葡萄酒と運命13


外に出るともう日は沈んでいた。
肩にかけた鞄を抱えなおす。鞄には数日行動するのに必要な最低限の荷物がつめてあった。他の荷物はクレアの荷物と一緒にガンドールさんの事務所に送っている。羽織っていた上着のボタンを閉める。はあっと息を吐くと白く染まった。

「ヴィクターさん、この辺でご飯食べれるお店教えてくれませんか?」

「店?お前大晦日のこの時間なんてどこも閉まってるぞ」

「えっ」

そんな馬鹿なと思って、振り返ってヴィクターさんの顔を見る。建物の外まで見送りに来てくれたヴィクターさんは、意地悪を言っているわけでは無さそうだった。そういえば、目の前の大通りも人通りが極端に少ない。
この時代のアメリカで年を越すのはこれが2度目だった。前回はまだこちらの世界に来て間もなかったので生活に慣れるので手一杯で、シャーネにべったりくっついて行動していた時期だ。
元の時代の日本では、確かに大晦日は営業時間を短縮している飲食店は多かったが、それでもチェーン店など年中無休の店は沢山有ったので食事には困らなかった。しかし、ここは1930年代のアメリカだ。観光地ならともかく、この不景気に大晦日の日が落ちた時間まで開けてる店も少ないのだろう。

「ご飯食べれるとこ無いんですか……」

同じ質問を繰り返しても答えが変わることなんてないと分かっていたが、一度食事のことを考えだした身体はぐるぐると不服そうに唸った。

「……お前、まさかホテルもこれから探すんじゃねえだろうな」

「なんで分かったんですか」

「……」

ヴィクターさんってしかめっ面の割りに表情豊かだなと思った。





「わざわざ連れてきてやったんだから遠慮せずもっと食えよ」

「元々、小食なんです」

ヴィクターさんが連れてきてくれたのは警察署内部にある食堂だった。食堂と言っても、学食のようなものではなく、カフェに近かった。食事を取れるところは建物内に複数あるそうで、このカフェはその中でも特に人気なお店らしい。実際出される料理はイタリアンが中心でこの国で出される料理にしては美味しかった。目の前のパスタを頬張る。ヴィクターさんの奢りだった。

「にしてもお前計画性無さ過ぎだろ。飯もそうだが大晦日のこの時間からホテル探しとか無謀だぞ」

「……そうなんですか」

アメリカの年末のホテル事情なんて全然考えてなかった。
そういえば、私はこの国に来てから一人で出歩く経験があまり無かった。街に出る時はいつもヒューイさんかシャーネか、クレアと一緒だった。何か外の人と関わる時は、シャーネやヒューイさんが代わりにやってくれることが多かった。東洋人は不当な扱いを受けることが多いので、やってもらった方がスムーズに進んだのだ。職場では流石に自分のことは自分でしていたが、内勤の事務員なので単純なルーティンワークが多く、特に問題は無かった。
年末とはいえ、日本と同じ感覚でホテルを取ろうと思ってしまっていたが、なかなかに無謀だったらしい。それすらも、指摘されるまで分からなかった。自分の世間知らずさを自覚した途端、先行きが不安になってくる。私はこれから一人で大丈夫だろうか。

「お前今までどういう生活してたんだよ。世間知らず過ぎねえか」

「だいたいのことはヒューイさんがやってくれたんで……」

「28にもなってお世話してもらってたのかよ」

ぐさっと心に来ることを言われる。しかし、返す言葉もない。28なら自分の身の回りのことが出来て当然だ。世間のことや社会のことだって一通り身についている年頃だろう。東洋人とはいえ、確かに今までの私はヒューイさんとシャーネに甘え過ぎていた。ヒューイさんにお別れを告げたし、不安は拭いきれないが、これを機にきちんと自立しようと心に決めてフォークに刺さったトマトを口に入れた。

「お前ヒューイの野郎と本当はどういう関係なんだよ。あいつは赤の他人のお世話を好き好んでするようなタイプには見えねえぞ」

「娘ですよ。娘」

嘘であることはヴィクターさんも分かりきっているだろうが、ここで本当のことを言ってもややこしくなるので見え透いた嘘をつき通す。
最後の一口のパスタを平らげる。美味しかった。
目の前のヴィクターさんは私の倍ほどあった量を既にたいらげていた。決してヴィクターさんが大食漢なのではなく、この国の男性はそれくらいの量を普通に食べるのだ。食後のカフェオレを飲みながら、そりゃあ数十年後肥満大国として名を馳せてしまうよなと納得してしまう。

「ヴィクターさんってどうして警察になったんですか?」

「ああ?」

「だって、不死者が公的な職で働くなんて難しいでしょう。身分を証明するものがないわけですし、何より老いることがないのですから長くは勤められません」

200年前がどうだったかは知らないが、この時代では身分証の無い者の就職は難しいだろう。ヴィクターさんがどれくらい前から警察になったのかは分からないが、それでも何年も歳を取らない職員がいたら皆不審に思う。
先程戸籍関係の書類記入の際に寄った部署はヴィクターさんの所属する部署らしい。あの部署は不死者対策を主な業務としおり、皆ヴィクターさんが不死者であることを知っていた。それはつまり、警察の上層部にもヴィクターさんの存在は話が通っているということを示していた。
だけど、それは決して成り行きでできる状況ではない。彼自身が意志を持って警察に所属し、不死者の存在を認めさせたのではないだろうか。それはきっと、簡単なことではない。
ヴィクターさんは私の質問に数秒何か考えたようだったが、素直に答えてくれた。

