葡萄酒と運命29 取り戻したい喪失


「起きた?」

目を覚ますと知らない天井だった。
身体には気怠さが響いていたが、眼球を動かしてぐるりと周りを伺うと、傍にいた子供に声をかけられた。

「起きたなら呼んでくるね」

誰を、と問おうと思っても口が渇いて音のない呼吸が吐き出されただけだった。
そんな私に気付かずに子供は部屋を出て行く。
それを見送ってから眼球だけでなく、頭を動かしてもう一度周りを伺った。
それなりに広い部屋だった。
これが少年の自室なら、あの子はそれなりに裕福な家庭の子だと分かる程度には広く、置かれている家具はシンプルだが見るからに高そうだった。
寝かされているベッドは先程出て行った子供のものなのだろう。私の足が少しベッドからはみ出ていた。
足を曲げて身体を丸める。
かけられている布団にすっぽりと身体を収納すると足先にじんわりと熱が広がっていった。

私は戻ってこれたのだろうか。

先程出て行った子供は知らない子供だ。
前回、この世界に飛ばされた時も知らない部屋で寝かされていた。今とは違って傍に人はおらず、無人だったけども。

あの時は父を殺したばかりで錯乱状態だった。
無人の部屋で状況も飲み込めず、ただ父を殺してしまった焦りで浅い呼吸を繰り返していた。
そのうち足音が近づいて来て、錯乱状態だった私は咄嗟にベッドを出て、逃げる様に窓から外へ飛び出した。
その後暴漢に襲われて、シャーネに出会う事になったのだけれども。

コツコツと足音が近付いてくる。
前回と状況が似ているなとぼんやりと思う。
今回は窓から外に飛び出す事もなく、足音が部屋の前に到着するのを大人しく待った。

先程子供は「呼んでくる」と言っていた。
おそらくはあの子の親だろう。
私をこのベッドに寝かすにはあの子は身体が小さ過ぎる。
私をベッドに寝かせた大人がいるはずだ。
その大人がどんな人間かは分からないが、私をベッドに寝かせる程度には慈悲があるのだろう。
その慈悲に期待して懇願しなければならない。
ここがどこかは分からないが、あの世界に戻ってこれたのなら、私は行かなくてはいけない。
帰らなくてはいけないのだ。
クレアのいる場所に。
だって、私は、

扉がそっと開かれて少しだけ身構える。

「………………クリス?」

「やぁ瑞樹!目が覚めたようで良かったよ!」

見慣れた犬歯が弧を描いた。






***






瑞樹が消えた。

文字通り一瞬にして消えたのだ。

「フィーロさん……」

エニスが困惑した顔で俺の名前を呼ぶが、俺だって現状を飲み込めてない。
クレアがクリスとガラスを割ってフロアから出て行き、俺達はさっさと帰ろうとしたところだった。
エニスがロニーさんもと言い出したところ、瑞樹がその名に反応した。

「ロニーさん、瑞樹と知り合いだったんですか?」

瑞樹はロニーさんを見て驚いた様だった。マイザーさんとも知り合いだったわけだし、ロニーさんを面識があってもおかしくはない。
だけどロニーさんは首を横に振った。

「いや、あの東洋人の彼女とは知り合いではない。しかし、後から現れた赤目の女は……」

そうだ。それは突然現れた。
ロニーさんの名前を口にした瑞樹の隣に、突然赤目の女が現れた。
ロニーさんを「ロニー坊や」と言ったその女は「随分と時間がかかった」とか訳の分からない事を言って、瑞樹の手を取ったと思うと瞬きの間に消えた。
瑞樹と一緒に。
まるで始めからそこには誰もいなかったかのように。

瑞樹が突然消えて戸惑っている俺達に構わず状況は進んでいった。
日本刀女が槍女を刺して、フロアで爆発が起きて、俺達は巻き込まれない様にさっさと退散した。

「ロニーさん、瑞樹が突然消えた理由は分かりますか……?」

「理由、というか誰がやったかは分かる」

「あの急に現れた赤目の女ですか?」

「ああ。しかし、アイツが出てきた時は本当にろくな事が無い……」

そのままロニーさんは黙り込んでしまった。滅多に狼狽えたりしない上司の珍しい姿に瑞樹の行方を問う事が出来ないまま、乗っていたエレベーターは地上に到着した。
エレベーターを降りてもロニーさんは珍しく眉間に皺を寄せて片手で口元を覆い、何かを考えている様だった。

「クレア!」

建物の外に出ると幼馴染みが立っていた。当たり前だがその身体には傷一つ無い。
俺の声で振り向いたクレアは返り血も浴びてなかった。
クリスとは決着が着いたのだろう。聞かなくても分かるその結果よりも、伝えなくてはいけない事がある。

「瑞樹が突然いなくなったんだ。こっちには来てないよな?」

「瑞樹?」

「突然現れた赤目の女に連れられて行ったと思うんだ。俺も訳が分からないうちに消えたから……」

「落ち着けよ、フィーロ」

「落ち着けってお前、瑞樹が急に消えたんだぞ。お前の嫁さんだろ。ちょっとは慌てろ」

元からあまり慌てる事の無い幼馴染みだったが、ようやく出来た結婚の相手が居なくなったのだ。少しは取り乱したり慌てたりしたって良いものだろう。
しかし、幼馴染みは心底不思議そうに首を傾げた。

「フィーロ、お前が言う瑞樹って誰のことだ?」

「…………………………………………は?」

2019.05.29
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