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腕の中で細い肩を震わせているなまえから必死で意識を逸らす。触れている部分が熱い。なまえの体も俺の体も馬鹿みたいに熱くて、その熱さで頭がおかしくなりそうだった。


こんな事になったのは全部この女の所為だ、と全ての責任を押し付けながら小さな頭をそっと抱き寄せる。俺が嫌いな癖にどうしてこれ以上一緒に居ようとするンだよ。普段何があっても泣かない癖に、何で今日に限って無防備に泣くんだよ。……あんな表情で見上げるから、思わず動揺しちまったじゃねェか。分かっている。完全に責任転嫁だ。


悪いのは、俺。
この状況を作り出した愚かな俺自身だ。


−−あの家から居なくなると聞いて酷く動揺した。話さずとも触れ合わずとも、実家に帰ればいつでも感じる事の出来たなまえの気配が薄れる事を恐れた。家族、なのだからそんな事ある筈無いのにもう二度と会えなくなるのではという強迫観念にとらわれてしまった。


けれど、なまえが引っ越すと聞いて同時に安堵した俺もいる。帰るべきでは無いと思いながらも何かと理由を付けて実家に帰っては後悔するという負のループ。漸く抜け出せるのでは無いかと、そう思った。俺はもう自分では身動きひとつ取れない所まで来ている。足掻いても藻掻いてもその先は地獄だ。上も、下も、右も、左も、見渡す限りの地獄が広がっている。だからなまえには早く俺の手の届かない所に行って欲しかった。艶々とうつくしい髪を揺らし、俺に背を向け、だいきらいな''弟''の事など一切忘れてどうか幸せに、と。


そう思っている。
思って、いるのに!
俺は愚かだ。幼い頃から何一つ成長していない。なまえが絡むと、自分の感情がコントロール出来なくなる。


−−なまえと母親の話を聞いたのは本当に偶然だった。リビングから漏れ聞こえて来る楽しげな会話に、思わず強く拳を握り締めていた。良く知りもしない男の顔を頭の中でぐちゃぐちゃに黒く塗り潰す。高ぶる感情のままに憎悪の言葉を吐き出しそうになり、それをぐっと堪えて飲み込んだ。俺は、爆豪勝己はそれを是としなければいけない。その男と上手くいく事はなまえの為でもあり、俺の為でもある。


けれど俺の中で燻る感情がそれを是としなかった。邪魔をするような行動を取り、気が付けばその男が居る筈だった場所に立っていたのだ。


二人きりの空間。平静を装いながら俺は柄にもなく緊張していた。少し近付いただけで香るなまえの匂いに心を乱される度に来るべきでは無かったと後悔し、それと同時に良く知りもしない男をこの家に招こうとしていたなまえに対して苛立ちが募っていく。作業の為に髪を結わいたなまえの白い項が視界に入るたび悶々とする自身にも腹が立った。その''範太くん''とやらが碌でなしだったら間違いなく押し倒されてンぞ、クソが。あと、この女は俺の理性が強靭な事に感謝した方が良い。


そんで、それから紆余曲折あって今は俺がなまえに押し倒されてる訳だが。


後戻りが出来なくなる前に離さねェと。頭ン中では分かっているのに、俺の腕は''離したくない''と言わんばかりになまえの体をより強く引き寄せる。終いには髪まで撫で出すんだから本当にどうしようもねェ。今にも喉を突き破りそうな程に荒れ狂う感情を飲み込む。こんな状況だって、あってはいけなかった。俺は本来此処に居るべきではなかったし、なまえを抱き締めるなんて以ての外だ。にも関わらず、抵抗されないのを良い事に指はなまえの髪を梳き続ける。


決して手に入らないものが今、俺の腕の中にある。心臓の音が伝わってはいないだろうか。激しく脈打つ鼓動を聞かれてはいけない。俺の動揺を、緊張を、−−興奮を、なまえに悟られてはいけない。


なまえがすんと鼻を鳴らす度、抱き締めている腕に力を込めたくなる。今までの苦労を、決意を、全て水の泡にするつもりかと自分自身に問うた。冷静になれ。落ち着け。……あァクソ、本当に、来るべきじゃなかった。今日の事は人生最大の過ちかもしれない、と考え−−いや、そもそも俺の人生なんて過ちだらけじゃねェか、と自嘲した。



−−以前、とあるテレビ番組で共演したタレントに言われた事がある。

『爆心地には恐れる物も、手に入らない物も無いんでしょう?』


『恐れるもの』

一つ一つ挙げていったら日が暮れそうだ。

『手に入らないもの』

現在進行形で腕の中にあるっつーの。





雄英高校を卒業後、個人事務所を立ち上げた俺は昼夜問わず仕事に没頭した。形振り構わず働き、数多の事件を解決して''爆心地''としての知名度を上げ続け、気が付けばヒーローランキング上位に名を刻むようになっていた。


『爆心地はあの年齢で富も名声も手に入れてしまった』『彼の人生は思い通りで順風満帆だ』『若造の癖に調子に乗っている』−−だの、オールマイトの意志を継ぐ正統派ヒーローとして子供から大人まで年代問わず人気を博しているデクの野郎とは違い、俺への世間の評価は何とも言えないものだ。(自分の振る舞いが影響している事も分かってはいる)


幼い頃憧れたヒーローになった。人々に認知され、確かに富も名声も手に入れた。対照的に俺が本当に欲しいと望んだものは全て掌から滑り落ちていく。俺が渇望しているものは、未来永劫手に入る事は無い。


−−腕の中のなまえが僅かに身動いだ事で逸れていた意識が戻ってくる。ふわりと髪から香った甘い香りに目を瞑り、気付かれないよう呼吸を整えた。心音が激しいものから徐々に緩やかなものへと変わっていく事に安堵する。


大丈夫。大丈夫だ。耐えるのは得意だろ?我慢するのも、本心を包み隠すのも、平気な顔で嘘を吐く事にも慣れただろ?


そろそろなまえは泣き止むに違いない。そうしたら抱き締める口実は無くなり、俺はこの離しがたい存在を手離さなければならなくなる。一度手放せばもう二度とこの腕の中に閉じ込める事はない。


分かっている。
だからこんなにも離れがたいのだ。


あと少しだけ。
もう少しだけ。


これは、不慮の事故。
だから今だけは姉を慰める優しい弟のフリをしたって、良いだろ。


頭の中で自分に都合の良い言い訳を並べながら華奢な身体を少しだけ強く、抱いた。