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翌朝、私は普段よりも早く起きてシャワーを浴びた。結局あの後もう一度洗面所に行く気にはなれなくて、シートタイプの化粧落としで化粧だけ落として眠りに就いたのだ。


眠る直前まで勝己の行動について考えてみたけど、どんなに考えてもただの気まぐれだとしか思えなかった。怪我もしてたし、仕事で何か苛々する出来事があって当たる相手が欲しかったのかもしれない。そんな所に嫌ってる私が帰って来ちゃったもんだから余計苛立ったんだよね、きっと。勝己には申し訳ない事をした。……けれど、久し振りに勝己とまともに話せて嬉しかったと思ってしまう私もいる。勝己に不快な思いをさせておきながら自分は''嬉しい''か。私のこんな考えこそが嫌われる要因かもしれないなと考えて苦笑いを浮かべた後、たっぷりと深めの溜息を吐いた。以前と比べても最近の私は溜息を吐いてばかりな気がする。


ああ、幸せが全力で逃げていきそう。


−−髪を乾かし終えてリビングへと向かう。ドアを開けた瞬間、キッチンからふわりと芳ばしい香りが漂って来て思わず頬が緩んだ。


「おはよう、お母さん」
「あら、おはよう。随分と早起きじゃない」
「昨日遅くに帰って来てシャワー浴びれなかったから早めに起きたんだ」
「そんな遅い時間に帰って来たの?あ、そう言えば勝己来てるわよ」
「昨日の夜会ったから知ってる、って勝己まだ居るんだ。……珍しいね」
「今日は昼過ぎに事務所に行くとか何とか言ってたからまだ寝てるんじゃない?」


何か手伝える事が無いかと思ってキッチンに足を踏み入れたけど、既に完成していたようだ。どうやら朝食はエッグベネディクトらしい。こんがり焼けたベーコンと、とろりと中身が溢れたポーチドエッグが食欲をそそる。

空腹を訴えてきゅう、とか細く鳴いたお腹の音を聞いた母がくすくすと笑った。



***



うん、お母さんの料理って本当に美味しい。もぐもぐと咀嚼しながら「これからは気軽に食べられなくなっちゃうんだなぁ」と寂しいことを考える。


うぅ、すぐに実家が恋しくなりそうだよ。


「もう来週には出て行っちゃうのねぇ」
「転勤決まってからはあっという間だったね」
「なまえはしっかりしてるように見えて抜けてる所があるから心配だわ。定期的に様子見に行くからね?」
「あはは、そうしてくれると助かる」
「嫌って言われても行くわよ!」


ニコリと笑みを浮かべる母は心強い。豪胆な母と穏やかで心優しい父。この二人が両親だったからこそ、私は捻くれる事無く立派に育つ事が出来たのだと思う。私にも勝己にも惜しみなく愛を注いでくれた。周りの人間が私たち姉弟をどんなに比べようが、そんなの関係ないと両親だけは私たちを個として見てくれた。感謝しているし、尊敬している。だからどんなに時間が掛かっても私は与えられた恩をちゃんと返していきたいのだ。


「そう言えば本当に引越しの手伝い行かなくても大丈夫なの?」
「あ、うん。前にも言ったけど知り合いが手伝いに来てくれる事になってるから大丈夫だよ。そんなに荷物も多くないし」
「その知り合いって前に言ってた居酒屋の常連さんの事よね?」
「ん、そうそう。凄く親切な人でね」
「……んふふ、その人、なまえにとって本当にただの''知り合い''なのぉ?」
「へっ!?」


母がニマニマといやらしい笑みを浮かべている。も、もしかしなくても勘違いされてる……!?


「ちょ、範太くんは別にそういうのじゃないから!」
「へぇ、範太くんって言うのねー」
「っ〜〜お母さん!」
「はいはい、分かってるわよ。で、どんな人なの?写真は?」
「もーっ絶対分かってないでしょ!」
「だってなまえの恋人になるかもしれない人でしょ?あら、もしかしてもう既に、」
「−−あ、もうこんな時間!?準備しないと!美味しかったよお母さん、ご馳走様!」
「…………チッ、逃げたわね」


こうなった母は中々に厄介だ。誤解を解くのは中々に大変そうだし色々と突っ込まれる前にこの場から退散する事にした。背中に母の視線が痛いくらい突き刺さっている気がするけど気にしない事にしよう!


それにしても私の恋人だと勘違いされるなんていくら何でも範太くんに申し訳なさ過ぎる。''範太くん''というのは友人が店主をしている創作料理の居酒屋で知り合った二つ下の男の子で、私とは所謂飲み友達みたいな関係だ。勝己と同い年の彼はとても気さくで話し上手で、こんな私の事を慕ってくれている。


私が引っ越しをするという話をした時もすぐに『人手足りてる?俺手伝いに行こうか?』と名乗り出てくれたし、『こんな遅い時間に女の子一人で帰す訳にはいかないでしょ』と普段から私を女の子扱いをしてくれる(嬉しいけどちょっとだけ恥ずかしい)。範太くんは間違いなくモテると思う。今は恋人が居ないと言ってたけど、きっとまたすぐ出来るに違いない。というか世の女の子達が範太くんを放っておかないと思う。友人の私にこれだけ親切なんだもん、きっと彼女にはもっとあまあまなんだろうなぁ。


範太くんの彼女になる女の子は、とても幸せ者だ。


***



早く起きた割に家を出るのはいつもとあまり変わらない時間になってしまった。時間があるから、と呑気に準備をしたのが良くなかった。もっと余裕を持って生きれる大人になろう、と心の中で反省する。


