葡萄酒と運命25 「おめでとうございます」 簡素な祝辞で受け取られた婚姻届に、湧き始めていた結婚の実感が拍子抜けした気分だった。 「案外あっさりなんだね、役所の人」 「まあ、仕事だからな」 キースさんとシャーネに証人になってもらった婚姻届を役所に届け出た帰り道、日は既に落ち始めていた。 日中は暖かかった陽射しがなくなると、吐いた息が白くなった。 思わず冷えた手をこすり合わせる。 そっとクレアが、私の手を包んだ。 「クレア?」 クレアを見ると満面の笑みをしていた。 「ひゃあ」 ぐいっと包まれた手をそのまま引っ張られて、今度は体ごと包まれる。 「これで、俺達は正真正銘夫婦だな!」 クレアが耳元でとびっきり嬉しそうに言うからこっちまで嬉しくなる。 クレアの背中に手を回してぎゅうっと抱き返す。 そのまま2人抱き合ったままくるくると回る。 「うん。これでやっと夫婦だね。ほんと、夢みたい」 「夢じゃないぞ」 ぎゅうっと痛いくらい抱きしめてくれていたクレアの腕が緩む。 クレアの顔がすぐそばにある。 するするとクレアの手が包むように私の背中を撫で、するすると私の肩を撫で、そのまま腕を伝って手を包んだ。 ひやりとした感触が指をつたう。 私の薬指に。 「…………」 余りにも予想外で、いや、結婚するなら必須なものなのだけれど、すっかり忘れていたというか、考えが至らなかったというか。 ぽかんと口を開けて自分の薬指をまじまじと見る。 街灯に照らされてきらりと光るそれに目を奪われた。 その指越しに、淡く頬を染めたクレアが照れくさそうに頬をかく。 「あー、本当は夜景が綺麗なレストランとかで食事しながらとか、薔薇の花束と一緒にとか色々考えてたんだが、レイチェルに止められてな」 「レイチェルさん?」 急に出てきた名前にようやく薬指から目を離してクレアを見る。 「ああ。瑞樹が熱を出してる時に偶然再会してな。女はどういうシチュエーションで渡したら喜んでくれるか相談してたんだ。そしたら、「あの人はあんまり派手好きに見えないから、なんでもない時にそっと指にはめてあげる位の方がいいんじゃないか」って言われてな。確かに瑞樹は目立つ事や派手な事は好きじゃないし一理あると思ってな。でもなんでもない時ってのも難しくてな。瑞樹の熱が下がったタイミングで渡そうかと思ってたけど、急に警察が瑞樹の戸籍持ってきたりして瑞樹は暗い顔をしてるし。せめて、瑞樹が笑ってくれてる時に渡そうと思ってここ数日ずっと持ち歩いてたんだ……」 ぺらぺらとここ数日の考えをしゃべっているクレアの言葉を聞き流してもう一度薬指を見る。 そこには私好みのシンプルだけど地味過ぎない指輪がはまっていた。 紛れもない、クレアからの結婚指輪だ。 「―――気に入ってくれたか?」 私が話を聞かずに指輪に魅入っている事に気付いたクレアが私の左手に自分の手を絡ませてくる。 「……うん。すごく、気に入った」 「なら良かった。これからはずっと一緒だ」 「……うん。ずっと一緒だね」 ―――それは決断だった。 ―――この世界に残るという決断。 ―――あのフライング・プッシーフット号の上でした決断。 ―――この世界に残ってクレアと暮らす。 ―――シャーネもすぐ傍にいて、少ないけど仲間も出来た。 ―――戸籍を手に入れ、婚姻を果たした。 ―――私はこの世界に居場所を手に入れた。 ―――だから、私はもう探さない。 ―――あの男の悪魔は探さない。見つけ出さない。 ―――そうして私は手に入れた。この世界の居場所を。 ―――そうして私は切り捨てた。元の世界と、抱いていた願いを。 「ずっと一緒だよ。絶対ね」 「ああ。絶対に。ずっと一緒だ」 ―――それは誓いだった。 ―――夢のような誓いだった。 *** 「クリストファー!ヤバい……このビルはヤバい!一旦退くぞ!このビルの従業員、『ネブラ』の社員ども、全員不死者だッ!」 にわかに信じがたい事実に、フィーロさんとエニスさんが身体を強張らせた。 対するクレアは「へえ」と呟いただけで、特に不死者に対する感慨はないようだった。