「俺はな、ギャングやマフィアみてえな我が物顔で裏社会の支配者だと自慢げに闊歩してるようは輩が嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いできら……げはっ…げほぉっ……」

「……大丈夫ですか?」

咳き込むヴィクターさんに水を渡す。
ヴィクターさんが水を一気に呷った。
咳き込むまで言葉を続けるなんてよっぽど嫌いなんだなあ。
水を一気に呷ったせいで再度咳き込みだしたヴィクターさんをぼんやり見る。

「とにかくだ。俺は所謂ギャングって野郎共が心底嫌いで仕方ねえんだ。お前の言う通り、不死者ってのはマトモな職に就くのは難しい。でも、だからって違法行為をしていいわけじゃねえ。裏社会の支配者になって我が物顔で街を歩いていいわけでもねえ。ヒューイの野郎もだが、マフィアみてえな違法な組織に所属してギャングやってる不死者はいる。それも複数人だ。そういう奴等を野放しにしておくのが許せねえんだよ、俺は」

ヴィクターさんが警察に入るまでにどれ程苦労したかは想像もできない。今の地位に上り詰めるのだって楽ではなかったはずだ。ヴィクターさんの所属する捜査局は普通の州の警察とは違う特殊な組織で、将来的にはあの「FBI」となる。映画やテレビでしか知らない組織で、正直「アメリカのエリート集団」という漠然としたイメージしかない。だけど、そのイメージは間違っているわけではないと思う。常人でもなかなか入れない組織に、不死者というハンデを持ちながらも、最前線で活躍しているヴィクターさんは紛うことなきエリートだ。
あの船に乗っていた人達は今から200年も前から錬金術師という名の科学者として研究を行っていた人達なので皆一様にして頭は良い。それでも、船を下りてこの合衆国で過ごした年月をこの人は決して堕落せず研磨し続けて今のポジションにいるのだ。
ヴィクターさんはその喧嘩腰な態度からは想像できない程、正義感の塊なのかもしれない。

「お前はどうなんだよ」

「へ?」

「ヒューイの仲間なら、あいつの心配するのが普通だろう。あいつが刑期を終えて出所するのを待つとかな。一応、あいつはテロではあったが未遂に終わってる。難癖つけて引き延ばしたって大した刑期にはならねえ。だが、お前はむしろこれを機にあいつから離れようとしてるじゃねえか。なんか考えがあるんじゃねえのかよ」

「……ヴィクターさんって案外色々考えてるんですね」

「ああ!?」

青筋が立ったヴィクターさんを見る。「案外」は余計だったな。分かってたけど。
話しても良いものだろうか。これから自分が何をしようとしているか。ヒューイさんの記憶で彼のことを多少は知っているとはいえ、初対面の相手に話すようなことではないと思う。しかし、彼は捜査局の人間であり、今現在ヒューイさんを拘束している人間でもある。ヒューイさんは恐らく刑務所に入っていても変わらず外へ指示を出すことが出来るだろうし、捕まる前と変わりなく「ラルウァ」や「ラミア」は動くだろう。その状況で、ヴィクターさんに手の内を明かすことは、吉となるだろうか。目の前の彼は正義感の塊でルールを遵守するタイプであるようなので、組織内部ならともかく外部に情報を漏らすことはしないだろうが、正直私がこれからしようとしていることは法に触れることも多いだろうし、下手に話すと逆に動きづらくなったりしそうだ。

「……改めて聞かれても、正直ノープランなんですよね」

出した答えは、「話さない」だった。

「ヒューイさんのところにいると実験と称して色々やられたものですから、いつかヒューイさんから離れようとは思ってたんですよ。結婚もその為の手段の一つです。とりあえず今は婚約者の元に戻って生活を整えよう位にしか考えてません」

「……そうかよ。お前は計画的に行動しそうなタイプに見えたんだがな」

「買いかぶり過ぎです。ホテルや食事のことだって適当だったじゃないですか」

「確かにな」

ヴィクターさんは、はーっと大きな溜息をついた。
私から何かヒューイさんの情報を得られるかと期待でもしていたのだろうか。少しだけ申し訳ない気持ちになる。食事も奢ってもらったし、この後、警察関係者がよく宿泊するというホテルに案内してもらう予定だった。警察の仕事なんてものは急な案件が多いので急な宿泊も多く、そこでなら大晦日の急な客も受け入れてくれるだろうとのことだった。「エルマーの分も確保しとくか。どうせアイツも泊まるとこねえんだろ」とホテルに電話をしてくれたヴィクターさんはなかなかに面倒見が良い。その面倒見が良いヴィクターさんに隠し事をするのは後ろめたかったが、捜査局という立場を鑑みても今はまだ話す段階ではないと思った。

