葡萄酒と運命15 がちゃんと鍵を閉める。 本来なら店の戸締りなんて下っ端の仕事だが、今夜は従業員の体調が芳しくなく、営業時間が終わると同時に帰らせたのだ。従業員は俺に戸締りをさせることを気にしていたが、体調不良を引きずって店の営業やシフトに支障をきたされた方が困ると追い出したら大人しく帰っていった。 年末も近くなって寒さが身に染みるようになってきた。夏ならもうとっくに日が昇っている時間帯だが、真冬の今では東の空がうっすら赤みを差している程度だ。 寒さに身体を震わせ、コートの前を掴み首元から入ってくる風を遮る。その時、パシュッっと音がした。聞き覚えのある音に耳を澄ます。もし、俺の耳が間違ってなければ、あれは銃のサイレンサーの音だ。じっと耳をそばだてていると、どさっと何かが倒れる音がした。 ゆっくりと極力足音を出さずに音の方へ近づく。 そっと細い路地を覗き込むと、女が立っていた。 足元には男が倒れている。女の手には銃があり、先程サイレンサーで銃を撃った本人だということが分かった。 薄暗い時間帯の薄暗い路地裏に目を凝らす。黒髪に黒い目の東洋人だ。東洋人の女は見かけない顔だった。人の多いニューヨークだが、自分の組のシマで銃を扱うヤツの顔は大方把握している。その中には目の前の女は該当しない。つまり、最近外からやって来た人間という事だろう。 「何をしている」 「……っ!」 声と同時に背中を思いっきり殴り飛ばされる。 体勢を崩し、路地裏に身体が倒れこむ。 慌てて起き上がると、銃を持った東洋人の女が驚いた顔で突然現れた俺を見ていた。 「貴様等よくも……」 声に振り返ると路地の入口に先程俺を殴ったと思われる黒服の男が、青筋を立てて銃を向けていた。 というか、コイツ今「貴様等」って言わなかったか? 「彼は私の仲間ではありません。通りすがりの一般人ではありませんか?」 俺と同じところが引っ掛かったのだろう。東洋人の女は俺を庇う様に黒服の男に問いかけた。 「一般人ならこんな時間にこんな場所でうろついている訳がないだろう!」 黒服が叫ぶと同時に銃を撃った。ガァン!とサイレンサーの無い銃声は明け方の静かな空間によく響いた。 確かに、この辺りは違法な店が多い。うちの店も違法な店だ。そんな場所にこんな時間にうろついている俺も堅気の人間ではない。だから、男の言葉は正しい。しかし、通りすがりであることも真実だ。 完全にとばっちりだ、と思う間もなく銃弾が俺に向かってくる瞬間、女の背中が見えた。 銃弾が貫通する音がして、俺を庇った女が目の前で倒れる。 「おいっ!」 すぐに女の身体を起き上がらせるが、銃弾は頭を貫通していた。 舌打ちをしたと同時にごりっと額に硬いものが当てられる。 見上げると黒服が俺に銃を突き付けていた。 「死ね」 ありきたりな言葉と共に引き金が引かれる。 パシュッと音がした。予想と違う音に一瞬呆けていると目の前の黒服がゆっくりと倒れた。 倒れた黒服の背後には、サイレンサーを付けた銃を持った別の男がいた。おそらく先程の銃声で走ってきたのだろう。肩で息をしている。 その男は俺の顔を見てその碧眼に困惑の色を浮かばせた。 数秒の沈黙の後、向こうから切り出した。 「……アンタ、コイツの関係者か?」 コイツ、と今死んだばかりの黒服を指して碧眼の男が聞く。 「違う。通りすがりに巻き込まれ、たん、だ……」 語尾が切れ切れになる。 返答するよりも気になるものが視界に入ったからだ。 血だ。 血が動いている。 俺の周りに飛び散った血がうぞうぞと蠢き、生き物の様に俺が抱えていた女の頭に集まる。数秒の後、生気を失っていた女の目が動いた。 「あれ?助けに来てくれたんですか。ルーカスさん」 女は碧眼の男にそう言って笑いかけると男は呆れたように溜息をついた。 「冷や冷やさせないでくださいよ。瑞樹さん」 瑞樹と呼ばれた東洋人の女はゆっくりと身体を起こし、「ごめんごめん」と軽い調子で謝った。 目の前の状況に俺が驚いて言葉を失っていると女が俺を見た。 「すいません、巻き込んじゃって」 「いや……」 申し訳なさそうに眉を下げた女は、先程打たれた人間とはとても思えなかった。 じっと女が俺の顔を見つめてくる。 「なんだ?」 「やっぱり貴方は……」 「居たぞ!」 会話を遮った声に全員が路地の入口を見る。先程死んだ黒服と同じ黒服を着込んだ別の男が複数人居て銃を取り出すところだった。 「逃げますよ」 女はすぐに立ち上がって俺の腕を掴んで走り出した。すぐ後ろには碧眼の男も付いてくる。 女は随分と足が速かった。