ちょっとだけ安心する。結局未だにクレアに不死の事を話せてない。けどこの反応を見ると改まって言わなくても大丈夫そうだ。 アイザックさんとミリアさんはいつもの調子で話しているし、ジャグジーさんは大粒の涙を溜め始めていた。 ルーカスさんは「大声でそんなこと言うなよ」というような顔をしている。 「……そうか。で、なんで逃げるの?」 「馬鹿だと思っていたがそこまで馬鹿か!己が不死である事を知った警備員が押し寄せてみろ!そもそも、不死者相手に、どうやってヒューイ老師の『皆殺し』を成すつもりだ!」 「どうやってって……。簡単じゃない。ここに、不死者を殺せる人が三人もいるじゃない」 「なッ……!」 三人とクリスがフィーロさんとエニスさん、それから私を見る。 ちらりとクレアの顔を伺う。 「ん?どうした?」 「……クレア、話してない事がたくさんあるの」 「そうみたいだな」 既視感のある会話をする。 そっとクレアが私の腰に手を回した。 クレアとの距離がなくなって、クレアの声が耳元に来る。 「前も言っただろ。瑞樹が何者だろうと何をしてようと俺には大した問題じゃない」 囁く声でもはっきりとした意志で言い切られた言葉に頷く。 「ただ、アイツのさっきの発言は聞き捨てならないな」 いつもよりワントーン低い声で吹き込まれた言葉に、クリスとの出会い頭の言葉を思い出す。 「あれはクリスが言ってるだけで……」 「分かってるさ。瑞樹と俺は夫婦だ。俺は瑞樹を愛してるし、瑞樹も俺を愛してる。疑う余地なんて無い程にな。それに今回瑞樹は俺を頼ってくれた。俺はそれが何よりも嬉しい。今まで一人で抱え込んでばかりの瑞樹が俺を頼ってくれた事が、どれだけ俺を信頼してくれた結果か俺は誰よりも理解してるさ。ただ、俺達はそれを分かっているが、どうやらアイツは分かってないらしい」 じわじわと更に低く、深くなっていく声に息をのむ。 ほとんど聞かない様なクレアの低い声にぞくぞくする。 私に対しては決して向けてこないから、クレアのそれを忘れてしまいがちだけれど。 けれど、クレアはその本質に、暴力的で圧倒的な傲慢さを持ち合わせているのだ。 「―――分からせてやらないといけないだろう?」 「何こそこそ喋ってるんだい?」 クリスが不愉快そうに片眉を上げて私達の会話を遮る。 そっとクレアの手が私の腰から離れていく。 「夫婦の間の話だ」 「……へえ?」 クレアがゆるりと肩を竦める。 明らかに小馬鹿にした態度にクリスの不快感を露わにする。 コミックならバチバチと火花が散っているんじゃないかという空気に傍のフィーロさんとエニスさんまで硬直している。ジャグシーさんにいたっては震えすぎて白目を剥いていて、ルーカスさんは「帰りたい」と顔に書いてある。 「……おい、クリストファー」 不穏な空気を感じ取ったチーさんがクリスに呼びかける。 無いはずの火花が消えて、空気が少しだけ緩む。 「ああ、チー、ごめんごめん。このビルの従業員全員不死者なんだよね。瑞樹は不死者としては不完全で他の不死者は喰べれるかどうか分からないんだっけ?ちょうどいいから、これを機に喰べれるか試してみたらいいよ。それで、フィーロにも協力してもらって、ちょっと千二百人『喰べて』もらえばいいだけじゃないか」 「聞いてられるか……エニス、帰るぞ」 「あ、はいッ……」 勝手に話を進めるクリスにフィーロさんがばっさり切り捨てる。 初対面で助けてもらった時も思ったけど、フィーロさんは判断が的確だな。思い切りもあるし。流石あの年齢で裏組織の幹部をしているだけある。 「アハハハ、嫌だなあフィーロ。友達を見捨てるのはよくないよ……」 「友達?」 「あいつが勝手に言ってるだけだ」 クリスの口から出てきた言葉に驚いてフィーロさんを見るとしかめっ面で否定された。 「瑞樹もさ、協力してくれるだろ?ヒューイの旦那からの仕事なんだ」 「……私はヒューイさんから離反した身だよ。貴方達の仕事がどうなろうと関係ない」 「……ふーん」 あえて突っぱねる様に言うと、怒気が含まれた声でなげやりにクリスが笑う。 