「実験って具体的に何されてたんだよ」

「まあ、普通に、再生能力がどこまで正常に機能するのかとか、そういうことです」

「……そういうことってどういうことだよ」

椅子の背もたれに体重を預けていたヴィクターさんが起き上がる。

「銃で撃たれたりとか、身体の一部を切り取られたりとか、切り取った一部を燃やしたりとか、あと電気流されたりとか……」

「お前そんなことされてたのに平気な顔してヒューイと話してたのか!?」

「……一応、合意の上での実験でしたので」

ヒューイさんは私の身体に興味津々だった。いや、この言い方だとなんか誤解を招きそうだが。不死ではないが不老のホムンクルスはヒューイさんの元にいたが、不老ではないが老衰以外で死なない不完全な不死者は居なかった。女の悪魔によって手を加えられたと思われる私の身体はヒューイさんにとって絶好の実験体だったのだ。
この世界に来て就職するまでの数か月は正直しんどかった。四六時中実験か、護身術の手合せだった。シャーネや「ラミア」の人達のことは皆好きだったけど、それでもヒューイさんと関わりの無い人達と話したかった。その為に、一般企業への就職をヒューイさんに申し出たのだ。フライング・プッシーフット号に確実に乗る為の保険と銘打っていたが、正直ただの有益な現実逃避だった。

「仮にも娘ですら実験体にするのかよ。あいつは」

「しますよ」

「ああ?」

「ヒューイさんは娘でも実験体にします。自分との血縁なんて関係ありません。あの人にとって、人類は全て実験体です。たった一人の例外を除いて」

「……例外って誰だよ」

「さっきまで一緒だったじゃないですか」

「……エルマーか」

「そうです」

ふーっ先程とは違った溜息をつくヴィクターさんを見る。ヴィクターさんにはヒューイさんの思考は理解出来ないのだろう。まあ、私もよく分からないし、理解できる人の方が少ないだろう。
カフェオレがそろそろなくなりそうだった。

「ヒューイの野郎は何を企んでんだよ」

「なんかその言い方だと、ヒューイさんが壮大な野望でも抱いてるみたいですね。世界征服とか」

「あの野郎が世界征服とか冗談じゃねえよ」

「まあ、冗談ですから」

「……」

ぴきっとヴィクターさんの額に青筋が立つ。本当にからかい甲斐のある人だ。

「ヒューイさんは野望なんて抱いてるわけではありません。あるのはただの知識欲です。行われるとしたら世界征服ではなく、それはただの『実験』です」

だからこそ、手におえないのだけれど。
最後の一口のカフェオレを飲みきってカップを置いた。

「お前、ノープランなんて嘘だろ。ヒューイの野郎がやろうとしてることを邪魔してやろうとか考えてるんじゃねえのか」

カップから視線を上げてヴィクターさんを見る。

「……なんでそう思うんですか?」

「お前ぇの今の表情は『ノープラン』って顔じゃなかったぜ」

どんな顔をしていたのだろう。「あまり感情が表情に出ないのね」と会社で同僚に言われたことはあったはずだが。思わず片手で口元を覆う。その行動を見て、図星だと気付いたヴィクターさんは身を乗り出してきた。

「吐けよ。お前、何を企んでいる」

ヴィクターさんの言った言葉は、映画に出てくる「FBI」というよりは悪の組織が言いそうな台詞だなと思った。






***






あの後、私はDD新聞社の廊下でぶっ倒れた。
多分、疲れが一気に来たんだと思う。

フライング・プッシーフット号以来、主に一人で行動してたことが多かった。それまではシャーネかヒューイさんがほぼ必ず一緒に行動してくれてたし、職場では監視役ではあったがシャムが側にいたので困ったことがあればよく頼っていた。そして、クレアと付き合いだしてからはクレアにも守られていた。たった数日間のことだったが、私は監視も護衛もなく、一人で考えて一人で行動するというのがこの世界に来てほぼ初めてだった。
元いた世界では海外旅行どころか国内の旅行すらほとんど行ったことがない私はヴィクターさんに言われた通り世間知らずだった。その世間知らずにとって、アメリカという外国の知らない街で一人というのは思った以上に心細かった。
ヒューイさんの記憶のおかげで一方的馴染みがあったとはいえ、初対面のエルマーさんにヒューイさんの面会の同行をお願いしたことや会ったこともないヴィクターさんにヒューイさんの面会させてくれるよう頼むことは緊張したし、フェルメートの件もあってヒューイさんには八つ当たりしてしまった。ジャグジーさん達はともかく、スパイクさん達と話す時は気が抜けなかったし、ベリアム議員と会った時は話がうまくまとめられる自信が無くて冷や汗が止まらなかったし、うまくまとまったと思ったら殺されかけて納まりかけていた冷や汗が再度噴出した。その後ケイトさんに会って、少しだけ気分が和らいだが、新たにできた悩みは未だに胸の中にある。なだれ込むようにルノラータとガンドールの争いに巻き込まれたことも負担が大きかったようだ。あんな即死の傷を負ったのはヒューイさんの実験以来久しぶりだった。

