葡萄酒と運命6 夜明け


この世界で得たものはいずれは失ってしまうし、最終的には私がここにいた痕跡は残らなくなる。それが悪魔との契約だった。
だからこの世界での人との接触は深くしてこなかったし、不死の身体もどこか他人事のような感覚が抜けない。
ここは現実じゃなくて、いつか覚める夢のようだと思っていた。

だけど、フェルメートに対しては違った。

アイツに対しては、強烈で明確で圧倒的な恐怖を抱いた。
それは紛れもない、私の感情だった。
それは紛れもない、私の現実だった。
この世界に来てからいつか帰るのだからとずっと他人事のような感覚で過ごしていた日々に、強制的に終止符を打たれたような気分だった。

だけど、それによって私はようやく気付いた。

ヒューイさんへの不信感もシャーネとの友情もグースからの嫉妬に対する煩わしさも職場の人たちとの信頼もクレアへの愛おしさも、全部紛れもない私の現実で私の感情だった。

男の悪魔を見つけたら去る場所だったこの世界に、私の現実はあった。
いずれは会えなくなる人たちの間に、私の感情はあった。

そして今、私にはクレアがいる。

そもそも、エルマーさんと出会った時だって、この列車を降りたらすぐに男の悪魔に辿り着けるにも関わらず、それよりもずっと先のことを心配していたじゃないか。
もう気付かない振りは出来ない。

私はこの世界で生きたい。
クレアと一緒に生きてゆきたい。
例え、元の世界で抱いた願いを捨ててでも。

それが今の私の現実で私の感情だった。





車両の上に上り、後方車両を見る。
風が強く真っ直ぐ立つのも力が要る状態だったが、車掌室の上に黒いドレスの女性と白服が居るのがなんとか視認出来た。シャーネとラッド・ルッソだ。
風に足を取られないように気を付けながら後方車両に向かった。

向かってる最中に真っ赤な人影を捉える。クレアだ。
シャーネとラッド・ルッソの二人と何か話してた後、ラッド・ルッソと戦闘になる。戦闘と言っても一方的だ。ラッド・ルッソの拳はクレアに当たることはなかった。
私が車掌室の一つ前の車両に辿り着いたのと、白いドレスを着た女性、ルーアが車両の間から顔を出したのはほぼ同時だった。

「ルーア!馬鹿お前休んでろっつったろぅがぁ!」

ラッド・ルッソ叫び声が響く。
風向きに逆らってここまで声が届くなんて、かなりの大声で叫んだのだろう。
ラッド・ルッソの表情から焦燥が感じとれる。食堂車両で人を楽し気に殴り殺した彼からは想像つかない程の必死さだった。
車掌室の上のクレアと目が合う。クレアの手にはロープがあった。両端が輪になっている。
この後にクレアがやることを察して、というか思い出して車掌室の車両に飛び移るのをやめて数歩下がった。

「ラッド!駄目!そいつと戦っちゃだめ!殺される!早く逃げて!」

ルーアが叫ぶ。
この距離とその小さな声でラッドまで届いたのだろうか。ラッド・ルッソが勢い良く走ってくる。
ロープを解きほぐしていたクレアの手が止まる。ロープの端の輪が、一方は列車の横を通り過ぎた柱に、一方はルーアの首に投げられた。

「このッ……腐れ外道がぁぁっ!」

ラッド・ルッソがクレアに伸ばしていた拳を反らしてロープを掴んだ。
ロープを掴んだ反対の腕でルーアを抱きしめる。2人は抱きしめ合ったまま列車を落ちていった。
一瞬で私の横を通り過ぎる。
その時、ラッド・ルッソと目が合った、ような気がした。

「瑞樹」

名前を呼ばれて目線を戻すと、クレアが目の前まで移動してきていた。

「客室に戻ったんじゃなかったのか?」

言われて、そういえばそうだった、と思い出す。
フェルメートに会った衝撃ですっかり忘れていたが、クレアに安全な客室に戻るようにと言われていたんだった。

そもそも騒動が起きてから私が車掌室に向かったのは、物語が変わり始めていることに気付いたからだ。
物語が変わり、私の知らない事態になっている中で、真っ先に心配だったのがクレアだった。
物語の通りなら、クレアは車掌を隠れ蓑にしている「レムレース」のメンバーにも車掌の服を奪った白服の仲間にも殺されるはずがない。
しかし、万が一、私の知らない展開になっていたらクレアはどうなるのだろう。
この列車で起きる出来事の最重要人物の一人であるだけに危険しかないこの舞台の上で、私はそれが心配だった。まあ、結局は杞憂だったのだけれど。

