葡萄酒と運命17


意識が戻ると天井が見えた。

高い天井は装飾が無く、むき出しの骨組みに最低限の補強だけがされていた。

「大丈夫かい?瑞樹」

天井だけの視界が侵される。
見下ろされている顔を見ると、先程かけてくれたこちらを心配する言葉にはおよそ似つかわしくない楽し気な笑顔をしていた。
その弧を描く口元からは、上下共に鋭く研ぎ揃えられた犬歯の群が覗いている。

「大丈夫だよ、クリス」

答えると手を差し出される。
差し出された好意に甘えて手を掴み、倒れていた身体を起き上がらせた。
クリスの背後に設置してある時計を見ると、意識を失ってから五分程経っていた。

ここは「ラミア」達が戦闘訓練をする実験室のひとつだ。
戦闘訓練をするのにその名が「実験室」というのは、ここを利用する「ラミア」が実験される対象であることを無遠慮に示している。
その実験室でクリスは私の護身術の稽古に付き合ってくれていた。
最終的にクリスの撃った銃弾が私の頭を貫通し、私が一回死ぬことで勝敗がついたところだった。

「今日はこれくらいにしておこうか」

立ち上がった私の手を掴んだまま、クリスが私を部屋の出入り口へ引っ張った。

「ヒューイの旦那が戻ってくるまでまだ時間あるよね。良かったらお茶しない?マドレーヌ焼いたんだ。この前話しただろう?」

稽古とはいえ、今しがた殺したばかりの相手をお茶に誘うなんて相変わらず非常識な人だなと思いつつ、引っ張る手を振りほどかなかった。





「本当にお菓子焼くんだ……」

「やっぱり信じてなかったね」

施設の中にある中庭に面したテラス席で始められたお茶会に面食らう。
目の前に置かれたマドレーヌと添えられた紅茶を見る。
クリスがマドレーヌを焼くことがある、というのは以前聞いた話だった。
高い戦闘能力を持った組織である「ラミア」、更にその中でも飛び抜けているクリスがお菓子作りをするなんて、どうにも頭の中でイメージが出来ず、半信半疑だったのだ。
それは話してくれたクリスにも伝わっていたらしく、こうして今日証明してくれたわけだ。

黄金色に焼けたマドレーヌを一つ食べてみるとバターの風味と品の良い甘さが口の中に広がる。美味しい。市販のものより断然。

「甘すぎるのは好きじゃないって言ってたから甘さ控えめで作ったんだけど、どうかな?」

「……おいしい」

「良かった」

素直に感想を述べるとクリスが嬉しそうに笑った。

「げぇ!?」

突然飛んできた喉を潰したような声にマドレーヌを頬張ったまま振り向くと、顔に縫合の後をいくつも持った子供がこちらをみて眉間に皺を寄せていた。

「こんにちは、レイル君」

「お前何しに来たんだよ!」

私がした挨拶を無視して警戒心を露わに叫んレイル君に、返事をする前にクリスが声をかけた。

「レイルもマドレーヌ食べるかい?」

「クリス!なんでこんな奴にマドレーヌ振る舞ってんのさ!」

レイル君は早足で私の横を通り過ぎ、クリスの腕を掴んで揺さぶる。父親に強請る子供の様だなとマドレーヌをもぐもぐしながら思った。

「僕が本当にマドレーヌ焼けるのか瑞樹が疑ってたからさ。僕達だって戦う以外のことも出来るんだって証明しないと」

「はあ!?何それ僕達のこと馬鹿にしてんの!?ホムンクルスだから!?」

ぎっとレイル君に睨まれて慌てて首を横に振る。

「そんなつもりじゃなくて……」

「つもりじゃなくても、そうなんだろ!」

レイル君はどうやら通りがかっただけらしく「用が済んだらさっさと帰れよな!」と捨て台詞を吐いて、さっさとテラスを出て行った。

「クリス」

「ん?」

紅茶を飲むクリスの服の裾を軽く引っ張る。

「私、なんであんなにレイル君に嫌われてるのかな。アデルさんに嫌われた理由は分かるんだけど、レイル君には心当たりが無くて……」

アデルさんに嫌われた理由は、私がアデルさんを手合わせで殴り飛ばしたからだ。それ以来、アデルさんは私とまともに会話してくれない。
ティムさんが、「ここじゃあ、強さが存在価値みたいなもんだからな。特にアデルはそれを気にする。別にアンタが悪い訳じゃ無い。気にしなくていい」と言ってくれたが、やはり気にはなる。