そして、何より、クレアと再会できたことによる安心は大きかった。

気を失った私はクレアに抱えられてガンドールの事務所に帰ってきた。
私はそのまま熱を出して数日間寝込んだ。
事態はその間に収束していった。

ロイさんは入院した。といっても、違法な薬物を使用していたので一度救急車で運ばれた表の病院ではなく、訳あり患者を受け入れてくれている個人の医者の元に移ったらしい。「これからが大変ですよ」とイーディスさんが言葉とは裏腹に安堵したような表情でガンドール兄弟に報告していたそうだ。
イブ嬢はあの後自分の屋敷に戻った。私には手紙をくれた。兄を探すことを完全に諦めた訳ではないが、今は自分に出来ることをしようと決めたとのことだった。体調が回復したら、是非お茶に来てくださいと文末に添えてあったのが嬉しかった。
ガンドールファミリーとルノラータファミリーは休戦協定を結んだらしい。キースさんが交渉をしたそうだ。あんな巨大な組織と休戦協定を結べるような交渉が出来ることが驚きだった。キースさん自身は本当に無口でその人柄が正直よく分からないがケイトさんが生き様に惚れ込むくらいなのできっと素敵な人なのだろう。
ベルガさんは聞いてた通り粗雑な人だったが面倒見は良いらしく、寝込んでいる私を度々見舞いに来てくれた。しかし、寝ている私のすぐ側でクレアと喧嘩し始めた時は流石に勘弁して欲しかった。ラックさんが二人を部屋から追い出してくれなかったら下がりかけていた熱が再び上がっていたと思う。

「何も聞かないんですね」

二人を追い出したラックさんに、私は思わず声をかけた。

「寝込んでいる人間を問い詰めるほど冷酷ではありませんよ」

そう言ったラックさんは、クレアの言っていた通り、マフィアには向いてない人だ。
寝込んでいる間はチックさんという人が私に食事を用意してくれた。
日に一度ケイトさんが来て、熱が下がらずシャワーも浴びられない私の身体を丁寧にふいて着替えまで手伝ってくれた。
私の熱が完全に下がった頃にはグスターヴォに雇われていた殺し屋のマリアさんはガンドールファミリーに馴染んでいた。





「新居?」

「そうだ。俺は死んだことになってるからシカゴには帰れないし、ニューヨークに新居を買おうと思うんだ。もちろん、俺と瑞樹の二人で住める新居だ」

熱が下がって数日が経った頃、クレアが頬を染めて提案した。
今、私達はガンドールファミリーの事務所に寝泊まりしていた。比較的街中にあり住むには便利な立地だったが、いつまでもお世話になるわけにもいかないだろう。そうなれば新居は必要だ。
さっそく新居を探しに不動産屋に行こうと身支度を始める。クレアが「新居は庭のある一軒家を買うか」とうきうきしながら言っていたが、私的には2DKくらいの賃貸マンションが良いなあと考えていた。
身支度が終わった頃、クレアが重要なことを言い出した。

「そう言えば瑞樹の戸籍無いんだろ?家を借りるなら身分証がいるが、どうする?戸籍を買ってくるか?」

髪を整えていた手を止めてクレアを見る。

「……なんで私の戸籍が無いこと知ってるの?」

「知ってるというか、俺との入籍を先延ばしにしてたから不法入国でもしてアメリカ国籍が無いのかと考えてたんだが違うのか?」

「……違いません」

犯罪行為を当たり前のように言われて若干の抵抗感を覚えるが、正式な手続き無く国境を越えたのだから不法入国であることには変わりない。越えたのは国境だけではなく時空もだが。
クレアはその身体能力に目が行きがちだが、非常に頭が良いと思う。戸籍のこともそうだが、一緒に行動しているとどんどん思考や行動を先読みされて心が読まれているんじゃないかと錯覚するくらいだ。単純に事実を推測するだけではなく、私の性格や行動パターンからこうだろう、とかこれは違うとかそういう能力に長けている。
普通、入籍を先延ばしにしてたら、「本当は結婚する気が無いんじゃないか?」とか疑ってもおかしくはないのだが、そこで「不法入国でアメリカ国籍が無い」という、つまりは「瑞樹は俺と結婚する気がないのではなく出来ない事情がある」と結論に辿り着く辺りが流石クレアという感じだった。
戸籍以外のことも隠していることが多いが、クレアには実はもうばれてしまっているのかもしれない。未だに話せてない「レムレース」の人達との仕事の話はやはり正直に話した方が良いだろうか。話さなくても既にバレてそうだ。

何はともあれ、家を借りるにしろ買うにしろ、同居人が無国籍というのは問題だろう。ヴィクターさんは数日あれば戸籍が出来ると言っていたが、具体的には何日かかるものなのだろうか。新居探しはまた日を改めた方がいいかもしれない。
それにしても、近所のスーパーへ買い物に行くかのようなノリで戸籍を「買ってくるか?」なんて、本当に私は色んな意味で別世界に来てしまったとしみじみと感じる。
しかし、スーパーに戸籍を買いに行く必要はないのだ。