スカートでよくそこまで走れるなと女の脚をよく見るとスカートと思っていたものは真ん中で裂かれており、幅の広いズボンになっていた。随分と奇妙な服だが、そのおかげでスカートでは出来ない足幅で彼女は走っていた。 しかし、やはり新参者らしく、この辺りの地理には詳しくない様子でいくつか目の角で僅かに迷いを見せる。背後にはバタバタと追手の足音が近づいてくる。咄嗟に手を引っ張った。 「こっちだ!」 ここは子供の時から走り回った俺の街だ。追手を巻くのなんて容易だ。 本来ならうちのシマで暴れておいて助けてやる義理なんて無いが、先程撃たれそうになったところを庇われた貸しがある。 いくつもの角を迷いなく曲がる。そのうち行き止まりに当たるが、すぐ傍の物陰にある穴へ女を誘導する。女は迷うことなく俺の誘導に従い、穴に入った。碧眼の男は一瞬躊躇したが、女が中から呼んだかことによって大人しく入っていった。最後に俺が入り、穴を近くにあったゴミ袋で隠す。入念に調べられたらばれる程度のものだが、丁寧に工作している暇はない。 「上に行くぞ。屋根から逃げられる」 女と男に声をかけて近くにあった階段を上る。 この建物はもう何年も前から空っぽだった。元々はどこかの企業が入っていたオフィスビルだったが、不景気に煽られて倒産したらしい。中は荒れており、壁や窓はところどころ穴が開いている。おかげで幼い俺には絶好の遊び場だった。ヤンチャし過ぎて警察に追い掛け回された時にも利用していた。階段を登り切った屋根裏からは隣の建物へ飛び移れる。そこからは地上を駆け回っているヤツを見下ろしながら悠々と逃げられることが出来た。まあ、屋根から屋根へ飛び移る程度の身体能力が無いと無理な話だが。 屋根裏まで一気に駆け上がったせいで僅かに息が乱れた。後ろの女は息一つ乱していない。男の方は再度肩で息をしていた。どうやら運動能力に差があるらしい。 屋根裏の窓を開ける。下を覗き込むと、うろうろしている黒服の追手が見えた。 「屋根を飛び移りながら逃げろ。下を走り回るより迷わないだろ。どこで降りるかは自分達で判断してくれ」 窓を開けて促すと女は先程の俺と同様に下を覗き込み、追手の存在を確認した。 ガガッっと機械音がした。 息を切らしていた男が懐を探る。黒くて四角い箱のようなものを取り出した。 『こっちは始末した!そっちは無事?』 掌サイズの黒い箱からノイズの入り混じった女の声がした。 「無事だよ。瑞樹さんもいる」 男が息を整えながら答える。 黒い箱はどうやら無線機らしい。 「あと何人?」 女が窓から下を覗き込んだまま聞いた。 「瑞樹さんがあと何人残ってるかって」 『こっちで三人やったから、あと二人!』 「二人……」 無線機からの言葉に女が確かめる様に呟く。 窓から見える追手はちょうど二人だった。 女は腰つけてあるバッグから黒い部品のようなものをいくつか取り出した。窓の外の追手から目を離さずにそれを組み立てていく。 瞬く間にそれはライフルになった。 思わず息を飲む。 組み立て式のライフル銃なんて聞いたことがない。男が持っている無線機も、一般的に知られているものよりかなり小さい。 「ここからの距離で狙えますか?」 無線を持ったままの男が心配そうに女に聞く。 今いる屋根裏は7階の高さに当たる。 組み立て式がどれ程の性能かは分からないが、一般的なライフルなら充分届く距離だ。 「うーん……。ライフルって実践で撃つの初めてなんだよね」 「……おい、大丈夫か」 軽く答えた女の言葉に不安になって思わず声をかける。 「練習はたくさんしたんできっと大丈夫でしょう」 軽い調子のまま俺に返答をして女がライフルの銃身を窓枠に固定し、スコープを覗き込んで引き金を引いた。 ぱぁんと音がして、追手の片方が倒れる。 間髪を入れずもう一発も放たれて、他方の追手も倒れた。 「ほら、大丈夫でした」 ライフルから顔を上げて女はにっこりと微笑む。他意のない無邪気な笑みとその手にあるライフルがアンバランスに感じた。 碧眼の男がほっと息をつき、無線機で仲間に報告をし始めた。 「二人はこっちで始末したよ。これで目撃者は全員だ。ところで、リアムのヤツは?」 『リアムのクソ野郎なら今私の隣にいるよ』 「後で聞きたいことが山ほどあるって言っといて」 「あ、ルーカスさんちょっと待って」 ライフルを元通りにばらしていた女が男の腕ごと無線機を掴んだ。 「リアムさん、屋敷の中を荒らしといてください。強盗殺人っぽい感じで」 女の言葉に碧眼の男が片眉をあげる。 『……りょーかいした!』 数秒の沈黙の後、無線機から言葉の意味を理解しただろう男の声で元気な返答がくる。 