葡萄酒と運命 「……何か御用ですか」 目の前でにっこりと笑った赤い髪の青年をにらみつける。 青年の手は私の進行方向を塞ぐように壁につけられていた。 その手とは反対の手にはチケットが2枚握られ、私に差し出されている。 「映画、好きだって聞いたんだけど」 誰からだよ。と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。 嫌なら嫌ってはっきり言わなきゃ駄目よ、と同僚に言われた言葉や、同じ東洋人なのにチャイニーズとは随分と違うのね、というお局様の言葉を思い出した。いっそ付き合ってみたら?という完全に他人事を楽しんでいる先輩の言葉も。 アメリカ人に日本人特有の遠回しな言い方は逆効果だと分かっていても長年染みついた価値観がそう簡単に変わるわけではなく。友人間や今の職場での人間関係では大分はっきり言えるようになったとは思うのだが、こと恋愛に関しては初めてのことでどう言ったらいいか戸惑っているうちに囲い込まれてしまった。 目の前の青年の顔を見ると相変わらずにっこりと笑っている。 正直な話、顔は悪くない。むしろ素晴らしく整っていると思う。車掌という職業も収入が飛び抜けて良い訳ではないが、安定している。性格にはちょっと難ありだが、それを補って有り余る優秀さが彼にはあり、職場では人気者だったりする。そして何より、私はこの会社に入社するずっと前から彼のことを知っていた。彼がどんな人間なのか。どれほどの人間なのか。 彼の手からそっとチケットを1枚抜き取る。 「いつですか?」 ぱっと彼の顔が明るくなった。 木の上に登って降りられなくなった猫と出会うなんて少女漫画でしか存在しないシチュエーションだと思ってのに、ライトノベルの世界でそんなシチュエーションに出くわしてしまったのは1か月ほど前のことだった。木の上に猫を見つけた時は数秒ぼんやりと見ていたが、やたら鳴き声をあげるのと前足を出しては戻しを繰り返していてようやく猫の状況に気付いた。気付いてしまったからには見て見ぬ振りは忍びなく、はしたないがスカートをまくり上げ、なんとか木に登り、猫を無事抱きかかえる所までは良かったが、猫が居た枝は人間一人を支えられる程の太さはなく、ばきっと乾いた音を立てて折れてしまった。落下する瞬間、受け身も取らず「これが少女漫画なら下でイケメンが受け止めてくれるんだろうな」と呑気に考えていたら本当にイケメンに受け止められてしまったから驚きだ。 それが私とクレアの出会いだったわけだが。 私を受け止めたイケメンのクレア・スタンフィールドは、私を映画に誘った青年であり、社内で惚れっぽく女好きと噂されている、将来レイルトレイサーになる人物だった。 暗い映画館から明るい外に出て、はぁーっと感嘆の溜息が漏れた。 「どうだった?」 「すっごい良かったです」 「そりゃ良かった」 昔から映画は好きだったが、この時代の映画もなかなか面白い。普及しつつあるカラー映画はもちろんだが、モノクロ映画も結構好きだ。 にっこりと私に笑いかけるクレアも悪くない、と言ったら偉そうだけど。きちんとエスコートしてくれてとっても紳士的だった。女好きって噂される位だから扱いには慣れてるのかも。今も送ってくれるようで駅までの道を私に寄り添うように歩いている。 「クレアさんは、」 「クレアって呼んでくれよ。敬語もナシだ」 あどけない顔で笑う人だなぁと思う。女好きの噂は絶えないのに職場で嫌われたりすることがないのは彼の人柄もあるのだろう。 「分かった。クレアはどうして私を誘ってくれたの?」 「好きだからさ」 「どうして私のこと好きなの?」 「運命だと思ったからさ」 「運命?」 「そうさ。瑞樹が祖国を出てアメリカに来たのも広いアメリカで俺と同じの鉄道会社に入社したのも何より俺の目の前に降ってきたのも!運命以外の何物でもない」 「同じようなこと今まで何人の女の子に行ってきたの?」 「……心外だな」 あどけない笑顔が曇る。表情がころころ変わって子供みたいだ。思わず笑みが漏れる。 「貴方の女好きは社内でも有名だもの。会ったその日にプロポーズしてくるって」 「別に誰彼かまわずプロポーズしてるわけじゃないぜ。本気で惚れたからプロポーズしてるんだ」 「ふーん?」 「信じてないな?」 「そりゃもう」 くすくすと笑うとクレアが少し驚いた顔をする。 