葡萄酒と運命26 懐疑


「……っく、…ひっく」

「も〜〜〜〜いつまで泣いてるのよ!悪かったって言ってるじゃない」

赤い目の女の悪魔は困り果てたように頭をかく。
部屋の真ん中で座り込み、立てた膝に顔を埋めて泣きじゃくっている瑞樹を見下ろして、悪魔は小さく溜息をついた。

「しょうがないのよ。たかがホムンクルス1人探して見つけ出した位じゃ人間一人の存在を消すのは無理なのよ。言ったでしょう。私は何でもできるんじゃなくて、貴方達と縛られてるルールが違うだけなの。万能じゃないのよ。それに私は世界から存在を消すなんて一言も言ってないわ。貴方の家族から貴方という存在を消す、つまり記憶を消すって言っただけよ」

「…………そんな、屁理屈みたいな」

ぐずっと鼻をすすってようやく顔を上げた瑞樹が彼女には珍しく責めるような言い方をする。

「……分かってるわよ。だから謝ってるじゃない。それに、貴方にもう一度チャンスをあげる事にしたのよ」

少しだけ申し訳なさそうにした悪魔がしゃがみ込み、瑞樹の顔をのぞき込んだ。

「あの世界に行ってからの貴方の事はずっと見てたの。貴方があの世界で第二の人生を始めていたのを知っていたわ。貴方をあのタイミングで連れ戻すのが酷なのは分かってた。貴方のこと、憐れむ気持ちが私にはあるし、申し訳なさだって感じてるわ。だから、貴方にはチャンスをあげる」

悪魔は真っ直ぐに瑞樹を見た。

「もう一度選びなさい」

「…………選ぶ?何を?」

「切り捨てるものとそうじゃないものを」

「…………何選んで、何を切り捨てるの」

「あの世界を選んで、父親を切り捨てるの」

そして悪魔は指差した。
傍らに転がっているものを。
私が決して視界にいれないようにしていたものを。

「そこに転がっている貴方の父親を切り捨てるの」

─────そこには、私の父が、私が殺した私の父親が倒れていた。

この世界から離れてあの世界に渡り、私は1年以上過ごしていた。
しかし、この世界では時が止まっていたようだった。
父親は私が最後に見た時と全く同じ姿で倒れている。
その骸は血塗れで血に伏していた。

「……どういうこと。だって、あの人は」

「アンタが殺した?」

「……そう。わたしが、ころし、たの。そして私はこの世界から離れて、貴方の誘いを受けて、あの世界に行くことになったの」

「じゃあ聞くわ。貴方はあの世界での仕事で何人か人を殺したわよね?」

悪魔の問いにこくんと頷いた。
この世界に居たときは父を殺してしまって錯乱状態になっていたけれど、あの世界のあの列車で人が死ぬことに対しての感覚が狂ってしまった。
だから仕事で人を殺した時も大して何も思わなかった。

「どうすれば人が死ぬかもあの世界の人間達に教わって理解してるわよね?」

それは理解している。
ヒューイさんとか、シャーネとか、クリスとか、それからリアムさんとクロエさん達からも、色んな人達から人殺しの技術を教わった。
特にクリスやリアムさんからは積極的に人のとどめの差し方を教えられた。
この程度では致命傷にならないから確実に息の根を止めるべき、とかそういう話を。

「じゃあ分かるはずよ。人間は刃物で一刺しされた位では即死しない」

言い切られた言葉に一瞬思考が停止した。
悪魔は言葉を続ける。

「刃物一刺しで死ぬとしたらそれは出血死であることが多いわ。刃物で刺されてから長い時間止血をせずに放置した結果よ。そしてアンタの父親からは今のところ出血死するほどの血は出てない。つまり…………」

ゆっくりと悪魔が指差す先を見る。
眼球を動かし、首を捻り、視界にいれないようにしていたものを視界に入れる。
父の骸と思っていたものが、そこに倒れていた。

「…………いき、てる?」

声がかすれた。
それでも自分の耳に自分の声は嫌でも届く。

「父さんが、生きてる」






***






私の一番古い記憶は父と母が言い争っている光景だ。

物心ついた頃から父と母は仲が悪かった。
顔を合わせれば言い争いが始まって。
幼い私は部屋の隅にうずくまって、やり過ごす事が多かった。
食事はいつも一人だった。
父も母も私と目を合わさないように生活していた。