因みに私は「ラミア」の中で体術の心得があるメンバーとはここ数ヵ月で一通り手合わせを済ませ、叩きのめすまでに護身術を成長させていた。
ただし、目の前のクリスには未だ敵わないのだが。

対してレイル君とは手合わせはしていない。私がしているのは護身術という名の体術の稽古なので、素手では戦わないレイル君とは手合わせする理由が無い。
それなのにいつの間にかレイル君は私の顔を見ると心底嫌そうな顔をするようになった。

「……僕からそれを話すのはちょっとね」

「言いにくい理由なの?どうして?」

「耳貸して」

周りに人気は無かったので声を潜める程でもないと思ったが、他人が言われたくないことをズケズケ言うタイプのクリスが言いにくいということはかなりの理由なのだろうということ、開けた中庭ということで念の為にかと思い、言われた通りそっと耳を近づける。

ちゅ

可愛らしい音を立ててクリスの唇が私の頬にくっついた。

「あれ?ノーリアクション?」

赤目は悪戯が成功した子供の様に楽しそうだった。

「もう、いい。チーさんかシックルさんに聞く」

「えー?酷いな瑞樹」

けらけらと笑うクリスに肩の力が抜けた。

「瑞樹、ここに居たのですか」

「ヒューイさん」

レイル君が走り去った方向から、今度はヒューイさんが現れた。

「今から来れますか?」

「はい」

最後の一つのマドレーヌを口に放り込む。

「クリス、ありがとう。美味しかった」

「どういたしまして。またね」

クリスはひらひらと手を振って見送ってくれた。





「嫉妬でしょう」

「……はぁ。しっと」

注射器の準備をしながらヒューイさんが私の質問に答えてくれた。

「レイルはクリストファーに非常に懐いていますからね。そのクリストファーが貴女にご執心ですから、取られてしまったような気分なんでしょう」

「なるほど」

嫉妬か。それならあの態度も頷ける。まして、クリスとお茶なんてしてたらその嫉妬を煽る結果にしかならないだろう。

あの赤目の隠す気もない好意には、勿論気付いてないわけではない。しかし、クリス自身は明確に言葉にするわけでも、返事を要求してくるわけでもないのでそのままにしている。どうせこの世界には残り一年もいないのだから。

「ところで、薬の効果はどうでした?」

「ああ、頭に銃弾が貫通した傷の再生に五分程かかりましたよ」

「そうですか」

もう少し伸ばしたいですね。と言いながらヒューイさんが私の血を採血する。
注射器の中に吸い込まれた自分の血を見ると、身体に戻りたそうにうぞうぞと蠢いていた。

「今日は採血だけですか?」

「ええ。ですが、次はメスを入れさせてもらうことになります」

ヒューイさんは今、不死者の身体に効く薬を作っていた。
不死者は基本的に不死の酒を飲んだ時の身体を維持するようになっている。なので一般的な薬の効きはあまり良くない。
しかし、ヒューイさんの作る薬は不死の身体に強く影響した。どういう仕組みなのかはおそらく説明されても分からないので聞かないでいる。
ヒューイさんが薬を作る為に細胞や身体の一部を提供し、作られた不死者用の薬の効果を試すというのが最近の私の勤めだった。
先程の頭に銃弾が貫通する感触を思い出して身震いする。何度死んでも慣れる感覚ではなかった。

「大丈夫ですか?顔色が悪いようですが。血を採り過ぎましたかね」

「……大丈夫です」

心配する言葉とは裏腹に無表情のヒューイさんは、実際に心配しているわけではなくデータとして不死者がどれ程採血すると体調を崩すのかが知りたいのだ。
しかし、今私が身震いしたのは採血のせいではない。

「ヒューイさん」

「なんですか?」

「お願いがあるんです」

注射器に入った私の血を見ていたヒューイさんが顔を上げる。

今更だがこの世界は現実である。
元の世界では空想上の世界だったものも、今現実として私の目の前に存在している。
アニメで見た以外の人間が存在し、私の知らない組織や営みがそのにはある。

私が知っているヒューイ・ラフォレットの元には私の知らない「ラミア」と称された組織があり、私の知識が及ばない、人ならざる人達がいた。

そんな人達を目の当たりにして私には不安が生まれた。
私はただヒューイさんの元で「レムレース」のお飾りの構成員としているだけで本当にあのフライング・プッシーフットに乗れるかが不安になったのだ。

