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約束をした当日、私は指定した時間通りに現れた勝己と二人きりで黙々と作業をしていた。


特に言葉を交わす訳でもなく、物音だけが響く何とも気まずい時間。弟と過ごせる嬉しさよりも早くこの気まずさから解放されたいという気持ちが勝ってしまいそうになる。うう、やっぱり範太くんにお願いすれば良かったかな。それか範太くんにも来てもらえば良かった?彼はどんな人とでも仲良くなれる才能の持ち主だと私は思っている。だからきっと勝己ともすぐに打ち解けて……って、今はそんな事考えててもしょうがないか。


貴重な姉弟水入らずの時間。少し離れた場所で作業をしている勝己の横顔にバレない程度に視線を送る。−−本当に、何を考えているんだろう。態度からしても私を嫌っているのは一目瞭然だし、関係を改善しようとして歩み寄って来た訳でも無さそうだ。やっぱりただの気まぐれ?でも勝己は気まぐれでこんな面倒くさい事をする子じゃないよね。うーん、分からない。目の前に居るんだし聞けばいい事なんだけど、私にとって勝己に自ら声を掛けるという行為は大変ハードルが高いのだ。


「おい、なまえ」
「!ど、どうしたの?」
「こっちは大方終わった。他にやる事あるか」


そんな事を考えていたら急に声を掛けられて心臓が止まるかと思った。一瞬私の心の中が読まれたんじゃないかと焦ったけど、そうでは無かった事に安堵する。へらりと笑みを浮かべて「お疲れ様」と労りの言葉を掛けると、神妙な面持ちで「別に疲れてねェわ」と返された。ううん、流石現役プロヒーロー。お姉ちゃんは既にヘトヘトですよ。


「勝己のお陰で作業が捗ったよ。ありがとね」
「で、他にやる事ないんか」
「うん。大変な作業は殆ど勝己がやってくれたから、後は一人で何とか出来ると思う」
「……そうかよ」
「……」
「……」


二人の間に落ちる沈黙が辛い。何か話題が無いかと必死に思考を巡らせ、本来手伝いに来てくれる筈だった範太くんにお礼も兼ねて連れて行こうと思っていたお店の事を思い出した。物件探しをしていた時に気になって、でも一人で行くのはちょっとな…と思っていたお店だ。


スマホを弄っている勝己にちろりと視線を向ける。この後、何か用事とかあるのかな。わざわざ手伝いに来る為に一日空けてくれたとは思えないし、元々休日だったとか?


多忙な弟がわざわざ嫌いな姉の引っ越しの手伝いに来てくれたのだ。何かお礼をしたい気持ちもあるし、駄目で元元……断られるのを承知の上で誘うだけ誘ってみる?お酒が入れば素面では聞けない事も聞けるかもだし、こんな機会無いもんね?……うん、思い切って誘ってみようかな。


「あのさ、勝己」
「……あ?」
「この後って時間あったりする?今日のお礼も兼ねて夕飯を奢らせてもらいたいなって思ったんだけど、」
「……」
「……も、勿論無理はしなくて構わないけど、良ければどうかな……?」


うう、その信じられないものを見るみたいな目をやめて欲しい。お姉ちゃんはビビりなので簡単に心臓がきゅっと縮み上がるのです。どうでも良いけど苦手なものはホラーと雷です。大人になったら平気になるかと思ったけどそんな事なかったね。今でもホラー映画とか観れないし、雷も怖い。って、話が逸れちゃった。


「勝己?」
「お前、何考えてんだよ」


その言葉、そっくりそのままお返ししたい。何を考えているのか分からない行動を取っているのは私じゃなくて勝己の方だ。


「俺とこうして同じ空間に居るのだって嫌なんだろ?……今日の事だって簡単に反故に出来た癖に律儀に連絡して来るしよ」
「それは、」
「無理しなくて良いのは俺じゃなくてお前の方だろ。さっさと帰って欲しいならそう言えよ。今すぐにでも目の前から消えてやっから」
「っそんな事言ってない!」


「まァ心配しなくても今日が終わればもう会う事も無くなるけどな。この世で''一番''嫌ってる弟と会わなくなって清々すンだろ?もっと喜べよ、オネーチャン」


歪な笑みで勝手な事を言う弟を見て茫然とする。

−−昔から勝己は私の話を聞いてくれなかった。そして、いつだって私の感情を全て理解してるかのような口振りで話す。それがどうしようもなく苦しかった。私の感情は私のものだ。けれど勝己は私が自らの意思を持つ事すら許せないらしい。


私が勝己に対して抱いている感情は『この世で''一番''大嫌い』なんて物じゃない。寧ろ正反対だ。私が夜空に無数に散らばる星屑のうちの一つだとしたら、勝己はきらきら輝く一等星。ダイヤモンドのように輝くシリウス。憧れても、焦がれても、決して手が届かない存在。


強過ぎる光に焼かれて跡形も無く消えると分かっているのに、愚かにも手を伸ばしてしまう。こんな私だから駄目なのだろうか。だから勝己は私の存在を何よりも厭い、こんな風に憎憎しげに睨み付けてくるのだろうか?