リビングで食後の珈琲を楽しんでいた母にいってきます、と告げて玄関へと向かう。靴を履いて立ち上がろうとした瞬間「おい」と背中に声を掛けられ、体が跳ねた。


−−昨日から一体どうしたと言うんだろう。


「……おはよう、勝己」


まさか二日連続で向こうから声を掛けられるとは。雹でも降るんじゃないかと心配してしまう。

ぎこちなく振り返ると思ったよりも近い距離に勝己が立っていた。眉間には深い皺が刻まれていて、それを見ていると指でぐい〜っと伸ばしてあげたくなる。そんな事したら殺されそうだから絶対やらないけど。


「何か用かな……?」
「−……だ」
「え?」



「引っ越すの、いつだって聞いてんだよ」



ぽかん、と口を開けてしまう。そんな事を聞く為にわざわざ声を掛けたのだろうか。……何かがおかしい。悪いものでも食べたんじゃないかと心配してしまう。それか、思い切り頭を打ったとか。き、昨日怪我してたしそれはありえるよね!?


「だ、大丈夫?」
「は?」
「あっ、いやごめん、心の声が」
「……良いからさっさと質問に答えろや」


どすの利いた声を出す弟が怖い件について。脅されてる気分だ。別に内緒にする理由も無いのでさらっと日程を教えると、勝己は眉間の皺をほんの少しだけ薄めて「そうか」と思案の表情を浮かべる。それから、伏せていた瞼を持ち上げて私を見た。


「俺が行く」
「はい?」
「手伝いに行ってやるっつってんだよ」


何を言われるのだろうと身構えていた私に降ってきたのは思いもよらない言葉だった。き、聞き間違い?それとも幻聴?どうかしてるのは勝己じゃなくて私の方だった……?


勝己が何を考えてるのか分からなくて怖いから勢い良く首を横に振っておく。


「い、いや、良いよ」
「ア?何でだよ」
「何でって、勝己は忙しいだろうし、それにもう手伝ってくれる人もいるから」
「……」
「ねぇ勝己、昨日から変だよ?仕事も大変だと思うけど疲れてる時はゆっくり休んだ方が良いと、」
「どうして俺がてめェに指図されなきゃいけねェんだ?」
「……そ、うだけどさ……」


ピリピリとした空気に思わず顔を俯ける。折角話せてもすぐ険悪な雰囲気になってしまうのはどうしてなんだろう。泣きたくないけど泣きたい気分だ。


「余計な事言って、ごめん。……私もう行かなきゃ」
「……ッおい、待て!」
「っ」


ドアノブに手を伸ばした瞬間、勝己に腕を引かれた。私の腕を掴む手の熱さに昨日の夜の事を思い出す。流石に壁に押し付けられはしなかったけど、何処か焦った表情の勝己が私を見下ろしていた。−−こんな時に思う事じゃないのは分かってるけど、本当に大っきくなったよね。昔は身長もそこまで変わらなかったのに。


今はもう、


「……断れ」
「断るって……?」
「ッ良く知りもしねェ男に引越しの手伝い頼んでんだろ!それを断れっつってンだよ、馬鹿女!」
「ばっ……!?」
「良いか、絶対に断れよ。手伝いは俺一人で十分だからな」
「いや、あの」
「細かい時間はお前から連絡してこい。おら、分かったならさっさと行け、仕事なんだろ」
「勝己、話を」
「じゃあな。遅刻すんなよ」


口を挟む暇もなくぽーいっ、と外に放り出される。無情にも閉まった扉を数秒呆然と見つめ、私はひとり、こう呟くのだった。


「……どういう事なの……?」



***


−−同日、都内の某居酒屋。


「はぁー……」
「どうした、お前が落ち込んでるなんて珍しいな。仕事で失敗でもしたか?それとも遂になまえにフラれちまったのか?」
「前者は違いますけど、後者は当たらずと雖も遠からず、って感じですね」
「ははぁ?」


ハイペースで飲んでいたからか普段よりも酒が回っている。元々今日はこんなに飲む予定じゃなかったのに。空になったグラスを揺らし、新しい酒を頼んでから机に突っ伏す。店長の明らかに楽しんでいるであろう返事が聞こえ、俺は思わず唇を尖らせた。


「で、何があったんだ?」
「なまえさん、引っ越す事になったじゃないですか。んで、俺手伝いに行く約束してたんですよ。その話した時店長も居たんで知ってると思うんですけど」
「ああ、そういやそんな話してたよな」
「……さっき、来なくていいって言われました……」
「へぇ」
「へぇ、って!俺はこれでやっとなまえさんとの関係が少しは進展するかと思ってたんですけど!?」
「お前の見え見えの下心がバレたんじゃないか?」
「そう……じゃないと思いたいですけどね。なまえさんに嫌われたら俺数日寝込む自信ありますよ」
「はは、なまえには本気だもんな、お前」
「……そんなの、当たり前じゃないすか」


がっくりと肩を落とし、酒をあおる。


「弟が手伝いに来てくれる事になった、か」


そういえばなまえさん、弟と仲悪いって言ってなかったっけ。あぁ、駄目だ。酔いが回って、何も考えられなくなってきた。



「……今ならショックで死ねそう」
「範太、死ぬのは勝手だけど此処では死ぬなよ?迷惑だから」
「…………ひどくねぇ?」