見て、思わず眉を顰めた。かっちゃんの行動で酷く傷付けられたなまえちゃんの気持ちを考えるとじくじくと胸が痛み出す。
なまえちゃんは家族を凄く大切にしている。その家族の中には当然かっちゃんも入っていて、どんなに理不尽な態度を取られようともかっちゃんに向けるなまえちゃんの気持ちはずっと同じままだった。
『いつかは私と勝己も、仲の良い姉弟に戻れる日が来るのかな』
寂しそうに笑うなまえちゃんに僕は本当の事を告げるなんて出来なかった。『かっちゃんは君を一人の女性として想っているんだ』『だから、君達が仲睦まじい姉弟に戻れる日なんて来ないんだよ』……言える訳が無い。お互いを大事に思っている事は確かなのに、二人の愛のかたちはまるで違う。
「……キスまでしたならなまえちゃんに本当の事を言ったら?」
「言わねェよ。アイツは俺がキスをしたのも単なる嫌がらせだと思ってる。後、もう今後なまえには会わないって決めたからな。アイツも家を出るし丁度良い」
「会わないって……そんな訳にはいかないだろ。それにこのままずっとなまえちゃんへの気持ちを抱えて生きていくつもり?そんな消化不良なままじゃ君だって幸せになんて……」
「アイツから奪ってばかりの俺に幸せになる権利なんてねェだろ」
自信に満ち溢れた普段のかっちゃんの面影はそこには微塵も存在しない。机に肘をついた状態で組んだ両手を額に押し当てるその姿は、見えない誰かに懺悔しているかのように見えた。
互いの間に沈黙が落ちる。唇を開いては何も言わずに閉じるという行為を繰り返している内に時間だけが過ぎていく。
「……なまえは」
かっちゃんはぽつりと呟いた。見えない誰かに懺悔しているように見えたのと同じで、その言葉は恐らく僕に向けられたものではないと瞬時に察する。
「俺みたいな弟さえ居なけりゃ、今頃幸せだったのか」
噛み締めるように言うのを聞いて、身が引き裂かれる思いだった。そんな事ないと言いたいのをぐっと堪える。かっちゃんは僕にそう言われる事をきっと望んでいない。
−−二人の為に僕が出来る事なんて、何も無い。どんなに思考を巡らせても正解なんて見つからない。いや、そもそも正解なんて存在しないのかもしれない。僕は小さく息を吐いてから、目の前にあった未開封の缶ビールを手に取った。プルタブに指を引っ掛けて引くと、かしゅりと心地良い音がする。その音に反応して顔を上げたかっちゃんを横目に、缶を傾けて勢い良く喉奥に炭酸を流し込んだ。正直、ビールはあんまり好きじゃない。というか嫌いだ。この苦さにいつまで経っても慣れない僕と違って、美味しいと言えるかっちゃんは凄いと思う。
「おい、何勝手に飲んでんだよ」
「僕だけ素面っていうのもアレだろ」
「はァ?」
「朝まで付き合うよ、かっちゃん」
ごくごくと喉を鳴らしてあっという間にビールを空にしてみせると、ずっと怪訝な表情だったかっちゃんは漸く呆れたように軽く口角を持ち上げてくれた。
僕もにこりと笑みを返してから空になった缶を机の上に置いて、ぐっと拳を握り締める。
「よし、落ち着いたところで取り敢えず君の事一発殴らせてもらっても良いかな?」
「……ア?」
「僕は君を一発殴らないと気が済まない。なまえちゃんにキスしたって何だよ、流石に許せないよかっちゃん」
「なまえに殴られんなら分かるけど何でてめェに殴られなきゃ……って本気の構えやめろや!」
「大丈夫、加減はするから。なまえちゃんの分とあとさっき空き缶をぶつけられた僕の分で二発。良いよね?」
「増えてンじゃねェか!」