「意外だな。ポーカーフェイスで有名な瑞樹が笑うなんて」 「ポーカーフェイスの方がお好み?」 「いや。笑ってた方が可愛い」 ぐっと顔を近づけて囁かれた。反射的に身体をひく。 至近距離で随分と気障なことを言うものだ。アメリカ人のこういうところは未だに慣れない。 慌てて話題を変える。 「クレアって休みの日何してるの?何かトレーニングでもしてる?」 「トレーニングしたりすることもあるが、なんでだ?」 クレアが不思議そうな顔をして首をかしげる。 その際に身体が離れてほっとする。 「車掌さんの割りに結構いい身体してるよね。私が木から落ちた時も軽々受け止めてくれたし」 「お褒めに預かり光栄だな。昔サーカスにいたからな。身体が鈍らない程度には鍛えてるよ」 「サーカス?すごいね。今でも何か芸が出来るの?」 「もちろん。なんでも出来るぜ」 「なんでも?玉乗りとか?空中ブランコも?」 「それくらい寝てても出来る」 大げさだな、と思うがクレアなら本当に寝てても出来そうだなぁと思う。超人的な身体能力を持ったクレア・スタンフィールドなら。 そうだ。そういえば、今日はデートが目的じゃなかった。 「ねえ、クレア」 「なんだ?」 「クレアはヴィーノって殺人鬼知ってる?」 クレアが足を止めて私を見下ろす。 少しだけ怒っているようにも見えた。 「ヴィーノは殺人鬼じゃない。殺し屋だ」 「ごめんなさい。殺し屋さんね」 ヴィーノの名前を出したことに怒ったのかと思ったが、どうやら殺人鬼と言われたことの方が気に障ったらしい。 私はアニメしか見てなかったので、彼の超人的能力や突飛な発想を知ってるだけだ。それ以外の彼の性格は実際にここ最近口説かれている中で知ったことの方が大きい。そんな彼は少なくとも快楽の為に人殺しをしている訳ではないらしい。 「じゃあ、その殺し屋さんはいくら払えば私を殺してくれる?」 「……殺して欲しいのか?」 「うん。あ、でも痛いのは嫌だな。追加料金とか払ったら、優しく、苦痛を感じないように、私を殺してくれる?クレア」 明確にクレア本人に問いかける。クレアがじっと私を探るように見つめてきた。 ヴィーノがクレアだと気付いていることは充分に伝わっているだろう。今この瞬間殺されたらどうしようと冷や汗が湧き出てくる。いっそ死にたいと常々思っていたこともあったのに、いざ死ぬかもしれないと思ったら恐怖が沸き起こってくることに自分の滑稽さを思い知る。 「どうして殺して欲しいんだ?」 「……不安なの」 「不安?」 「そう。不安抱えて生きるの辛いから、いっそ死んだ方が楽かなって」 「随分と極端だな」 極端にもなる。 平和ボケした日本で生まれ育った私には、この時代のアメリカは生きづらくてしょうがない。 私をここへ連れてきたあの悪魔を探し出して日本に返してと言いたいが、取引上、それをしたら私の願いが叶わなくなる。この世界に来たばかりのことは思い出したくない。マフィアや怪しい団体が幅を利かせている治安の悪いこの禁酒時代に、身寄りのない東洋人の女が裏路地を1人でふらふらしていて無事なはずがなかった。 「それなら問題ない」 きっぱりとした答えだった。 「俺がお前を守ってやるから、不安なんか抱える必要がない」 解決だな。と満足そうに頷くクレア。 これが今日の誘いを受けた目的だった。本当にクレアが私に惚れていてくれるのなら、クレアは私を守ろうとするだろうと。そして、私がクレアの申し出を受ければクレアが生涯をかけて守り続けてくれるだろうと。 本来のクレアの相手であるシャーネがクレアと出会う前に、この私がクレアに出会えたのはそれこそ本当にクレアの言う運命だったのではないかと。 「本当に?」 今度は私がクレアを探るように見つめる。 「本当に私を守ってくれる?不安から?私に不安を抱かせているどんなものからも?」 「もちろんだ」 即答だった。 「例えばそれが怪しい宗教団体でも?不老不死の人間でも?悪魔だったとしても?」 「関係ない。お前を狙うのが誰であろうと何であろうと。俺がお前を守ってやる」 「絶対?」 「絶対だ」 縋るようにクレアへ手を伸ばすと、その手をクレアが握ってそのまま抱きしめられた。力強い腕だった。 「本当に、運命だったのかも」 だから言っただろとクレアが笑って、私の目から涙が零れた。 |