葡萄酒と運命31 拾うのは神


「僕にしなよ」

唐突に言われた言葉に頭がついていかなかった。

シャムからこの世界の現状を知らされて、目の前が真っ暗になったんじゃないかと思うほど目眩がして、クリスが待機する車に戻ってルッソ邸についた後も放心状態だった私にクレアは唐突に告げる。

違う。唐突なんかじゃなかった。
だってクリスは前から私に対して同じ事を言っていたのだから。

「僕にしなよ。あんな人間の事忘れてさ。瑞樹の事覚えてないんでしょ?忘れちゃったんでしょ?そんなヤツのところに帰る必要なんて無いよ」

赤目が笑う。
見慣れた犬歯が弧を描いて、近づいてくる。

クレアが私の事を覚えていない。

その事実は私を絶望させるには充分だった。

私はクレアの言葉があったから戻ってきたのに。
クレアが私の価値を信じてくれているから私は戻ってきたのに。
例え肉親を殺すことになっても、それでも戻る価値が私にはあるのだと。
きっとクレアは私が戻ってくることを望んでいるのだと。
クレアは私の帰りを待っているのだと。
だから帰らなければいけないのだと。
その為に肉親を見捨てても、クレアが私を価値を、行為を、選択を、全て肯定してくれるのだと信じていたのに。

―――それなのに、クレアは私の事を覚えていないだなんて。
―――それじゃあ、私は

「僕にしなよ」

赤目が笑う。
何がそんなに楽しいのか。
赤目は笑う。

「ねえ瑞樹。僕、瑞樹のこと愛してるんだ」

クリスがそっと私の手を取った。

「暇さえあれば瑞樹のこと考えてて、瑞樹に会いたくて。会えた時は少しでも長く瑞樹と一緒にいたくて。瑞樹が喜んでると嬉しいし、悲しんでたらぎゅって抱きしめたくなる。そういう感情を人間は愛って言うんでしょ?ねぇ瑞樹、愛してるよ」

普段であれば赤面してたじろいでしまうような愛の告白が流れてくる。

―――それなのに、クレアは私の事を覚えていないだなんて。

―――それじゃあ、私はただの人殺しじゃないか。

―――それも、親殺しの。

ああ、でも、最初からそうだったんだ。
父を刺してこの世界に来たんだから、私は元から父親殺しで、私は元から価値が無くて、生まれてこなければ良かった子で、本当ならこの世界にいるはずがなくて、クレアの運命の人なんかじゃない。

「私に、」

ようやく言葉を発した私に愛をささやき続けていたクリスが耳を傾ける。

「私に価値なんて無いの」

「価値?」

脈絡の無い私の言葉にクリスが今度は首を傾けた。

「私には愛される価値がないの。自分の都合で大切な人達を捨ててきたの。大切な家族を」

じっとクリスの視線が降りかかるのにいたたまれなくて目線をしたに落とす。

「………………か、家族をね、家族を捨ててきたの、私。この世界に戻るために。クレアが、クレアが私のこと待ってるって思って。クレアなら私のした事を肯定してくれるだろうって!クレアなら私にそれだけの価値があるって信じてくれるって。でも、でも、ク、クレアは、私のこと覚えていなくて、だから、クレアは私の価値なんて信じてなくて!……つま、つまり私に価値なんて無いの!私はただの父親殺しなの!!!」

喋り出したら止まらなくて、つっかえながらもまくし立てて、視界が歪んで涙がにじみ出てる事に気付いて、涙がこぼれるのが嫌で、思わず顔を上げた。

「じゃあちょうだい」

赤目が笑う。
何がそんなに楽しいのか。
赤目は笑う。
先程と全く同じ顔をして。

「価値が無いんでしょ?瑞樹を受け入れてくれる人がいなくなっちゃったんだよね?ねぇ、瑞樹。じゃあ瑞樹を僕にちょうだい」

唐突に言われた言葉に頭がついていかなかった。

違う。唐突ではなかった。
クリスは先程から結局同じ事を言っているんだ。

「僕思うんだけどね、価値なんて人によって違うでしょ?つまり価値を決めるのはそれぞれの人によると思うんだよね。
瑞樹にとって価値がないものだけど他の人には価値があるかもしれない。瑞樹の国の言葉でそういうのなかったっけ?捨てる神あれば?みたいなの。瑞樹は瑞樹に価値がないと思っているかもしれないけれど、僕にとって瑞樹は価値があるんだ。とってもね。だから瑞樹、僕にちょうだい。いらないなら瑞樹を僕にちょうだい」