日に日に強まる赤目からの好意という名の執着に、気付いてないわけではないのだ。

あの列車まで、まだ日が有る。その間に私の知らない組織や人の影響であの列車に乗れなくなるという状況はどうしても避けたかった。
その為に保険が欲しかった。

「働きに出たいんです。ある鉄道会社で」





***





「ただい……ぶぁ!」

「おかえり」

朝日が昇って少しずつ賑わいだした街中を早歩きで進み、自宅の扉を開けると、帰宅の挨拶を言い切る前にクレアが抱きついてきた。

「遅いから心配した。何かあったのか?」

「ちょっと予定外のことがあって。でも問題なく終わったから大丈夫」

クレアが私の頬を撫でる。クレアの手がいつもより暖かく感じて自分の身体が随分と冷えていることに気付く。

「冷えてるな。先に風呂に入ってきたらどうだ?湯はもう張ってある。その間に朝食の準備してるからさ」

「うん。そうする」

クレアも私の頬の冷たさに気付いたらしく、促されるままに浴室に向かった。

クレアが準備してくれた湯船に浸かり、しっかりと身体を暖めてから手早く身体を洗いつつ、先程の会話を思い出す。

クレア、店に来てたのかな。

普段なら私が帰宅した時には済んでいる朝食の準備がまだ出来ていないと言うことは、クレアが出かけていた可能性が高い。
先程のルーカスとの会話を思い出せば、クレアが店に来ていもおかしくはない。

シャムは、クレアのこと苦手なのにな。
二人で何の話してたんだろう。

来るなと言ってある店に来ていた事はともかく、二人の関係性は気になった。

脱衣所に出て着替えていると、ふと鏡に写った自分の身体が視界に入って思考が中断される。

「……太った」

確実に。絶対に太った。
腹をつまむ。あからさまに弛んでいる訳ではないが、ヒューイさんのところに居た時より確実に体積が大きい。

思わず腹を数秒間見つめてしまったが、見つめたからといって減るわけでもなく。
さっさと着替えを済ませてダイニングに行くと太った原因とも言える美味しそうな中華が並べられていた。

穀物の粉から作られた生地で卵と野菜を包んだ中華風クレープと、チンゲンサイに似た青菜の和え物、鶏肉のスープ、エビ団子、おまけに杏仁豆腐まで添えられていた。

「どうかしたのか?」

クレアお手製の朝食を見つめて突っ立っている私を不審に思ったのかクレアが顔を覗き込んでくる。

「……なんでもない。頂きます」

クレアに太ったことを言うのはちょっと恥ずかしくて、そのまま席につく。いや、クレアの事だから気付いているだろうけど。

太ったからと言って目の前に並べられた美味しそうな料理に、食べる量をセーブする自信は無い。明日からちょっと運動量を増やそう。リズさんなら体術の手合わせに喜んで付き合ってくれるだろうし。

私が食べ始めたのを確認してクレアも箸を持つ。アメリカ人なのになんの違和感も無く箸を使いこなすクレアを見ながら、美味しい中華の朝食を平らげていく。

「うまいか?」

「うん。美味しい。全部美味しいけど、このエビ団子は特に好き」

エビだな、と確認するように頷くクレアに、きっとファンさんの所に行ってエビを使った料理をまた覚えて来るんだろうなぁと思考を馳せる。この一年、そんな調子でクレアはどんどん中華を習得していた。

「そう言えば、フィーロさんに会ったよ」

「フィーロに?」

クレアが箸を止める。

「ちょうど帰り際に会ったの。銃を使った時そばに居たみたいで、『お前らここがマルティージョファミリーのシマだと分かってのことか』って怒られちゃった」

青菜の和え物を噛み締める。ゴマ風味のタレが青菜にある仄かな甘味と混ざって頬が緩んだ。

「フィーロにも瑞樹のこと紹介しないとな」

「ニューヨークに来てからまだ会えてないんだっけ?」

「ああ。すれ違ったままだな」

じゃあ今度一緒に会いに行こうか、と提案しそうになって、我に返る。
彼に会いに行くなら高い確率でマルティージョ関係の場所に行くことになるだろう。そこにあの悪魔がいたらマズイ。

「……もしまたフィーロさんに会えたら、うちに連れてきても良い?」

「もちろんだ」

俺も会えたら連れてくる、と笑ったクレアに頷いて、杏仁豆腐に手を伸ばした。

私がニューヨークに来てから、もうすぐ一年が経とうとしていた。

2017.11.23
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