「戸籍の都合はね、もうすぐつくの」

「そうなのか?ああ、だから寄り道してたのか」

「うん。だから、」

だから、クレアとは入籍出来るし一緒に新居にも住める。
だけど、私はまだ迷っていた。
私は本当にクレアと結婚していいのだろうか。

「瑞樹?」

クレアが沈黙して俯いた私の顔を覗き込む。
目があったら心を読まれてしまいそうで思わず目を逸らした。

「……」

「……」

じっとクレアが私を見つめているのが分かる。沈黙が痛かった。
数秒間の沈黙はノックの音で遮られた。

「瑞樹さん、ちょっといいですか」

ラックさんだ。

「お客さんです」

「お客?」





「よう」

「ヴィクターさん!」

噂をすればというべきか、来客はヴィクターさんだった。

「瑞樹さんは警察にお知り合いがいるんですね」

ラックさんの棘を含んでいるとも取れる言葉にはっとなる。マフィアの事務所に警察が来客なんて確実に良く思われないはずだ。
周りを見渡すと事務所にいた面子がそれぞれ不機嫌と警戒を露わにしていた。私が来るまでに何か一悶着でもあったのだろうか。

「すみません、ラックさん。すぐに移動しますので、これ以上ご迷惑はおかけしません」

ヴィクターさんの後ろから、眼鏡をかけた男性が現れた。
その記憶にある姿にすうっと血の気が引いていくのが分かる。

「マイザー・アヴァーロ……」

名前を呼ぶとマイザーがこちらを向いた。
ガンドール兄弟やクレアも不思議そうに私を見た。当たり前だ。私が会ったこともないマルティージョの出納係の名前を知っているのはおかしい。名前を呼んだのは失敗だった。ここ数日ですっかり和らいでいたラックさんの視線がまた厳しくなる。
しかし、それよりも気になることがあった。

「……お二人だけですか?」

「おう。エルマーなら居ねえぞ。どっか行っちまった」

ほっと息をつく。気にしていたのはエルマーさんじゃない。マイザー・アヴァーロの側にいるはずの、あの男の悪魔が一緒かと思ったのだ。
男の悪魔と対面すれば私は「男の悪魔を見つけた」ことになってしまう。それはこの世界への別れを意味していた。

「ちょっと出てこれるか?」

ヴィクターさんが外を指さす。戸籍の件で何かあっただろうか。それともヒューイさんの件だろうか。マイザー・アヴァーロが一緒というのが引っかかった。この二人の交友関係がこの200年でどう変わっているかは把握していない。正直、悪い予感しかしなかったが、ガンドールファミリーの事務所では話したいことも話せない。
頷いてついていこうとすると腕を掴まれた。

「瑞樹に何のようだ?」

クレアだった。

「ああ?別に取って食おうってわけじゃねえよ」

「だったらここで用を済ませばいいだろう」

「どこでどんな話しようがこっちの勝手……」

クレアの言葉に喧嘩腰になり始めていたヴィクターさんが言葉を止める。吊り上がり始めていた眉が固まる。
数秒黙った後、クレアを指さしてヴィクターさんが私を見た。

「……こいつが例の婚約者か?」

首肯した。

「んだよ!早く言えよ!!!ほらよ!コイツの戸籍謄本だよ!入籍するのに必要だろうが!!!」

ヴィクターさんが荒っぽく手に持っていた茶封筒をクレアに叩きつけた。
クレアが少し驚いてその茶封筒を受け取る。
どうやら私の戸籍は問題なく出来たみたいだ。しかし、手紙か電話で連絡してくれれば良いものを、わざわざこの為に今日来てくれたのだろうか。

「わざわざ戸籍謄本を持ってきてくれたんですか?」

「そうだよ!感謝しろ!!!」

がしっとヴィクターさんが左手で私の頭を掴んだ。

「ちょっと!なんですかヴィクターさん!痛いです!」

「うるせえ!いいか!お前は今俺に借りが二つある!戸籍の件とロイ・マードックの件だ!!!」

ヴィクターさんの言葉にガンドール三兄弟の視線が集まるのが分かった。そういえば、ロイ・マードックの件のことを話すのをすっかり忘れていた。

「ロイ・マードックは普通なら病院に運ばれた時点で違法薬物乱用が判明して豚箱行きだが、それを揉み消してやったんだからな!!!」

「声が大きいです!!ロイさんの件はそもそもベグ・ガロットが悪いんじゃないですか!!!!彼みたいな危ない存在を野放しにしといて借りだなんて笑わせますね!!!!!」

怒鳴るヴィクターさんにつられてこっちまで声が大きくなる。頭を強く握っているヴィクターさんの手に更に力が加わった。
ヴィクターさんの腕を掴んで暴れるが全然離してくれなかった。

