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勝己の匂い。勝己の心臓の音。こうして抱き締められていると、全く違うテンポで刻んでいる筈の鼓動が同じになっているかのように錯覚する。只でさえ締め付けられて苦しかった喉が更にきゅうと締まるのを感じた。


太く逞しい二本の腕は私の体をしっかりと抱き込み、その締め付けが緩むことは無い。言葉を発しようとした瞬間、勝己の掌が慰めるかのように私の髪を撫で下ろした事に酷く動揺して、私はただ口を開閉しただけになってしまった。多分だけど今の私の心臓は過去最速のテンポで心音を刻んでいて、それはきっと勝己にも聞こえてしまっている。こんなにも分かりやすく自分の心臓が脈打っているから、私を抱いている勝己の心音まで早いのでは無いかと感じてしまうのだ。この状況に動揺しているのも、緊張しているのも、きっと私だけ。私よりも一回り以上体格の良い勝己に抱き締められているとどうしても性別の差を感じてしまう。立派に成長した弟の腕の中は決して居心地が良いとは言い難い。触れている部分から感じる熱と鼻腔をくすぐるニトロの甘い香りは私に心地良い酩酊感を覚えさせた。


「(こんな事思ってるって知られたらきっと怒られるけど、離れがたいと思ってしまう私がいる)」


ずっと遠いところに行ってしまった弟が今は誰よりも近くにいる。形容し難い感覚が全身を蝕んでいく。−−この腕の中から解放されたその瞬間、私達の関係はまた今迄通りに戻るのだろう。それが分かっているからこそ、尚更離れがたかった。


「……泣き止んだか?」


その問い掛けに思わず口を噤む。もう暫くこのままでいたい。そんな思いからか、縋り付く手に力を込めてしまう。勝己が微かに身動いだ。勝己の喉がひゅうと音を鳴らしたのすら聞こえる距離に、心が震える。


「なまえ」


本当に勝己本人なのかと疑いたくなるような優しく穏やかな声だった。どんな表情をしているのかどうしても気になって、こっそり顔を覗き見る。勝己も私の事をじいと見下ろしていて、視線が交わる事で互いの間に何とも言えない空気が流れた。……どうしてそんなに切ない顔をしているんだろう。その理由が私には分からない。


弟は、ほんの少し困ったような表情を浮かべた。親指がぐいと目尻を拭う。涙の跡が薄っすらと残るそこはもう濡れてはいなかった。


「……泣き止んでんじゃねェか、阿呆」


馬鹿だの阿呆だの、最近の勝己は私に暴言を吐き過ぎでは無いだろうか。それでも思わず頬が緩んでしまうのは無視をされるよりもこうして目を見て言葉にしてもらえた方がずっと良いからだ。それに今の言い方は全然嫌な感じがしなかった。


「あの、」
「……なンだよ」
「……もうちょっとだけこのままで居てもいい……?」
「っ、」


普段とは違う勝己の態度が私の心を素直にさせる。口に出してから恥ずかしくなったけれど、一度言った言葉は取り消せない。


「……ッ……んで……」


頭上で勝己が何かを言ってるけど、その声はくぐもっていて良く聞こえない。


「……なまえ、お前は」


−−暫く何も言わずにそのまま私を抱いてくれていた勝己が、不意に口を開く。


「いやじゃねェのか」
「……いやって?」
「この状況が、だよ」


ふる、と首を横に振る。このままでいたいと望んでいるのにいやな訳が無い。


「俺の事嫌いだろうが」
「……勝己の事が嫌いなんて一度も言ったこと無いし、思った事もないよ」
「ンな訳ねェ」
「寧ろ嫌われてるのは勝己じゃなくて私の方。

……そう、でしょ?」


言葉尻は震えてしまって、情けないの一言に尽きる。それでも態々問うような言い方をする私の声には期待が滲んでいた、と思う。



「…………あァ、そうだな」



勝己は息を詰めて黙考した後、ハッキリと肯定の言葉を口にした。態度で示される事はあっても、こうして嫌いだと断言されたのは初めてだった。ああ、分かっていたのに凄く傷付いている。勝己の言う通り私ってどうしようもなく馬鹿で、阿呆だ。微かな期待で高鳴っていた心臓は一瞬のうちに凍り付いて、近くにいる筈の勝己の声が一気に遠くなっていく。


「あは、は……そ、だよね……っ」


やさしく慰めて、期待を持たせるような事をして、けれど私の事を嫌いかという問いには肯定する。そしてまた私の身体をキツく拘束してくる弟が何を考えているのか、私には全く理解が出来なかった。この時間が続いて欲しかったけれど、嫌いだと断言されて尚このまま抱かれている訳にはいかない。離してもらおうと必死に足掻いても藻掻いても勝己の腕の締め付けは緩まなくて、それすらも私に対する嫌がらせに思えて悔しさから目尻には涙が浮かぶ。


「……俺はお前が嫌いだ」
「わ、分かった、から」
「だから」
「も、離しっ……ん、……っ!?」


−−何が起こったのか、一瞬理解が出来なかった。ぐっと肩を掴まれたと思ったら、私を嫌いだと言う弟の顔が間近にあって。唇に押し付けられているのは柔らかな感触。それが何かなんて態々言うまでもない。


茫然とする私を見下ろす弟はくしゃくしゃに顔を歪め、下手くそな笑みを浮かべて、言った。



「……お前も、俺を嫌いになってくれ」