「まあ、なんでもいいよ。とりあえず、そのまま帰すつもりはないよ瑞樹もフィーロも、エニスもね」 「それは駄目。帰ってって言ってるでしょ、クリス」 「いくら瑞樹の頼みと言えどそれはきけないな」 「……そう言うと思ったから、力尽くでも帰ってもらう」 「力尽く?瑞樹が?僕に一度も勝てたことがないのに?」 小馬鹿にしたようなクリスの声色についムッとする。でも、クリスとは手合わせで一度も勝てた事は事実なので言い返せない。 それに、 「クリスの相手をするのは私じゃないから」 「―――そういうことだ」 クレアが待ってましたとばかりに仁王立ちになる。 クレアって心の底から仁王立ちが似合うね。 「へえ、旦那様がお相手ってこと?ちょうどいいや」 「ちょうどいい?」 「旦那が死んだら、瑞樹は僕と家族になるのに何の問題も無くなるわけだろう」 「それはあり得ないな」 「なんだって?」 仁王立ちしたクレアが不敵に笑う。 「俺は絶対に死なないからだ」 それは確かな宣戦布告。 暴力的で圧倒的な傲慢な、私が愛したクレアの言葉。 「なんだこりゃ……」 そこに階下のラボから非常階段を上ってきたティムさんが現れた。 流石ティムさん。良いタイミングだ。 「ティムさん、お久しぶりです」 「お、おお。久しぶりだな瑞樹。故郷に帰らずこの国に残ったってのは本当だったんだな。あー、とりあえず、状況を説明してくれ」 私とチーさんを見てティムさんが言うとすかさずチーさんが返した。 「いつものことだ。クリストファーの我儘」 「……くそッ……、おい!クリストファー!撤退だ!退け!」 「困るなあ、ティム。僕らは僕らで、君とは別の指示を受けて動いているんだけど?」 「……『ラルウァ』のリーダーとして命じてんだ!……お前らの分の責任も俺が取る!」 相変わらず生真面目というか、苦労性が浮かび上がっている叫びに、流石のクリスも構えていた銃を下ろした。 「そうか……そこまで言うなら、任務は一旦諦めるよ。完全な『不死者』の協力がなきゃ達成できないことだしね。じゃあ、あとは自由時間って事でOKだよね?」 「……あん?」 ティムさんがクリスの言葉を飲み込む前に、クリスがクレアに突っ込んで来る。 伸ばされた銃剣を握る手をクレアが難なく掴む。 「瑞樹どうしようか?」 クレアがクリスの手を掴んだまま振り返って私に問うた。 「知り合いみたいだから手加減した方がいいか?俺としては今すぐコイツを再起不能にしたいくらいだが……」 低いクレアの声に返事をする前に、一瞬でクリスは脚を振り上げてクレアの開いた体の顎に思い切り膝蹴りを叩き込んだ。 衝撃が周囲にまで伝わるかのような勢いで、クレアの上半身が派手に後ろに仰け反った。 「ダメだよ。人間風情が調子に乗っちゃ」 クレアがまともに攻撃を食らうという衝撃の光景に思わず固まる。 近くのフィーロさんも同じように固まっていた。 クレアは仰け反った状態で一瞬動きを止める。その隙を逃す事なく、クリスがさらなる追撃を繰り出した。いつの間にか両手に構えている二丁銃剣を振り下ろす。だが、それより早く回復したクレアがそれを受け止める。 「……少し、びっくりした」 銃剣の切っ先は相変わらずクレアの喉を向いている。 「バイバイ」 引き金が引かれ、銃声が響き渡る。 だが、弾丸はクレアの喉を抉る事はなかった。 引き金にかかった指が動く瞬間に、クレアは掴んだ手首を支点として床を蹴り、クリスの頭上をさかさまになった振り子のように跳び越してのけたのだ。 そのまま振り向きざまに肘を当てようとするが、既に読んでいたクリスが頭を屈め、自分も振り返りながら肘とすれ違いざまに銃剣の刃でわき腹を狙う。 しかし、それをさらに読んでいたクレアが再び床を蹴り、横に回転しながら一旦相手との間合いをあけた。 「すごいなお前。いや、マジですごいぞ。瑞樹が珍しく俺を頼ってきた理由が分かった。俺がいままで見た中で三番目ぐらいに強い。無論一番は俺自身だが」 「……二番目は?」 「元フェリックスさん」 「誰だよ」 フィーロさんの突っ込みが入る。 