「ベグの野郎もすぐヒューイと同じく豚箱にぶち込んでやるよ!!!」

「それは楽しみですね!!!一刻も早くお願いしますよ!!!!」

「ちょっと!二人とも!やめてください!」

ぎゃーぎゃーと騒ぐ私とヴィクターさんをマイザー・アヴァーロが仲裁に入った。ようやくヴィクターさんの手が私の頭から離れる。痛かった。頭を摩る。マイザー・アヴァーロが溜め息をついた。

「場所を移動します。かまいませんね?」

後半はクレアに対しての問いかけだった。今の会話で大方の状況を把握してくれたのかクレアは無言で頷いた。





「まったく、貴方達は子供ですか……」

溜め息をついたマイザー・アヴァーロに連れてこられたのは静かな喫茶店だった。おそらくこの喫茶店はマルティージョファミリーの息のかかった店なのだろう。入店した私達は何も言わなくてもマイザー・アヴァーロの顔を見た店主に最奥にある個室に案内された。
個室の壁際にそこそこ上質なソファが、入口側にはソファと同系統のデザインの椅子が並べられていた。促されるままにソファの方へ座る。

「一応紹介しとくが、こいつはマイザー・アヴァーロだ。んで、こっちは瑞樹だ。ヒューイの娘だと」

「よろしく、瑞樹さん」

「……よろしくお願いします。マイザーさん」

ドリンクを注文してヴィクターさんにようやく互いを紹介される。差し出されたマイザーさんの手を握るが、正直何故彼と引き合わされたのかが分からなかった。ヒューイの娘と聞いても一切不審がる素振りは無いし、私のことはヴィクターさんから何か聞いているのだろうか。ちらりとヴィクターさんを見る。

「……何企んでるんですか」

「んな、警戒心丸出しにすんなよ。一応お前の為を思っての行動だぜ」

「ますます信用できません」

ぴきっとヴィクターさんの額に青筋が出来る。

「ヴィクター!」

マイザーさんが咎めるようにヴィクターさんを呼んだ。
先程の二の舞になるのは避けたいのだろう。

「……いいか、よく聞けよ。マイザーをお前に紹介したのは世間知らずのお前が不慣れな土地で頼る人がいなくて心細いと思ってだな」

「……ヴィクターさん嘘が苦手なら無理しない方がいいですよ」

「……」

ひくひくとヴィクターさんの顔がひくつく。
マイザーさんがはらはらといった表情で私達の会話を聞いていた。

「マイザーさんを私と引き合わせたのは、ここ数日ヴィクターさんの部下が私を尾行してたことと何か関係があるんですか?」

ひくりとヴィクターさんの顔が固まる。
マイザーさんが私の顔を見た。

「危害を加える様子は無かったので放置していましたが」

「……何が放置だよ。撒いたくせによお」

ヴィクターさんがじろりと私を見下ろす。

「そりゃあ一方的に付け回されたら不愉快ですから」

注文したドリンクが運ばれてくる。
ヴィクターさんが面倒見良いのは大晦日で分かってはいたが、流石に尾行されて監視されていると知ったら良い気分にはならなかった。
暖かいココアを胃に流し込む。ココアが私の体の中でぐるぐると渦巻いている気がした。
コーヒーをひとくち飲んだマイザーさんが切り出した。

「瑞樹さん、ヴィクターから聞いたのですが、貴女はヒューイの計画を阻止したいそうですね?」

「……そうですが」

「ヒューイに関しては旧知の仲ですし、何か力になれることもあると思います。よければ仲良くして頂けませんか?」

「……私と仲良くして貴方は何のメリットを得るんですか?」

マイザーさんが口を閉ざした。
ヴィクターさんは口が堅い方だと思っていた。こんなにもすぐに私のことを、同じ不死者とはいえ、外部の人に話すなんて思わなかった。大晦日の自分の行為を恨んでも遅い。判断を間違えた。

「私としては是非とも仲良くさせて頂きたいですよ。ヴィクターさんが言った通り不慣れな土地ですしね。ですが、マイザーさん、貴方は私と仲良くして何のメリットを得るんですか?貴方はヴィクターさんと組んで私と会って何を期待してたんですか?」

つい語調が強くなる。別にマイザーさんを責めたいわけではないのに。
マイザーさんは少なくとも危害を加えるつもりはないらしい。それはなんとなく分かっていた。
マイザーさんはしばらく無言で探るように私を見て、口を開いた。

「チェスから貴方の話を聞きました」

「……は?」

予想外の名前が出てきて思わず素っ頓狂な声がでた。

「私の知人にエニスという女性がいるのですが、彼女の額に左手を乗せると記憶を見せることが出来るんですよ」

「……」

「回りくどく言うのはあまり好きではないようなので、単刀直入に聞きますね。貴方はヒューイの娘と伺いましたが、本当はセラードの作ったホムンクルスなのではないですか?」