クレアの手が伸びてくる。
おそらく抱きしめてくれるだろう動きに先越してクレアに抱きついた。

「どうした?」

「うん、ちょっと……会いたかったの」

「なんだ。そんなことだったのか。呼んでくれれば会いに行ったのに」

「そうだね。クレアはヒーローだもんね」

「お前だけのな」

苦手な咄嗟の質問の割に上手く誤魔化せた上にクレアに抱きしめてもらえて幸せ一杯になっていると、かん、と足音に現実に引き戻される。
クレアの首に埋めていた顔を起こすとシャーネがいた。ちょっと不機嫌にも見える。

「シャーネ」

慌ててクレアから離れて今度はシャーネに抱きつく。当たり前のようにシャーネが抱き留めてくれた。

「大丈夫?怪我は?」

シャーネが首を横に振る。
手足の所々に擦り傷はあったが、大きな外傷はないようだった。ほっと息をつく。

シャーネの視線が私の背後に向かった。
そういえば、シャーネにクレアのことは話してなかった。
なにしろクレアと付き合った当初の目的はヒューイさんが捕まった後の保険だったので、クレアのことはヒューイさんに知られたくなかったし、勿論シャーネに言えばシャーネがヒューイさんに報告するのは分かっていたので言わなかったのだ。

とはいえ、ヒューイさんはクレアの存在を知っていたようだったが。
ヒューイさんには例の「双子」がいるし、隠し事はほぼ不可能なことは分かっていたが、隠したいものは隠したい。
例え、無意味なことだとしても、隠したいという意向を表明することがヒューイさんの庇護下にいる私の些細な抵抗でもあった。
でも、ここまで来たら隠し続ける必要もないだろう。決意はもう固まったのだ。

「あのね、シャーネ。紹介が遅れちゃってごめんね。この人、今返り血で真っ赤になってるけど普段はこうじゃなくてね。えっと、私の恋人で旦那様になる、クレア・スタンフィールドっていいます」

シャーネが目を見開いた。
職場でポーカーフェイスと言われていた私より無表情なシャーネがここまで驚くのも珍しい。
そんなに意外だっただろうか。私に恋人がいることが。それとも恋人がこの返り血で真っ赤な人というのが驚きなのだろうか。
どちらも有り得そうだなと思いながら、今度はクレアに向き直る。

「クレア、こちらはシャーネ・ラフォレット。私の大切な友達」

友達という言葉にシャーネが少し恥ずかしそうにしたが構わずにっこりと笑顔でシャーネと目を合わせると照れくさそうに頷いてくれた。

「よろしく、シャーネ」

クレアが握手をしようと手を差し出す。
シャーネは少し躊躇したが、手を差し出して握手してくれた。
その光景が私の現実に起こっていることが、何よりも嬉しかった。

直後に、恐らくニースさんだろうが、客室の一部で爆発音がした。
クレアが様子を見に行くと言って先頭車両に向かった。

それからシャーネと少し話をして、シャーネはこの先にある川に飛び込むことになった。マンハッタンで再会する約束をして。
客室に戻ろうと車両の上を進んでいくと、途中でチェスを助けようとしたアイザックさんとミリアさんの二人と出会い、チェスの無事を確認する。
後方で爆発音がしてジャグジーさんらしき姿が遠目に見えた。あの爆発音は恐らくグースだろう。

「瑞樹様!」

一等車両に戻ると何人かの「レムレース」のメンバーがいた。その中の一人のスパイクさんが私を見て安堵の表情をした。

「……どうしたんですか?」

残っている「レムレース」はてっきりグースと共に行動していると思っていたので驚く。グースなら先ほどジャグジーさんと戦って吹き飛ばされたはずだ。
なので、残念ではあるが「レムレース」は全滅したんだろうと考えていた。