「いいんですか。一度許したら調子に乗りますよ」 「許した訳じゃないよ。仕事の途中に私欲で盗みをした挙句見つかっちゃったのは大が付く失態だし。でも、今回の大失態はちゃんと反省させるとして、強盗殺人ぽくしとけば捜査を攪乱できるじゃん。この不景気の中、お金持ちを狙った強盗なんて沢山いるし」 「まぁ、そうですけど……」 どうやら無線機の向こうにいる男の大失態が原因で追われていたらしい。何の仕事をしているかは分からないが、堅気の人間では無いようだ。 追手を始末して安心しているところ悪いが、うちの組のシマで暴れた分の落とし前はつけてもらわなければコチラの面子が立たない。 懐に手を伸ばして銃を掴んだ。 その瞬間、くるりと女が振り返って俺を見る。 思わず懐で銃を掴んだまま固まった。 「撃ってもいいですけど、私には効きませんよ」 その言葉に先程の光景を思い出す。 この女はさっき俺を庇って撃たれたが、その直後に蘇生したのだ。 つまり、コイツは……。 「瑞樹さん、この人は……」 緑の目男が女に何か耳打ちをする。 どうやら、男は俺について何か情報を持っているらしい。 「あ?やっぱりそうだった?」 女は相変わらず軽い調子で俺に向き直った。 ちょうどその時に日が昇り始め、朝日が差し込んで来た。その光は目の前の女をきらきらと照らした。 「お会いできて光栄です。フィーロ・プロシェンツォさん」 にっこり笑った東洋人の不死者は美しかった。 *** イブ・ジェノアード様 暑い日が続きますがお元気ですか。 先日はご自宅にお招き頂きありがとうございます。頂いたお茶もお菓子もとても美味しかったですし、何より半年ぶりにイブさんに会ってお話しできたことが楽しかったです。 お会いした時に心配して頂いていたアイスピック・トンプソンの件ですが、ラックさんのお仕事の関係者が被害に遭われました。しかし、詳しい事情はお手紙で書くには長いので省きますが、最終的に事件は解決したそうなので安心してください。 ニューヨークでの生活もすっかり落ち着いています。 仲間と営んでいる婦人服店は予想以上に好調です。この不景気の中、お店を立ち上げるのは無謀ではないかと仲間内でも話したのですが、うちの商品の一つであるインナー類が予想以上に売れました。繊維から開発した商品で既存商品とは比べ物にならない位の伸縮性が人気を得たみたいです。イブさんにも一つお送りしますので、良ければ着用してみてください。 クレアと一緒に暮らしている家は、この前お話しした通り、二人で生活するには広過ぎる家です。家事は相変わらずクレアがほとんどしてくれます。 結婚したにも関わらず、仕事をさせてくれる旦那には感謝しかありません。 一度、「あまりにも家事を任せきりにしているので、分担を決めよう」と提案をしたことがあるのですが、「家事をやる時間があったら俺をかまってくれ」と返されて開いた口が塞がりませんでした。 本当はこんなことを手紙に書くのは非常に恥ずかしいのですが、お会いした時に言っていた「惚気話が聞きたい」という言葉を真に受けて書きます。 クレアからすると、私が仕事で出ている間に家事を済ませておくことで、私が帰ってきてからの時間を丸っと二人の時間にあてられることが大切なのだそうです。 私が話す、今日の店の売上はどうだったかとか、常連さんが友人を連れて来店してくれたのが嬉しかったとか、新作の試作がイマイチ納得いかなくて何度も作り直しているだとか、店番中の仲間が口喧嘩をしだして大変だったとか、そういう話を聞いている時間を少しでも多く確保する為にしていることだから、分担してはむしろ効率が悪いと言われました。 私が生まれた国では、性別による家庭での役割分担ははっきりとしていたので、クレアから言われたその言葉は非常に驚きました。 アメリカではそういう考えが一般的なのでしょうか。それともクレアの考え方が独特なのでしょうか。 どちらにせよ、私はクレアに家事を任せ、自分のやりたい仕事をしています。そして、やりたい仕事を終えて家に帰るとクレアが食事を用意して待っていてくれます。自分の今の境遇が余りにも恵まれ過ぎていて少々不安になる日々です。 余談ですが、最近クレアはイブさんが雇われているファンさんに中華料理を教わっています。 アメリカの料理は私の母国の料理と違いが大きくて馴染みきれず、あまり量を食べられなかったのですが、ある時に「以前食べた中華料理が美味しかった」という話をクレアにしたのです。