ちょっと、忙しくて

数日前から深夜にチャイムが鳴る様になった。覗き穴から様子を疑うことすら怖くて息を潜めてベッドの中で眠れない夜を過ごす日々が続いて、ぼうっとしていた私は赤信号に気付かずにふらふらと足を進めていた。「ッおい香澄!!」と腕を引かれてハッとして振り返れば焦った顔の松田さんが私の腕を掴んでいた。

「ま、つださ…」「何してんだ!!」「ごめ、んなさい…」と怒った顔をする松田さんの前で呆然と立ち尽くす。「大丈夫、じゃなさそうだな」と伊達さんが心配そうに私の顔を覗き込んで「ちゃんと寝れてねぇだろ」と自分の目の下をとんとん、と人差し指で差す。私の目の下のクマのことを言いたいのだろう。

「ちょっと、忙しくて」と誤魔化すけれど間髪入れずに「何がそんなに忙しいんだよ。こんだけやつれるくらい忙しい事って何だ」と松田さんが怖い顔をする。寝不足の頭では松田さんと伊達さんを誤魔化せる言い訳が思いつかない。「ほんとに、なんでもないです…!ちゃんと気をつけて歩くから…ッ、ほっといてください、」と上げた声は情けなく震えていた。

じわりと目に滲んだ涙に松田さんがぎょっと目を見開いて、腕を掴んでいた手の力が緩む。ぶん、と腕を振って松田さんの手を振り払った勢いで寝不足の体はぐらりと傾いた。倒れかけた体を支えてくれたのは伊達さんで「香澄ちゃん、何も問い詰めようって訳じゃねぇんだ。顔色も悪いし、信号に気付かないくらいぼうっとしてたら俺も松田も心配するだろ」と静かな口調で窘められる。

分かってる。分かってるよ、そんなこと。でも、直接何かされた訳じゃない。交番の人にも言われた。「直接何かされたり、決定的な現場を押さえないと難しいんだよ」と困った顔…と言うよりも迷惑そうな顔でため息を吐かれてしまった。私が、ちょっと我慢すればいいだけ。

きゅっと唇を噛み締めた私に松田さんは大きくため息を吐いて「この場で今すぐ全部話せとは言わねぇが、何かあったらすぐ言えよ」と私の頭をぐしゃりと撫でる。「電話でもメールでも何でもいいからな。どんなに些細なことでもいいから、何かあったらすぐ言ってくれ」と伊達さんにも頭を撫でられる。「…は、い。ありがとう、ございます」と笑った顔は上手く笑えていただろうか。二人の優しさが苦しくて、助けての言葉は飲み込んだ。
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