葡萄酒と運命7 彼女のこと


■ニース・ホーリーストーンの場合

長い夜だった。
ジャグジーを宥めながらなんとか警察の取り調べを切り抜けてほっと息をつく。
ジャグジーが怪我をしたがすぐに医者に診てもらえたおかげもあり大事にはならなかった。あれだけのことがありながら皆命は無事だったから御の字というものだろう。
それに欲しかったものも無事手に入った。アレの中身のことを考えるだけでぞくぞくする。

残っている乗客全員の取り調べを警察がしている間は待機を指示されている。
今のうちに逃げても良いが、ジャグジーの傷を鑑みると大人しくしておいた方がいいと判断してじっとしていた。
ジャグジーが少し落ち着いたのを見計らってトイレに行った帰りのことだった。

通路を歩いて隣の車両に来たところで彼女らしき人を見かけた。
自分の弱視はこういう時に不便だ。じっと目を凝らす。やはり、あの幼い体格に少年のような服装、東洋人特有の真っ黒な髪は彼女だろう。

「瑞樹さん!」

思い切って名前を呼ぶと、やはり合っていたらしく人影が振り返った。

彼女が黒服達の仲間であったことは驚きだった。
食堂車両で話した彼女の印象ではテロや争い事とは無縁のように見えた。アメリカには来て1年程だと言っていて、どちらかというと世間知らずなようだった。控えめで大人しくあまり感情が表に出るタイプではないようだったが、嫌な感じはしなかった。
それが彼女の印象だった。

黒服に捕まっている時に現れた彼女はとても取り乱していた。声を荒げた彼女に黒服達も驚くほどに。
何が彼女をあそこまで追い詰めたのかが気がかりで、私はレイルトレーサーを思い出していた。
よくある都市伝説のレイルトレーサーの話を信じたわけではない。しかし、車掌室をあんな状態にした犯人は分かっていないと警察も言っていたし、私の想像が及ばない『何か』が乗っていたのは事実だろう。
彼女は「こんなことをしている場合じゃなくなった」と言って私達を解放してくれた。グースと呼ばれた黒服は彼女の言葉に異を唱えていたが彼女はそれを一蹴していた。
その過激さから黒服達が彼女を力づくでも止めなかったことが不思議だったが、後からヨウン達に聞かされたことで納得がいった。
おそらく黒服達は力尽くでは彼女に適わないと分かっていたからだろう。
彼女は銃を持った白服相手に素手で挑んで叩きのめした挙句、窓から放り投げたらしい。彼女の印象からは信じがたいことではあるが、ヨウン達が嘘をつく理由もないので事実なのだろう。
温和ではあるが、怒ると怖い人なのかもしれない。
争い事とは無縁な世間知らずに見えたとしても、テロリストの一員であることは確かなのだ。

声を掛けて近づこうとして彼女の側に立っている人影が警察の制服を着ていることに気付く。
声を掛けるタイミングを間違えただろうかと後悔したが、彼女は警察らしき人と二言三言話すとこちらにやってきた。

「無事で良かったです。ニースさん」

「瑞樹さんこそ、警察大丈夫でしたか?」

声を潜めて聞く。
彼女はこの列車を占拠したテロ組織の一人だ。警察に捕まってもおかしくはない。
しかし、彼女はごく普通に警察と話していたし、テロの仲間だとバレていないのだろうか。

「なんとか大丈夫でした。「レムレース」の人達とは同じ一等客室で仲良くなったって無理矢理押し通しました」

随分と杜撰な言い訳に驚く。
そんな言い訳で警察が納得するものだろうか。
そもそも彼女の服装は、失礼だが一等客室に乗車するような格好には見えない。どちらかと言えば自分達と同じ三等客室の方が自然だ。
困惑しているとこちらの心を読んだかのように彼女が説明しだす。