言葉が反響する。

―――ここにいなよ。

そういえば初めてそう言ってくれたのはクリスだった。

私がこの世界にいることを望んでくれた初めての人は、クリスだった。

…………クレアじゃなくて。

「君を僕にちょうだい」

言葉が反響する。

クリスの言うことは正しいのかもしれない。
価値は人によって違うもので。
私にとって私は価値がないもので、父にとっても母にとっても価値がなくて、

クレアも、クレアにとっても私はもう価値がないもので。

当たり前か。だって私はクレアの運命の人じゃないんだから。

クレアの運命の人は、本当はシャーネで、私じゃなくて。
シャーネも私のことを覚えてないと言うのなら、運命はきっと正しく動くのだろう。

「瑞樹」

クリスが私の名前を呼ぶ。
ゆっくりと手が伸ばされて私の首をつたって背中にまわる。
クリスに抱きしめられるのをただむなしく受け入れた。

どうせ、私はクレアの運命の人などではないのだから。






***






「瑞樹は俺の運命の人だった!」

「「……は?」」

バンッと扉を大きく開けて登場した幼馴染みにガンドール兄弟は顔を向けた。
聞き間違いではなければこの男は数分前まで覚えてないと主張していた自分の妻の名前を口にしたぞ、と兄弟は顔を見合わせる。

「瑞樹は俺の運命の人なんだ!」

「いやいや待てよ、どうしてそうなったんだよ。お前さっきまで覚えてねぇって言ってたじゃねえか」

「ああ、俺は瑞樹の事を覚えてない。思い出した訳でもない。だが分かるんだ。瑞樹は俺の運命の人だって」

この幼馴染みの奇行とも言える突拍子もない言葉や発想には慣れているはずだが流石のベルガも説明を求めざるを得なかった。
先程まで同じく幼馴染みのフィーロと一緒に、何故自分の妻を覚えてないのか、なんとかして思い出せないのか、と詰め寄っていたが歯牙にもかけない状態だったのだ。
経緯を説明してもらわないとこちらの気が済まない。

「イブが持ってきた手紙を読んだんだ」

バサッとクレアが手に持っていた手紙の束を見せつける。

「瑞樹さんがイブさんに宛てた手紙ですよねそれ」

先程までいたイブ・ジェノアードは今は別荘の様子を見てくると退店している。
ラックの視線の先にある手紙はイブと瑞樹が交わした数通の手紙であり、イブがどうか読んで欲しいとクレアに半ば押しつけた手紙だった。

乗り気じゃなかったクレアだが、1枚目の手紙に少し目を通した後、集中して読みたい、と奥の部屋にこもり、そして出てきたと思ったらコレだった。

「そうだ。これは名目上は瑞樹からイブに宛てた手紙だ。しかし、その実は……」

名目上、という言葉に引っかかりを持ちながらベルガはぽっと頬を染めた幼馴染みに片眉を上げずにはいられなかった。

「……これは俺へのラブレターだ」

「あぁ?」

予想外の言葉にベルガが唸るような声を漏らす。

「つまり、この手紙を読めば分かるんだよ。瑞樹が俺の運命の人だって!瑞樹が俺をどれだけ愛していたのか。俺が瑞樹をどれだけ愛していたのか。それが分かるんだ。これは最早運命だ!瑞樹は俺の運命の人だったんだ!」

ガンドール兄弟は再び顔を見合わせた。
数秒後、ラックが代表して口を開いた。

「ええと、つまりですね、先程イブさんからも聞いた話とクレアさんが今言った事をまとめると、その手紙には瑞樹さんとクレアさんの生活ぶりが書かれてるはずで、それを読むと2人が愛し合っていた事がよく分かると」

「そうだ」

自分の言いたい事が伝わって満足そうに頷く幼馴染みにベルガがため息をついた。

「つまりのろけの手紙って事かよ」

「そういう事ですね」

そののろけの手紙を読んでどういう思考回路に陥ったかは長い付き合いなだけあって理解が出来た。

クレア・スタンフィールドという男は今まで両想いになったことがないのだ。

出会って3秒の女に告白しては振られる人生を繰り返していたのだ。

その男が両想いになった女がいるという事実を、運命だと思ったとしても何の不思議も無い。
何故なら今までそんな女は1人もいなかったのだから。

「ところで」

高揚した表情のままクレアは首をかしげた。

「瑞樹は、俺の運命の人はどこにいるんだ?」

「……それが分かんねぇから困ってるんじゃねぇかよ」

ベルガ・ガンドールは大きくため息をついた。

2020.09.01
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