tori


3


環は全力を尽くし、歌い終えた。
こんな大勢の前で歌った緊張により、いつもより呼吸が乱れてしまう。
ほんの一曲歌っただけなのに体中から汗が吹き出て、無意識に邪魔な前髪をかきあげた。
微かに半開きになった口から洩れる吐息と、髪をかき上げた仕草が妖艶に映る。
そして環はマイクから体を離し、何の反応もない会場を見渡した。
微動だにしない観衆に、何となく事態を把握する。
きっと自分の歌は聴くに絶えないレベルだったのだろう。
こんな大勢の前で歌う機会など、今までなかったから緊張して本来の実力を出せなかったのかもしれない。
そう思うと悔しかったが、それも含め勝負なのだ。
練習で出来ても本番で最高の歌を披露できなければ、過程がどうであれそれまで。

(…あぁ、そっか。やっぱ、俺程度の歌なんてダメだったよなぁ…。全国から四次審査を通過した人だけが集まるんだから…無理もないか)

過ぎた事は仕方ない。
ダメな時はダメなんだから、潔く前だけを見よう。
夢は敗れたけど、これで両親の惣菜店を継ぐ決心がついた。
そう考えながら舞台から降りて、自分の席に着く。
その間も周りから凄く見られているような気がしたが、いつもの事と気にしないようにした。
最後のエントリーはまだかなと思っていたら、急に会場から歓声が響く。
あまりにも大きなそれに環は思わず両耳を塞いでしまった。
スタンディングオベーションもだが、拍手と歓声が今まての非じゃないのだ。
何事かと思えば、舞台から司会進行者のアナウンスが流れる。

「只今をもちまして、seyco entertainmentオーディションは終了致します。尚、エントリーナンバー20000の方ですが、諸事情により棄権となりました事、お詫び申し上げます。これから審査に入りますので皆様、しばらくお待ち下さい」

わーっと未だ止まらない歓声が何故か自分に注がれ、全く意味がわからない環なのだった。
早く審査になった事がそれ程まで嬉しいのかな、なんて思い、とりあえずニコニコ笑ってみせる。
そんな中で、泉水と海向は未だに固まっていた。
一体、何が起きたのだろうか。
何だあの化物並みの声は。
想像の遥か彼方である。
今まで色んなバンドを組んだり、ヴォーカル達を見て来たが、こんな逸材知らない。
どこが平凡だよ。
あれは間違いなく天才だ。
2人同時に環を見て、そしてほぼ同時にスマホを取り出した。
そしてライン画面へと進む。
互いに思う事は同じ。
泉水と海向がラインのやり取りをし始めたのだった。

『アカンアカンアカン!!あいつ何や!?知らんで、あない化物!!』

海向からのラインに、泉水も興奮しながら返す。

『俺だって知らない。ありゃ、天才だろ。今まで色んな奴と組んで来たが、あれは唯一無二の存在だ』

そして2人同時に送る。

『環とバンドやろう』
『環とバンド組むで!』

2人同時に同じ事を思っており、思わず吹き出す。
そして顔を上げれば、互いを視線に捉えた。
興奮冷めやまずと言った所だろう。
2人の頬が真っ赤になっていたのだった。
ミュージシャン志望の環をバンドに誘うのは容易な事ではないだろう。
そしてそんな勝手な事が通用するのかもわからない。
それでもこの胸に宿った熱い気持ちを抑えるなんて出来ない2人だったのである。


会場にはスタッフの姿だけになり、辺りが暗くなった頃。

「最後の奴いたじゃん?エントリーナンバー20000の」

後片付けするスタッフのひとりが口を開いた。

「ああ、いたな。それがどうしたんだ?」

声をかけられたスタッフが不思議そうに答える。

「いや、俺聞いちゃったんだよね。最後に歌った平凡…えっと、名前忘れたけど、めちゃくちゃ上手い奴いたろ?」
「うん、マジ上手かったな。俺、勃っちまったよ」

恥ずかしそうに顔を赤らめ、照れる。

「いやぁ、わかるわぁ。ってそうじゃなくて!棄権したってなってたじゃん?あれさ、トラブルか何かだと思ってたら、舞台裏で可哀想なくらいガタガタ震えて、とてもじゃないが歌える精神状態じゃなかったらしいよ。」
「え!?何、そう言う事!?うーわ…、マジかよ…。……あぁ、でもそりゃそうだよな。あんな歌声聴いたら、精神崩壊してもおかしくないわなぁ…」

スタッフだけしか知らない舞台裏があったそうだ。
今年の候補者は豊作だと言わたのは言うまでもない。


透明感あって、色気ある声って何や状態ですが、何となく察して頂ければ幸いです。とにかく凄いと言う事を伝えたくて、何のノウハウもない癖にバンド物とか書いちゃったからこうなったよね(笑)


2025.01.30

- 8 -

*前次#


ページ: