(Side:萩原)
香澄ちゃんとお揃いで買ったストラップの紐が、切れた。カツン、と床に落ちたストラップを拾ってポケットに入れたけれど、異様に心がザワついた。理由は無いけれど、何となく嫌な予感がする、と漠然と思った。
何も無ければそれでいい。俺の勘違いだったら、それまでの話だ。大丈夫。きっと今頃、家でテレビを見ている頃だろう。恐る恐る電話をかけて、応答を待つ。1コール、2コール、3コール。鳴らせど鳴らせど香澄ちゃんが電話に出ることは無くて、留守番電話に切り替わる。
嫌な予感が、確信に変わる。俺を見て「ハギ?どうした?」と首を傾げた松田に「……香澄ちゃんに、何かあったかもしれない」と告げればサッと顔色が変わる。「何か…って、どういう意味だ」と険しい顔をした松田に「何度慣らしても電話に出ないんだ。こんなこと、今まで一度も無かった」と拳を握り締める。
何も無ければ、それでいい。けれど、もし。もし、何かあったら。そう思ったら怖くて堪らない。「松田、俺、」と顔を上げた俺に、松田は分かっていたと言わんばかりに表情を引き締める。
「話はつけとく。先に様子見に戻れ。俺もすぐに行く」と背中を押されて、自宅へと車を走らせた俺は外階段の踊り場で風に揺れる淡い青色のスカートから目が離せなくなった。心臓が痛いくらいに跳ねて、頭がガンガンと痛む。
ふらふらと覚束無い足取りで階段を上って、ぐったりと倒れ込む香澄ちゃんを見て血の気が引いた。「ッ、香澄ちゃん!」と慌てて抱き起こせば、薄らと香澄ちゃんの目が開かれて「…は、ぎわ…さ、」と掠れた声が俺を呼ぶ。
「よ、かった…っ、」と香澄ちゃんの体を抱き締めて顔を覗き込み「何があったの?」と尋ねれば、香澄ちゃんはきゅっと眉間に皺を寄せる。「あの、おんなのひとが、」とゆっくり話し出した香澄ちゃんの言葉に耳を傾けようとして、俺は背後から聞こえた微かな音に振り返った。
「あははっ、まだ生きてるんだ」と笑いながら俺を見た女にゾクリと鳥肌が立って、反射的に香澄ちゃんを守るように抱え込む。「アンタのせいで、全部、全部、台無しよ…何で大人しく死んでくれないの、何で余計なことするの…ッ、何で…!何でアンタがそこにいんのよ!!」と血走った目をした女が香澄ちゃんを睨み付ける。
腕の中でカタカタと震える香澄ちゃんを安心させるようにぎゅっと抱き締めて「余計なことって、何?君は一体、何を知ってるの?」とゆっくり尋ねる。このままじゃ、何をされるか分からない。怒りで我を失っている人間ほど、怖いものは無い。
まして、今俺の腕の中には香澄ちゃんがいる。攻撃をされても、止めることはおろか反撃すら出来ない。ぎゅっと香澄ちゃんを庇うように抱き締めたまま女をジッと見つめれば、スッと女の目付きが変わる。
嫌な、気配がした。このまま話をしてはいけないと、頭が警鐘を鳴らす。「アンタもアンタよ。何であの時死ななかったの」とハッキリ告げられた言葉の意味を、理解できなかった。一体、何を言っているんだ。「なにを…」と何とか声を発した俺を遮るように腕の中の香澄ちゃんが声を張り上げる。
「やめて…ッ、!なんで、なんでそんな酷いことが言えるの…!」と涙を流しながら、香澄ちゃんが女を睨む。「死んでいい人なんていない!!私の大事な人に…ッ、酷いこと言わないで!!」と叫んだ香澄ちゃんが、はぁはぁと呼吸を荒くする。
こんなにも声を張り上げて怒る香澄ちゃんは初めて見た。「香澄ちゃん、落ち着いて。ゆっくり息しよう」と落ち着かせるように背中を叩けば、泣きそうにくしゃりと顔を歪めて俺を見つめるから「怒ってくれて、ありがとうね」と涙を拭うように頬に手を添える。
それから再び香澄ちゃんを守るように腕の中に抱え込んで女を見れば、ブツブツと何かを呟きながら俯いている。ゆっくりと顔を上げて、俺と香澄ちゃんを見た女が鞄の中から取り出したナイフに、香澄ちゃんが「ひっ、」と悲鳴を漏らして「ぜんぶ、ぜんぶ…全部全部全部!!!アンタたちのせいよ!!!」と叫んだ女が俺たちにナイフを振り上げる。
香澄ちゃんに覆い被さるように女に背を向けて、痛みに耐えるために歯を食いしばった直後、背後から聞こえてきたのは「〜〜ッ離しなさいよ!!!あの女もアンタらも!!!どうして私の邪魔ばっかりするのよ!!!」と叫ぶ女の声。
「ハギ!香澄!無事か!?」と焦ったような松田の声にハッと顔を上げれば、女を取り押さえる松田がいてホッと息を吐く。「ナ〜イスタイミング。さすが陣平ちゃん」と笑った俺に「お前なぁ…結果オーライだったから良かったものの、間に合わなかったらどうすんだよ」と松田が眉間にシワを寄せる。
それはその通りだけど、腕の中で恐怖に震える香澄ちゃんを放り投げることなんて出来なかった。現に今だって、目の前に転がるナイフと、取り押さえられている女を見て、恐怖で体を震わせている。松田もそれに気付いているからか、それ以上強くは言ってこない。
「香澄ちゃん、もう大丈夫だからね」と両手で頬を包み込めば「は、はぎ…っ、はぎ、わらさん…っ、」と震える声で香澄ちゃんが俺の手に自分の手を重ねる。冷たくなった指先と青白い顔が、痛々しくてぎゅっと唇を噛み締める。
「うん、大丈夫。いるよ、ちゃんとここにいるから」と真っ直ぐに目を見て笑いかければ、香澄ちゃんの目からはらはらと涙が落ちる。縋るようにぎゅうっとしがみついてきた香澄ちゃんが俺の胸元に耳を押し当てて「よかった、っ…よかったぁ…」と涙を流すから、そっと背中を撫でる。
支離滅裂な発言を繰り返していた女が、後からやって来た警察に連行されるけれど俺の頭に残っているのは『何であの時死ななかったの』という、女の言葉。あの女が何を望んでいるのか、俺には分からなかった。