葡萄酒と運命30 悪魔との契約 「こっちだよ」 リカルドと名乗った子供に連れられるままに進んで行く。 ここは街の商店街だった。 近くまではクリスの運転する車でやって来た。 そこから私とリカルドは車を降りて、2人で買い物をしている最中だった。 クリスも一緒に行きたがったが目立つからという理由で車の中で待機している。 赤目と犬歯を持つクリスが歩くには、ここは些か人目が多すぎる。 「とりあえず最低限は買えたかな」 「……うん。ありがとう、ございます」 「なんで敬語なの」 「いや、だって全部買って貰ったし……」 買った商品が包まれた紙袋を持ってリカルドが私を見上げる。 紙袋の中には私の服や下着など、生活必需品が詰め込まれていた。 数日前、私はシカゴの街外れに倒れていたそうだ。 それを偶然リカルドが発見してくれた。 意識が戻ってすぐに確認した日付は、ミストウォールの日から数か月が経っていた。 クリスは数か月前に私と同様倒れていたところをリカルドに発見され拾われたそうだ。 それ以来リカルドのお家でお世話になっているらしい。 作られた命であるホムンクルスが、全く関係ない人間のお世話になっている事実は正直奇妙なものだったが、それよりも私はニューヨークに早く戻りたかった。 「じゃあ、最後はこっち」 そう言ってリカルドが私の手を引いた。 女の悪魔は私をこの世界に戻す時「多少はズレが生じるから。細かくまで融通効かないのよ、許してね」と言っていたので、場所や時間がズレてしまったことは仕方ないと早々に割り切った。 だけど、だから、私は早くニューヨークに戻りたかった。 ニューヨークに、クレアとそれからシャーネがいる場所へ。 ただそれをリカルドに引き留められた。 ニューヨークに行くにしても、着の身着のままという訳にもいかないだろう、とこうして買い出しに連れてきてくれた訳だ。 随分と親切な子供だと思う。 クリスの面倒を見ているだけある。 「ここだよ」 「ここ……?」 その親切なリカルドに最後に連れて来られたのは商店街の路地裏だった。 「瑞樹さん……!」 不審に思って眉をひそめていると路地裏の奥から名前を呼ばれる。 聞き覚えのある声だ。 見覚えのある帽子の少年が現れた。 「…………シャム?」 そして私は現実を知る。 *** 「だから瑞樹なんて女知らないって」 お手上げだとばかりに両手を軽く挙げて、クレアは目の前の幼なじみであるフィーロ・プロシェンツォを見下ろした。 「そんな訳ないだろ!お前の嫁さんなんだろ!?」 「なんだろって言われても俺は知らないんだ」 先程から繰り返される堂々巡りの言い争いを見て、ベルガ・ガンドールは、弟のラック・ガンドールの顔を見た。 「一体どういうことだよ。あんだけべた惚れだった女を忘れるか普通?」 普通。 そんな言葉がクレアに通用するとは思わないが、普通が通用しない相手だからこそ、どうにも腑に落ちない。 クレアがあんなにも溺愛し、そして信頼されていた相手の事を忘れるなんて。 始めは頭でも打って記憶喪失になったのかと疑い、3人で協力して嫌がるクレアを半ば無理矢理医者にも診せたが異常は無かった。 そもそも「瑞樹」という妻の存在をきれいさっぱり忘れてはいるが、それ以外の記憶はしっかりと残っているのだ。 記憶喪失だとしてもおかしいだろう、普通なら。 あんなにも溺愛していた人をそんな簡単に忘れたりしない。 まして、普通ではないクレアなら。 脳味噌を削り取ったって執念で思い出す事はあっても、きれいさっぱり忘れるなんて事あり得るのだろうか。 「百歩譲って瑞樹なんて女がいて、俺の嫁さんだったとしても、今の俺は知らないし覚えてない。フィーロ、それならそれはそういう運命だったと思わないか?」 「……どういうことだよ」 クレアの相変わらず突飛な発言に、フィーロは眉をひそめた。 フィーロ自身、クレアと瑞樹それぞれとの関係はあっても、夫妻として会ったのは一度きりだ。 だから、2人がどんな夫婦だったかよく分からない。 分からないけれど、この非常識な幼馴染みと結婚してくれる女なんてそう居ないだろうし、あの謎だらけの東洋人の女性の唐突な消失は余りにも気掛かりだった。 まして、瑞樹は自分の目の前で消えたのだ。気掛かりにならない方がおかしい。 「覚えてないなら忘れる運命だったんだよ。なんたって、この世界は俺に都合の良いように出来てるんだからな」 この世界は俺のモノ。 そんな突飛で非常識な彼の持論は幼い頃から何度も聞かされてきた。 その持論を今更覆そうだなんて思う人間はこの場には居ないけれど、居ないからこそ、その持論を今は受け入れられなかった。 