「私、この鉄道会社の元社員なんです。退職金代わりに一等客室をもらったので、乗車自体は怪しまれませんでした。それから、婚約者が死んだのも疑いが晴れた要因です」

「婚約者?」

婚約者という言葉に耳を疑う。
確かに食堂車両で話した時、彼女は客室に連れがいると言っていたが、まさかその連れが婚約者ということだろうか。

「私がテロの一味なら、自分の婚約者を巻き込むようなことはしないだろうと。それからベリアム夫人が庇ってくださったんです。テロ組織に捕まっていたところを助けてくれたって。政治家の妻の発言力って強いみたいですよ」

淡々と説明を続ける彼女を見つめる。
婚約者が亡くなったという割に少しも悲しんでいる様子はない。
そんな私に気付いて彼女は肩を竦めた。

「まぁ、本当は死んでないんですけどね」

彼女の声が珍しく感情を含んだ。
その声は悪戯が成功した子供を彷彿とさせた。

「レイルトレーサーなんです。私の婚約者」





■チェスワフ・メイエルの場合

「チェス君!」

車両切り替えのタイミングで列車を支配した警察からの取り調べは約2時間続いた。
ようやく生き残った乗客全員の取り調べを警察が終えて、フライング・プッシーフット号はそのまま車両ごと警察に引き渡された。
乗客たちは皆ぐったりとした様子で代替車両に移った。私もアイザックとミリアの二人と一緒に移動する。移ってすぐに、聞き覚えのある声が私を呼んだ。

「瑞樹お姉ちゃん……」

食堂車両で知り合った彼女は黒服の仲間だったはずだ。
何故警察に連れて行かれず一般乗客と一緒に代替車両にいるんだ。
思わずミリアのスカートの裾を掴み、ミリアの陰に隠れようとするとそっと肩を掴まれた。

「ちょっといいかな?」

彼女が人気のない車両の廊下を指す。

「ここじゃ駄目なの?」

コイツと二人きりになるのは避けたかった。
コイツは列車を占拠しようとしたテロ組織の一人だ。
まして、自分を殺せる不死者でもある。二人きりになるなど自殺行為だ。
そもそも何故コイツは私が不死者だと知っていたんだ。あの船に乗っていた誰かの関係者か、もしくはその誰かを食ったとしか考えられない。

「私はここでもいいけど……」

警戒心を露骨に出す私に彼女はチラリと横のカップルを見た。
カップルは不思議そうに首を傾けた。

「どうしたんだ瑞樹?チェスと内緒の話か?」

「企業秘密だね!トップシークレットだね!」

「そうですね……。内緒の話です」

賑やかになるカップルに肯定をする彼女の手は私の肩から離れる気配がない。
要件はこのカップルに聞かせたくないような話なのだろうか。大方、不死者についての話だろう。
このカップルはおそらく自分達が不死者だという自覚がない。
にも関わらず、彼らは危険を冒してまで私を助けてくれた。
どういう経緯で手に入れたか不明だが、不死の酒を知らずに飲んだのだのかもしれない。自分たちが不死者を食うことが出来ることも知らないはずだ。
なんとなく、この二人を不死者の事情に巻き込むのは気が進まなかった。

暫く考えた後、そもそも人の多いこの場で不死についての話でもされたらたまったもんじゃないと思い直して彼女を連れて移動した。

「それで?何の用?」

「うん。ちょっと……」

二人きりになってそれまでの子供っぽい口調を変えて強気な態度で問うと彼女が視線を泳がせた。
そちらから誘ったくせに、今更どう切り出すか考えているらしい。
私が苛立っていると、彼女はしゃがみ込んで私と目を合わせて言った。

「チェス君、この列車にはフェルメートと一緒に乗ったの?」

「……っ!?」

血の気が引いていくのが分かった。
彼女の視線から逃げるように自分の視線を落とした。
何故コイツの口からフェルメートの名前が出てくるんだ。
やたらと親しげに呼ぶ雰囲気から、コイツはあの船の誰かを食って記憶を取り込んだのではという疑惑が濃くなる。
だとしたら誰を食ったのだろうか。私まで食うつもりなのだろうか。
食われてしまったら、知られてしまう。フェルメートの最後を。これっぽっちも愛情なんて無かったことに気付かず、フェルメートに依存していた私を。