このまま本格的に戦闘に入りそうだなと思う。クリスはこういう手強い人間を殺すのが好きなのだ。 ただ、二人の決着がつくのを見る為にここに来たわけではない。 「クレア」 「ん?」 「追い返して」 クレアとクリスが私を見る。 「とりあえず、この状況を治めたいからこの人達に退いてもらいたい。ティムさんやチーさんは退くつもりだから、残りそうなクリスを追い返して」 「分かった」 即答で返ってきた答えにクリスがむっとした顔をする。 「瑞樹、簡単に言ってるけど僕が抵抗なく退くとでも思ってる?」 「思ってないよ」 クレアを真似て即答で返す。 クリスが納得いかないとばかりに顔をしかめた。今日はクリスの顔をしかめさせてばかりだな。 「でも、関係無いから。クリスか退かなくても。抵抗しても。関係無い。クレア相手なら何も関係無いの」 「なにそれ」 クリスが苛々しているのが分かるが、クレアは飄々とした様子でいる。 「フィーロや瑞樹なら、流れ弾ぐらいなんとでもなるだろうが……。中だとジャグジー達を巻き込んじまう。だから、外でやろうや」 クレアのその提案を受けてクリスは納得していない顔をしていたが二人は窓を割って出て行った。 続いてチーさんが見届けて来ると追いかけて出ていく。 「フィーロさんエニスさん、後は私達に任せて二人は帰ってください」 「大丈夫なのか?」 「一応、私の元仲間みたいな人達なんで、なんとかします。リーダーのティムさんは話の分かる人ですし。それにいざとなったらクレアを頼ります」 「……そうか。ま、クレアがいるなら大丈夫だな。落ち着いたら色々聞きたい事がある。店に行くから絶対逃げんなよ」 「あはは。お待ちしてます」 「フィーロさん待ってください。ロニーさんも……」 「ロニー?」 ───── 一瞬、聞き間違いだと思った。 エニスさんが辺りを見回し何かを見つけたようで駆け寄っていく。 そこに居た。 居てはいけない人が居た。 私は知らない。 あんな人知らない。 だけど、知っている。 私は知っている。 あの人が誰なのか。 いや、あのホムンクルスが誰なのか。 私は知っている。 探していたから。 彼を探すためにニューヨークに来たから。 私は見つけるだけで良かった。 彼を見つけさえすれば全てが終わる。 私が願った通りになる。 全てが終わる。 だけど、 私は 終わらせたくない。 終わらせたくないと願ってしまった。 たから、私は避けていたのに。 マイザーさんにも、マルティージョの人達には会いたくないって言っておいたのに。 間違っても会わない様に。 ああ、でも、私、シャムに言ってない。 シャムは男の悪魔の存在は言ってあるけど、それが誰かは言ってない。 一番肝心な所を肝心な人に言ってなかった。 言っておけば、シャムはきっと私をここには連れてこなかっただろうに。 私が言っておかなかったせいだ。 私の失態だ。 エニスさんに声をかけられてこちらを見た、彼と会ってしまったのは。 彼を見つけてしまったのは。 「………………ロニー・スキアート」 「君は……?」 ロニー・スキアートが私を見る。 その瞬間声がした。 「みーつけた」 懐かしいあの声が。 「お前……!」 「久しぶりね、ロニー坊や」 私の隣に忽然と現れた女の悪魔に、男の悪魔、ロニー・スキアートが眉間に皺を寄せる。 この二人の関係性がどんなものなのかは私は知らないけれど。 きっとこんな状況でなければ気になっていたかもしれないけれど。 こんな状況でなければ。 「……って、」 「ご苦労だったわね、瑞樹」 絞り出した声は掠れていて、咄嗟に逃げるように視線を彷徨わせる。 視界の端で、困惑した顔のエニスさんとフィーロさんと、それからシャムが見えた。 「…………まって」 「思ったより時間がかかったけど」 視線を彷徨わせる。 何かを探すように。 「待って!!!」 「約束通り、貴女を元の世界に帰してあげる」 視線は探していたものを見つけられず、割られた窓ガラスに手を伸ばした。 「――――――クレア!」 伸ばした手は届かなかった。 |