私が小学校に上がる頃に両親は離婚した。

それからは母方の祖母の家で育てられた。
母も同じ家に住んでいたけれど、朝早くから夜遅くまで仕事で帰ってこず、ほとんど顔を合わせなかった。
祖母は「お母さんは貴方を育てるために遅くまでお仕事してくれてるんだからね」と繰り返し私に話していた。

私の世話は祖母がほぼ全て行っていた。
祖母は寡黙な人で、上記以外のことで私は家の中で会話した記憶が非常に乏しい。
その私の趣味が読書になるのは至極当然だった。
学校の図書室や市立図書館に入り浸り、毎日毎日飽きもせずに本を読んでいた。
そのうち市立図書館のメディアルームで所蔵されている映画やアニメを見るようになった。

決して社交的ではなく、典型的な内気人間の出来上がりだ。

母との間に会話がほとんど無いままに私は成長していき、進路を選ぶ年齢になる頃に祖母が亡くなった。
私と母のみで行われた葬儀は非常に簡素で「死ぬのにもお金がかかるのね」と母が吐き捨てるように言ったことを鮮明に覚えている。
シングルマザーの家が裕福なはずがなかったのだ。

その後私は進学した。
専門学校に行きたいと言った私に、母はこれでもかという程しかめっ面をした。

「早く家を出て行って」
母から言われたその台詞に、生きるのにもお金がかかる事が申し訳なかった。

奨学金が取れたことと、家を出て一人暮らしは流石に無理だが、バイトをして自分の生活費を家に入れる事を条件に私の進学は許された。

私が進学した専門学校は幼児教育を学べる学校だった。
つまり、私は保育士になる道を進んだのだ。

「世の中の全ての子供達は望まれて生まれてくるのです」

専門学校の最初の授業で先生が言い放った言葉がそれだった。
生きていることが申し訳なかった私に、その言葉は余りにも衝撃的だった。

生んでくれと頼む赤子なんていない。
全ての子供達は親の意志で存在を認められたから生まれてくるのだと。
存在を望まれたから出産に至ったのだと。
そう、先生は言った。

─────私もそうなのだろうか。

母の顔を思い出す。
いつも私と目を合わせないように伏せてばかりの母の顔を。

─────母も、私の存在を認めて、望んでいたから私を生んだのだろうか。

─────私はここにいてもいいのだろうか。

その答えが出ないまま、私は学校を卒業し保育士の職に就いた。

保育士の職は想像以上に激務で、そして薄給だった。

就職したら家を出る気だったけれど、支給される薄給では家を出る事は現実的ではなかった。

母にその事を話すのはとても憂鬱だった。
話し終わった時、母には無言で大きく溜息をつかれた。
それ以外の返事はなかった。

─────全ての子供達は、本当に望まれて生まれてくるのだろうか。
─────1人の例外もなく?
─────本当に?
学生時代に抱いた疑問は懐疑へと変わっていった。