私が食べた中華料理というのが、イブさんに雇われる前のファンさんが作ってくださった料理なのですが、それ以降、クレアは仕事の無い日はジェノアード家の別荘に赴き、ファンさんに中華料理を教わっています。 ここ数か月でクレアの中華料理の腕はめきめきと上がり、キッチンには私には分からない中華の調味料や食材がたくさん並んでいます。レパートリーも増える一方で、最近ではファンさんが「モウ教えることガ無イヨ!」と音を上げています。 クレアはとても努力家なのです。 教わったことは確実に身に付けて自分の能力にしてしまいますし、教わったこと以外にも必要だと判断した情報は調べつくします。完璧主義な一面もあってこの前は料理に必要な調理器具を隣の街のチャイナタウンまで買いに行ってました。いつの間にか中華の歴史にも詳しくなってましたし、なんだったら中国語も読めます。 あ、でも中国語は以前から読めたみたいです。仕事の為に必要な技術を身に付ける一環で中国語が必要だったそうです。 因みにその過程で彼は私の母国語である日本語まで習得してます。独学で勉強したそうで、話したり聞き取ったりは出来ないと言ってましたが、読み書きに関しては完璧でした。 彼が私の母国の料理を習得する日は遠くないかもしれません。 クレアと結婚して本当に良かったのか、今でも悩みます。 この通り、クレアは努力家で完璧主義なので非常に有能な人です。性格は少々癖がありますが、根は真面目でとても優しいです。それに、クレアはとても思慮深いんです。 こう言うとクレアを昔から知っているラックさんは驚いた顔をしますが、私はクレアを誰よりも思慮深い人だと思っています。 思慮深くて、観察眼にも優れているので偶に私の心を読んでいるのではないかと錯覚する程察しが良いです。 でも、実際心を読まれているなんてことはなくて、じゃあどうしてそこまで察しが良いのかというと、私の事をよく見て、私の事を沢山考えてくれているからだと思うのです。 私の行動を見て、何の為にその動きをしたのか。私の話を聞いて、何を伝えたくてその言葉を選んだのか。絶えず考えて推測して、推測が間違っていれば修正して、そうやってどんどん精度が上がっていくのです。 クレアはそれを呼吸するように自然にしているので周りの人達は気付かないだけなのです。クレア自身も「愛の力だ」なんて簡単な言葉で片づけてしまうので益々周りの人達はクレアの思慮の深さに気付きません。 努力家で真面目で優しくて思慮深いクレアには私以上に相応しい人は他にいるでしょう。 ただこの話をするとクレアは怒ります。 私は今までクレアに怒られたことも怒らせたこともありません。この話をクレア本人にした時を除いて。 クレアには私以上に相応しい人なんていないと言われました。 その言葉を聞いた時にはすぐには信じられませんでした。 だって、それはあまりにも私に都合の良い言葉です。 私より素晴らしい女性は沢山います。 その女性達の中でクレアの素晴らしさに気付いてくれる人だっているでしょう。 それなのに、クレアは私以外いないというのです。 そんな都合の良いことがあるでしょうか。 最近、夢を見ているのではないかと本気で考えるのです。 何を馬鹿な事をと笑われてしまうかもしれませんが、私はいつか夢から覚めてしまう日を本気で恐れているのです。 夢から覚めてしまう日が私は恐くてこわくて仕方がないのです。 変な話をしてしまってすみません。 もし、次ニューヨークの別荘に行く日がありましたら是非連絡をください。お茶をしましょう。 暑い日が続きます。 お身体に気を付けてくださいね。 そっと手紙を閉じる。手紙と一緒に届いた小包に入っているのは、手紙に書いてあった彼女の店の商品だろう。だが、今はそれを開ける気分にはならなかった。 手紙の大半を占めていた彼女の夫の話を脳内で反芻する。この手紙だけで彼女がどれほど彼を愛しているのか、どれほど彼女が彼に愛されているのかが分かる。童話に出てくるような王子様とお姫様の愛も霞んでしまう位、とびっきりお似合いの二人だと思う。「惚気話が聞きたい」という私の我儘に応えてくれた恥ずかしがり屋な彼女が、この手紙をどんな表情で書いてくれたのかと想像すると笑みが漏れる。 「お嬢様」 ベンヤミンが私を呼ぶ声がする。 返事をすると夕食の用意が出来たとのことだった。 手紙を机に置いて部屋を出る。 夕食の後、もう一度読み返そう。 彼女の心配は杞憂だ。 あんなにも愛して愛されている二人の仲が終わるなんてきっとこの先100年あり得ない。 今度会ったらそう話そうと心に決めて自室の扉を閉めた。 2017.10.25 拍手 |