違う。私はヒューイさんの娘ではないし、ましてセラードの作ったホムンクルスではない。ヒューイさんの娘というのは勿論マイザーさんも信じていないとは思うが彼の作ったホムンクルスくらいには思ってるかもしれない。
だけど、ヒューイさんは自分が作ったホムンクルスに不死の酒は与えていない。それは自分を殺せる存在を増やす行為だからだ。私自身は不死者を食うことが出来るかどうかは分からないままだ。それを彼らが知っているわけではないが、それでもチェスワフ・メイエルからの情報とヒューイさんとの旧知の仲から私を彼のホムンクルスと考えるよりも前例のあるセラード・クェーツのホムンクルスと考えた方が納得がいきやすいのだろう。

「残念ですが、私はホムンクルスではありません。ヒューイさんは確かに数十年ほど前にセラードの研究の一部を盗んでいますが、それは私の出生とは関係ありませんよ」

「……そうですか」

マイザーさんは少し肩を落としたようだった。何かセラードのホムンクルスに用があったのだろうか。というか、セラードが作ったかどうかならフィーロ・プロシェンツォに確認すれば良いことではないだろうか。彼の中にはセラードの記憶があるのだから。
それとも「ラミア」の人達のような存在のことを聞きたかったのだろうか。セラードが作った訳ではないが、セラードから盗んだ技術でヒューイさんが作ったホムンクルスだ。とはいえ、離反した身で彼らと接触するのは難しいだろう。場合によってはヒューイさん側に連れ戻されるかもしれない。ああ、私はあの友人達ともう会えないのか。その事実にようやく気が付いて気持ちが沈んだ。
なんにせよ、彼の力にはなれそうになかった。

「マイザーとお前を引き合わせたのはマイザーに頼まれたからだよ。俺とお前が年末に接触したのをどっかから情報仕入れたんだと。まあ、俺もついでに監視代わりにならねえかとは思っていたけどよ」

ヴィクターさんがコーヒーをすする。
その正直な言葉に少し胃が痛んだ。

「私を信用してくれないんですね」

「……悪いけどよ、ただでさえ会って数日のヤツで、しかも元とはいえヒューイのお仲間を信用するほどこっちも呑気じゃねえんだわ」

つかお前もさっきまで俺に警戒心バリバリだっただろうが、と続けたヴィクターさんの言葉は尤もだと思う。私も逆の立場なら疑ったし、私自身ヴィクターさんを全面的に信用しているわけではない。ヒューイさんと会ったばかりの頃に「出会って3日もない人を信用する方がおかしいと思います」と自分で言ったことを思い出した。自分が信じていないのに相手が信じてくれるなんてそんな虫のいい話は無い。どうして今私は責めるような物言いをしてしまったんだろう。
重い溜息が漏れた。

ここ数日、シャムが仲間になってくれたりベリアム議員との交渉がなんとかうまくいったりとんとん拍子に進んでいたが、やはり全てがうまくいくわけではないのだ。
まして、私みたいな人間のすることだ。むしろ今までが上手くいきすぎていたのだ。
不安が一気に押し寄せる。お腹がきりきりと痛んだ。暖かいココアを飲んでいるはずなのに指先が冷えている。ここに冷えた手をつつんでくれるケイトさんはいない。

「そう落ち込むなよ。さっきもお前の婚約者に言ったけどよ、取って食おうってわけじゃねえんだ。怪しい動きを見せたからって難癖つけて豚箱にぶち込むつもりもねえ。お前はヒューイの関係者だが、あいつの思想とかに共感するタイプでもないのは分かってるし、あいつから独立しようとしてるのも知ってる。テロの実行犯じゃねえってのもチケットの購入日調べたから疑ってねえ。だけどな、ヒューイって野郎は一筋縄じゃいかねえのは知ってんだろ。お前はあいつから独り立ちしたつもりかもしれないが、お前あいつに散々身体を触られたんだろ?だったら、お前が気付かないヒューイの意図がお前の身体にあってもおかしくはねえ。監視は続けさせてもらうぜ。悪く思うなよ」

ヴィクターさんの言葉に何も返せなかった。
私のチケットの購入日までしっかり調べた上で、今日接触を図ってきたのか。流石はエリート集団のFBIだ。大した下調べもせず、ベリアム議員に会いに行った私なんかとは比べ物にならない。
推測している内容も的確だった。ヒューイさんは私より何枚も上手だ。散々行われた「実験」の中で私に何か仕込んでてもおかしくはない。そんな簡単なことも考え付かなかったなんて。

「瑞樹さん」

名前を呼ばれて顔を上げる。そこで初めて自分が酷く俯いていたことに気付く。思ったより精神的なショックが大きかったようだ。

「もし、貴女が良ければ、私と友達になっていただけませんか?」

「……え?」

「せっかくこうして知り合えたのです。これも何かの縁でしょう。貴方なら不死の事情も知っていますし、隠し事などせず気兼ねなく話せます。監視なんて抜きにして偶にこうしてお茶でもして頂けませんか?良ければチェスも交えて」