そのまま私と母の二人暮らしは続いた。
たった数ヶ月の事だったけれども。

交通事故だった。

警察に呼ばれていったよく分からない施設のよく分からない部屋で見た母の顔は綺麗だった。
ただ、胸から下は原型を留めていないらしく、見せてもらえなかった。

母の葬儀は祖母のより簡素だった。
涙は出なかった。

結局懐疑は懐疑のまま。
永久に答えは出なくなってしまった。

葬式では母の職場の人が何人か挨拶に来た。
形式張ったやり取りを何人かとした後、戸締まりをしようかと思い始めた遅い時間に母と旧知の仲という男性が来た。

その人は母と同じ位の年齢の男性で、母の顔を見せてくれないかと言ってきた。
断る理由も無いので棺を開けて母の顔を見せた。

「綺麗な顔ですね」

母の顔を見て男の人はそう言った。
そして私の顔を見た。

「お母さんに似てるね。……本当に、昔から」

そう言って男の人はその場で泣き崩れた。
「父親としてなにもしてやれなくて済まなかった」とそう泣き崩れた。

あんなにも母と仲が悪かったのに死んだら泣ける父と、泣けない自分との差を感じた。

父と名乗った男の人は「良かったら、もし君が良かったらの話なんだが、一緒に暮らさないか」と言い出した。

それは思ってもない提案だった。
戸惑いはあったが特に断る理由もなく、むしろ金銭的な面では有難いその提案を、私は受け入れた。

父との生活が始まっても戸惑いは多かった。

父は稼ぎが良いらしく、母と一緒に住んでいた頃の倍以上の広さの家で生活する事になった。
家電も家具も何もかも大きく立派で、扱うのに少し緊張した。

もちろん私が給与の一部を生活費として渡しても、父は決して受け取らなかった。

また、食事も慣れない事が多かった。
外食ならともかく、家での食事は昔から一人でとるか、寡黙な祖母ととるかだったから食事中に誰かと話しながら食べる習慣があまりなかった。
ただ父は極力仕事を早めに切り上げて帰宅し、私と会話をしながら食事をとることに拘った。

最初は何を話したらいいか分からず、度々返事に窮したが、それも程なくして慣れていった。
父は私と違って社交的で明るい人間だった。本当にこの人の血が自分に流れているか疑った。
そんな私に父は「本当にお母さんと似てるね」とよく笑っていた。

その生活に慣れた頃だった。

いつも早く帰ってくる父の帰りが珍しく遅かった。
別にそれは初めての事じゃなかった。
仕事の付き合いで飲み会に行ったりして帰りが遅くなる事は今までも何回かあった。

そういう時の父は決まって飲みのシメにお茶漬けを食べたがった。

だから私は冷蔵庫の残り物を使って少し凝ったお茶漬けを用意しておこうとキッチンで準備をしていた。

父が好きな薬味のネギを刻んでいる時に父は帰ってきた。

父は酷く酔っていた。

酒に弱い父はあまり飲まない。
だから、珍しいなと思った。
飲み会がとても盛り上がりでもしたのかなと思った。

そんな呑気に出迎えた私に、父は言った。

─────お前なんて生まれてこなければよかったのだ、と。

何を言われたのか分からなかった。
そんな私をおいて、泥酔した父はよく喋った。

母とは学生時代に知り合ったこと。
初めて会った時からお互いに惹かれ合っていたこと。
母はとても大人しく人見知りだったこと。
そのせいで付き合うまでかなり時間がかかったこと。
付き合ってから結婚するまで一度も喧嘩しなかったこと。
結婚を機に母は専業主婦になったこと。
母は仕事で忙しかった父を献身的に支えていたこと。
母の手料理はとても美味しかったこと。
結婚後数年経ってから母が私を身籠もったこと。
母はつわりが重かったこと。
その頃から母は家事をしなくなったこと。
そのため家の中がどんどん荒れていったこと。
食卓にはスーパーの惣菜や冷凍食品が並ぶようになったこと。
それらが全然美味しくなかったこと。
ついに私が生まれたこと。
私が生まれた時、父は仕事で立ち会えなかったこと。
私が生まれた後も母は家事をしなかったこと。
妊娠中以上に家の中が荒れたこと。
その頃から父と母は言い争いをするようになったこと。
どんどん言い争いが増えていったこと。
私が小学校に上がる頃に離婚したこと。


それから数年後。


母のパート先で2人は再会したこと。
それから再び連絡を取るようになったこと。
連絡を取るうちに2人で食事に行くようになったこと。
そのうち定期的に会うようになったこと。
何度か2人で旅行にも行ったこと。
母が妊娠中から鬱病を患っていたことをそこで初めて知ったこと。
仕事で忙しい父の負担になりたくなくて言い出せなかったこと。
言い出せないことでどんどん症状が悪化していったこと。
離婚して実家に帰ってきた母を見て祖母はすぐに母の異常に気付いたこと。
それから子育ての一切を祖母が担ってくれたこと。
そこからどんどん症状が軽くなったこと。


そうして母は鬱病の原因は私の存在だと気付いたこと。
それから母は離婚しても父のことばかり考えている自分に気付いたこと。


「あの子なんて生まれてこなければ良かったのよ。そうしたら、貴方とずっと夫婦でいられたのに」



それが離婚した後に再会した母が繰り返し話していた事だったこと。


そうして父は確認するようにもう一度私に向かって言い放った。


─────お前なんて生まれてこなければよかったのだ、と。


最初、父が何を言っているのかが分からなかった。
何を伝えようとしているのか理解が出来なかった。

それが理解出来た頃、父は血塗れで倒れており、血で真っ赤な包丁を私は握っていた。

懐疑の答えがそこにはあった。



2019.03.01
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