「いや、あの後「レムレース」内で話し合いまして、結局グースに従う者と瑞樹様の指示に従う者で分かれたんですよ」

「……分かれた?」

「普段は物静かな瑞樹様があんなにも声を荒げていたので非常事態なのは明白でしたし、貴女の指示は正しいと思ったんです。ヒューイ師も一般の人を巻き込むのを嫌っていましたし、今更ではあるんですが、この作戦自体が間違っているんじゃないかという意見が出まして。それなら瑞樹様のご指示に従うべきだと」

グースや他何名かは譲りませんでしたけどね、というスパイクさんに衝撃を受ける。まさかそんな展開になるとは想像もしていなかった。
思わぬ展開に呆けていると客室の窓からクレアが出てきた。「レムレース」のメンバーがぎょっとして一斉に銃をクレアに向ける。クレアもクレアで一番前にいたスパイクさんに腕を伸ばした。

「待って!」

クレアの腕を掴んで止める。

「この人達はもう誰も殺さないから」

クレアは少し不思議そうな顔をしたが、頷いてくれた。

「よく分からんが、それならさっさと川に飛び降りた方がいいんじゃないか?このままニューヨークに着いたら警察に捕まるぞ」

察しがよく状況判断が的確な婚約者に舌を巻く。
慌てて「レムレース」の人達を誘導する。

「シャーネも川に飛び降りてるので探してくれますか?」

飛び降りる直前のスパイクに頼むとスパイクさんはしっかりと頷いてくれた。





客室に備え付けてあるシャワー室で返り血を落として着替えているクレアをぼんやり見る。

長い夜だった。
このフライング・プッシーフット号の一連の事件がようやく終わったのだ。私自身なんとか切り抜けたし、シャーネも無事だ。
「レムレース」の人たちも思いがけず、一部だが助けられたし、ジャグジーは今灰色の医者に治療を受けていた。
アイザックさんとミリアさんはもちろん無事だし、チェスは私に若干怯えてはいたが愉快なカップルの影に隠れて大人しくなっていた。
ベリアム夫人からは何故かお礼を言われてしまった。
他に気になることがあるとすれば、

「瑞樹、そんなに俺の身体をじろじろ見ておもしろいか?」

はっと我に返ると悪戯っ子のように笑ったクレアの顔が目の前にあった。

「それともなんだ?見惚れてたか?」

それならしょうがないな、という自意識過剰なクレアの物言いに力が抜ける。
実際、愛しい私の婚約者様は見惚れる程綺麗な身体をしているので言い返せない。

「瑞樹、この後の事なんだがな、俺は車両切り替えのどさくさに紛れて抜け出して一足先に駅に行くつもりだ。クレア・スタンフィールドは死んだってことになってるからな。警察に見つかるのはまずい。お前はどうする?」

そうか。ゆっくりしている場合ではなかった。まだ、警察の取り調べというのがあったのか。
アニメではほとんど触れられなかったが、切り抜けなければならない関門だ。

「瑞樹の場合、退職金代わりにこの一等客室に乗車しているわけだし、乗車自体は怪しまれることはないと思うが、黒服と行動してるところを他の客にも見られてたりするか?」

「……する」

食堂車両でグースに声をかけられているところを一般客に見られている。
クレアに着いていっても良いが、この列車にはエルマーがいる。
彼とはもう少し関係を築いていきたいし、何より護送前のヒューイさんと面会をするなら彼と一緒の方が都合がいいだろう。

「私は残るよ。警察の取り調べもなんとかかわしてみる」

一般客の前でグース達と話していたのは僅かだし、鉄道会社の元社員だ。
しかも、同乗していた婚約者を失った女だ。支離滅裂な事を言っても気が婚約者を失って気が動転しているとか判断してくれそうだ。
そんな楽観的な判断で返事をした。

「そうか、無理そうなら呼べよ?」

「うん。危ないと思ったらちゃんとヒーローを呼びます」

クレアはヒーロー扱いが随分と気に入ったらしく、上機嫌で私を抱きしめた。
二人でじゃれあっている間に列車がゆっくりと停止した。

2017.08.14
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