マイザーさんの言葉がうまく飲み込めない。裏があるのかとも思ったが、ヒューイさんの記憶では彼は相手を言葉巧みに騙すような人ではなかった。

「ナンパかよ」

「人聞きの悪い事言わないでくださいよ」

ヴィクターさんの憎まれ口が遠い。
200歳以上も年上の男性と「友達」なんて違和感しかなかったが、彼の物腰柔らかな態度を疑う体力が今の私には無かった。

「……よろしくお願いします」

頭を下げた私をマイザーさんは心配そうに見ていた。





「大丈夫ですか?」

店を出てマイザーさんにのぞき込まれる。ヴィクターさんは「ギャングに奢られるなんざ冗談じゃねえ!!!」と会計をしてくれていた。
マイザーさんと目が合って、しばらく考え込む。

「……いま」

「え?」

「今の私、マイザーさんから見てどんな状態に見えてますか?」

「……元気いっぱいというようには見えませんね」

その言葉に乾いた笑いが出る。
気を抜くと視線が足元に落ちていた。

「何事もうまくいくなんてことないのは分かってるんですけどね。むしろ、今まで自分一人で行動起こしてうまくいったことの方が少なかったのに。どうして急に、うまくいくって、心の何処かでも、どうして思えたんだろうって」

初対面のマイザーさんに話すことではないのは分かっていた。
靴の先に砂利がついているのに気が付いて軽く足を振って落とそうとしたが落ちてくれなかった。また溜息が漏れる。

「貴女は一人ではありませんよ」

続けられた言葉に顔を上げる。
マイザーさんの視線が私を飛び越えている。振り返るとクレアがいた。

「ご結婚おめでとうございます」

マイザーさんの言葉は暖かかった。





無言のクレアと帰路につく。
クレアが無言というのは珍しい。クレアは多弁なタイプだ。
偶にうるさく感じる位にしゃべるのがクレアだった。しかもその内容がどうにも偉そうなので付き合いたての頃は度々苛立ったものだ。だけどその苛立ちも久しく感じていない。クレアの言葉に苛立ちを感じなくなったのはいつからだろうか。クレアの側がくつろげるようになったのは、安心できる場所になったのはいつからだろうか。

クレアはどうして黙っているんだろう。多弁なクレアが黙っているのは何か理由があるはずだ。クレアは私の心を読んでいるのかと思うほど私の考えが分かるのに、私はクレアが何を考えているのか全然分からなかった。

靴には相変わらず砂利がついている。黙々と歩く位では砂利は落ちなかった。

「やっぱり駄目だわ、俺」

クレアが突然立ち止まって、くるりと振り替る。

「じっと待ってるとか出来ない」

真っ直ぐに私を見つめる。その瞳を見返した。この瞳だ。まっすぐで正直で隠し事なんかなくて、それでいて力強くて。私の心を読んでいるのではないかと思うほど深く、思慮深い瞳だ。

「瑞樹、話したくないことがあるのは分かってる。知られたくないこともあるんだろ。かと言って、俺のこと信じてないわけじゃないってことも理解してる。それでも、一人で抱え込むのはやめてくれ。しんどかったらしんどいって言って欲しいし、一人が不安だったら俺が一緒にいる。瑞樹が何者だろうと何をしてようと俺には大した問題じゃない」

強引だけど、優しくて。尊大だけど、謙虚を忘れたわけじゃない。

「列車で別れた後、何をしてたかなんて聞かない。誰と会っていたのかもどうだっていい。何も言わなくていい。説明なんていらない。ただ熱を出して寝込まれるのは嫌だ。目の前で苦しそうにしてるのに手を握ること位しかできないのは、俺もなかなかに堪えた」

クレアが珍しく眉を寄せる。
私が寝込んでいる間、そんなことを考えていたのか。
考えてみれば、私は私がどうすべきかばかり考えていたが、私の行動によって周りの人がどう思うかをあまり考えてなかった。クレアに対しても、「レムレース」の人達のことはバレてるかも、とは考えたが、その「クレアに対して隠し事をしている」ということをクレア自身がどう感じているかまでは考えていなかった。

クレアはとても賢くて思慮深い。
その身体能力に目が行きがちだが、彼の神髄はその脳だと思う。
クレアの言う「世界は俺のもの」という理論も、「世界とは何か」とか「自分が見ているものはなんなのか」とかそういうことを疑問に思って、突き詰めて考え抜き、自分なりに考えだした結論だ。普通の人なら気付きもしないようなことを疑問に思い、突き詰めて考えて自分なりの結論を出せる人間は世の中に少ない。
常人が聞くと、その突飛な発想に呆れがちだが彼は彼なりの哲学を持っている。時代が時代なら哲学者として名を馳せてそうだ。

だから、そのクレアから「何も言わなくていい」というその言葉が出るまでに、どれほど私のことを考えてくれたのか、分からない訳じゃなかった。

「今回だって、警察とマルティージョの奴と何話してたかも聞く気はなかった。だけど、そんな表情をするのなら話は別だ」

ぐっとクレアに肩を掴まれる。

クレアは賢くて思慮深くて。尊大だけど、謙虚を忘れたわけじゃなくて。強引だけど優しいことを、私は知っている。

「瑞樹、今度は何を抱え込んでる?俺に話せないことか?どうして話せないんだ?お前は今、何を考えている?」

その優しさに、容赦なんて無いことも。

2017.10.02
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