この現実は明らかにクレア・スタンフィールドの意志に反していた。 キィ 部屋に唐突に金具の軋む音が響いた。 来客用の扉が開く音だった。 今居るこの場所はガンドールファミリーの事務所兼ジャズホールだ。来客自体はあってもおかしくはない。 ただ、今はまだ営業時間前だ 表の扉にはCLOSEの札を掲げたままであり、その扉は開く人がいるはずが無かった。 だがその扉が今は開き、1人の少女が現れた。 「…………イブさん?」 「こ、こんにちは。ガンドールさん」 ニューヨークから離れた自宅にいるはずの、イブ・ジェノアードが立っていた。 イブは少々たじろぎながらも軽く挨拶をして、その場にいた男達の視線を一身に受けた。 そして少女は視線を一巡させた後、お目当てらしいクレアを真っ直ぐ見た。 「クレアさん、貴方に渡したいものがあるんです」 少女はその胸に数通の手紙を抱えていた。 *** 「…………………………どういうこと」 声が震えていた。 つられるようにして、指先が小さく震えている。 震える指先を隠すように拳を握ると冷たかった。 シャムの個体、シャフトが気まずそうに目をそらす。 「俺にも分からないんですよ。だから、俺だけで瑞樹さんをずっと探してて。瑞樹さんに戻ってきて欲しかったですし、瑞樹さんが消えたと同時だったから何か原因に心当たりがあるんじゃないかと思って」 ぼそぼそと不安げに話すシャフトの声がやけに遠く聞こえた。 「…………覚えていない?私の事を?クレアと、シャーネも?」 それは現実。 絶望的な。 「覚えていないってどういうこと?だって、なんでそんな」 声が震える。 だって、 そんな、 私はクレアの言葉を信じて戻ってきたのに。 ─────だったら俺を信じればいい ─────自分の事が信じられないなら、俺を信じてくれ。瑞樹の価値を信じる、俺を クレア。 ねえ、クレア。 嘘だと言って。 私は私に価値なんて無いと思ってた。 消えて無くなりたいと思っていたし、消えて無くなってしまえばいいと思っていた。 だから、迷った。 あの悪魔の言葉を前に。 選択を躊躇した。 自分の望みを叶えることに。 だけど、願った。 クレアがいるから。 私は私の価値を信じられないけれど、私の価値を信じるクレアなら信じられるから。 だから、私は元の世界を切り捨ててでもこの世界に帰ってきた。 その価値が私にあるのだと信じられたから。 それなのに、 それなのに、その私の価値を、信じてくれる、貴方がいないだなんて、そんな、 「瑞樹さん!」 シャムに急に手を捕まれて我に返る。 「大丈夫ですか?」 心配そうに覗き込んでくるシャムの個体、シャフトの目に映る自分の顔が泣きそうに歪んでいる事に気付いた。 「わ、からない」 シャフトの目に映る顔が歪んでいく。 「分からない。どうしてクレアが私の事覚えてないの?私、クレアの元に戻るつもりだったの。それなのにクレアが私のこと覚えてないなんて。まして、シャーネまで!私、私は何の為に…………!」 何の為に父を見殺しにしてきたのか。 ─────もう一度選びなさい ─────あの世界を選んで、父親を切り捨てるの そう。私は選んだ。 この世界を。 父親を切り捨てて。 私の望みは叶うはずだった。 望み? ─────しょうがないのよ。たかがホムンクルス1人探して見つけ出した位じゃ人間一人の存在を消すのは無理なのよ。 そうだ。 望みだ。 ─────私は世界から存在を消すなんて一言も言ってないわ。 私は願った。 あの悪魔に。 願ったのだ。 消えて無くなりたい、と。 ─────貴方の家族から貴方という存在を消す、つまり記憶を消すって言っただけよ ただそれは叶わなかった。 悪魔の屁理屈で叶わなかったけれど、代わりに記憶が消されたのだ。 私の家族から。 「…………かぞく」 「え?」 「家族から記憶を消すって」 「家族?」 そうだ。 あの女の悪魔はそう言った。 私の存在を消すのは無理だと。 ただ、私の家族から私という存在を消す、つまり記憶を消すと言ったのだ。 「家族って瑞樹さんの?」 「…………そう。私、戸籍を作って貰ったの。ヴィクターさんに。それで、クレアと入籍したの。私はシャーネの姉で、クレアの妻」 つまり、クレアとシャーネは私の家族。 だから、女の悪魔が言っていた「家族」というのは、私の2020年の家族の事じゃなくて? ううん。2020年の私の家族なんて、私が父を見殺しにした時点で誰も残ってない。 残ってる私の「家族」はこの1990年代のアメリカにしかいない。 「クレアとシャーネは私の家族だから、私の記憶を消された…………?」 望みは叶うと悪魔は言った。 |