''普通の姉弟みたいに''なんて分不相応な願いを持つ事自体、そもそも間違っているのだろうか。


「だから……ッて、お、おい……!?」


ぎょっとした声が聞こえたから慌てて拭ったけど、両目からこぼれ落ちた涙はそう簡単に止まってくれはしない。泣くつもりなんて無かった。泣くのは狡い人間のする事だ。けれど面と向かって負の感情を言葉にしてぶつけられた事で、少しずつ心に生じていた亀裂が大きなものになってしまったらしい。


「……泣いてんのか」
「ご、ごめ、すぐ、泣き止む、から」


面倒臭いと思われる。只でさえ嫌われてるのにこれ以上嫌われたくない。ごしごしと乱暴に目元を拭う。どうしてこうなるんだろう。本当に私は駄目だ。次から次へと溢れる涙が服の袖を濡らしていく。勝己がどんな表情をしているのかが怖くて顔が上げられない。物凄く呆れてるかも。いや、呆れるというより引いてるかもしれない。『いい歳して泣くような女に付き合ってられねェわ』って、帰っちゃうかも。


また溢れそうになった涙を拭おうとした瞬間、大きな手のひらが手首を握ったのが見えた。咄嗟に顔を上げるといつの間に近付いてきたのか、勝己が目の前に立っていて酷く動揺する。勝己は端整な顔をくしゃくしゃに歪め、私を見下ろしていた。その表情に込められた感情は私には読み取れない。


ぽろりと目尻から伝った涙を、自分のものではない指先が拭った。その手つきは決して乱暴では無く、壊れ物を扱うかのように丁寧だった。


「あんまり擦るな。目ェ傷付いたらどうすんだよ」
「ごめ、」
「謝んな。……クソ、泣いてる女なんて相手にした事ねェからどうしたら良いのか全然分からねーっての……」


冷たく突き放される事を覚悟していたのに、ぶつぶつと何かを呟く勝己の声色は思いの外優しかった。掴まれた手首から伝わってくる熱。何だか最近、勝己とこれくらいの距離になる事が多い気がする。少し見上げれば至近距離には整った弟の顔、視線をズラしてもタンクトップ越しの胸筋が間近に広がっているというこの状況はあまり宜しくない。


唇を開くとまた涙腺が崩壊しそうだったので、『もう拭ったりしないから腕を離して欲しい』という意思を伝える為に反対側の手でくい、と勝己の服を引っ張る。顔ごと斜め上の方向に逸らしていた勝己の視線が動き、私を見て止まった。


勝己の様子がおかしくなったのはその直後だ。何に対してかは分からないけど明らかに狼狽した勝己は、掴んでいた私の腕を思い切り振り払うように離した。


「あ」


支えを失った体がバランスを崩し、ゆっくりと後ろへと倒れていく。勝己が私に向かって手を伸ばす光景がやたらスローモーションに見えて、そして−−。


「っ……!」
「いッ……て……」


衝撃に備えて咄嗟に身を固くしたのに、ちっとも痛くない。寧ろ包み込まれているかのような安心感が……って。


「か、勝己……!?」


痛みが無くて当然だ。あの一瞬で何が起こったのかは分からないけど、私の体は勝己にぎゅうと抱き込まれている。本来私が受ける筈だった衝撃を代わりに受けて痛みに顔を歪めているのは、現在進行形で私の下敷きになっている勝己だった。


慌てて身を起こそうにも勝己の腕がしっかりと私を抱き締めているから抜け出せない。少しでも勝己に掛かる負担を減らそうと必死に体を浮かせ、痛みに耐えている表情の勝己に呼びかけた。


「大丈夫!?怪我してない!?」
「ッ……あァ。少し背中を打っただけだ」
「……っ良かった……!い、いや、全然良くはないんだけど」


ほぅ、と安堵の息を吐く。私を庇った所為で勝己が大怪我をした、なんて事になったらショックで立ち直れない。本当に良かった……。安心して気が緩んだからか、驚きで引っ込んでいた涙がまた溢れてきた。ぽたり。落ちた涙が勝己のタンクトップに染み込む。「お、おい、また泣くのかよ」勝己が困惑の声を上げるのが聞こえた。私だって泣きたくて泣いてる訳じゃない。でも、この涙を止める術を私は知らない。そもそも泣く事自体が数年振りなのだ。泣くのを堪えるのは得意だった筈なのに、こんなのおかしい。私、こんなに弱い人間だったっけ。


「……泣くなよ」
「……っ」
「……俺は昔からお前に泣かれると……どうしたら良いのか分からなくなンだよ……」


チッ、と態とらしく舌打ちをしながら、勝己は私の後頭部にそっと手を添えてそのまま自分の胸へと引き寄せた。私もおかしいけど、勝己もおかしい。私を嫌ってる癖に、突き放す癖に、どうして身を呈して庇ったり、慰めたりするんだろう。言ってる事とやってる事がちぐはぐだよ、勝己。「……服が濡れちゃう」「こんなん放っといてもすぐ乾くわ」離れようとする私の体を勝己が両腕で囲ってくる。鼻腔をくすぐるあまい香りは子どもの頃と全く変わらない。あの頃とは何もかもが変わり果ててしまったと思っていたのに、ちゃんと変わらないものもあったらしい。勝己の中に幼い頃の面影を見つけた私は随分と太くなってしまった勝己の腕の中で身を震わせて、泣いた。



泣き噦る私を抱き締めている間、勝己がどんな顔をしていたのか、何を思っていたのか。



−−私は、何にも知らない。