何と返答すべきか言葉を探す。言葉を間違えたらこの場で食われてしまうのではないかとすら思った。
背中に嫌な汗が伝った。

「やっぱり違うんだね」

言葉を探し当てる前に、彼女がそれを遮った。

「最初はチェス君とフェルメートが一緒に乗車したのかと思ったけど、違うよね。だって、それならチェスくんは今頃生き残った乗客からフェルメートを探してるはずだもんね」

「……どういう意味?」

落としていた視線をあげる。
言われた言葉に違和感が拭えない。
その言い方ではまるで―――。

彼女は混乱している私の右手をとって自分の頭に乗せた。

「……っ!何を!?」

「チェス君、フェルメートを食べた時のことを思い出して、その光景を私に見せたいって思って」

「は……?」

掴まれた右手が震える。
何故コイツは私がフェルメートを食べたことを知ってるんだ。フェルメートを食べたことは誰にも言ってない。誰もその事実を知っているはずがない。
ニューヨークにいる情報屋の仕業か?情報屋というのはそんなことまで把握しているのか?それに何故コイツはこんなにも躊躇なく私の右手を自分の頭の上に乗せられるんだ。記憶を見せて欲しいだけだとしても軽率すぎる。この状態で私が『喰いたい』と思っただけで、コイツは私に喰われてしまうのだ。もしかして、コイツは不死者の食い方を知らないのか?だが、不死者は不死者を食うことが出来ること自体は知っているはずだ。だから私に不死者の存在を教えたのではないか。いや、そもそもコイツは自分を不死者だと言ったが、それは本当なのか?実は普通の人間なんじゃないか?だからこんな平気な顔をして私の右手を自分の頭に乗せれるんじゃないか?

目の前の彼女に対して疑問が噴出する。それはつまり私にとって彼女が「未知」であることを示していた。
震えが右手から身体全体に広がっていくような気がした。

「離せ!何を言ってるんだ」

「いいから」

右手を振りほどこうとしたが何度腕に力をこめてもびくともしない。
子供の力じゃ適わないというのもあるが、彼女は見た目からは想像がつかない力で抑えられている。
あの血だらけのレイルトレーサーを思い出す。この列車に乗ってから出会うやつはまともじゃないやつばかりだ。
抵抗する私に彼女は困ったような顔をして、しばらく考えた後に告げた。

「チェス君、私ね、ヒューイ・ラフォレットの仲間なの」

唐突に告げられた名前に目を見開く。
ヒューイ?
今、彼女はヒューイ・ラフォレットと言ったか?

ヒューイの名前に動きを止めた私を見て、彼女は続けた。

「私不死者としては不完全なの。だから、貴方を『喰う』事も『喰われる』事も出来ない。ヒューイが私をそういう身体にしたの」

混乱する頭で必死に彼女の言葉を理解する。彼女のいうことが本当かどうかは分からないが、確かにヒューイならやりそうなことだった。
目の前の「未知」が「ヒューイの仲間」へと変貌を遂げる。

乱れていた呼吸を整える。
例えヒューイの仲間と分かっても、望まれた記憶は思い出したくない光景であることに変わりはない。しかし、私の右腕を強く握る手がそれを許さなかった。レイルトレーサーからの拷問を思い出す。これも報いなのだろうか。だとしたら、逃げられない。

ゆらゆらと暖炉の明かりを思い出す。暖炉の明かりに照らされたフェルメートが見えた。近付いてきたフェルメートに私はゆっくりと右手を伸ばす―――。

「……」

彼女はしばらくじっとしていた。
そっと私の腕を離すと私に対してペコリと軽く頭を下げた。

「嫌なこと頼んでごめんね、チェス君。ありがとう。またね」

「えっ……」

そう言って彼女は止める間もなく去って行った。





■レイチェルの場合

はあっと大きなため息をつくと同時にペンシルヴェニア駅構内のベンチに座る。
疲れた。
警察にしつこい程に取り調べを受けた。
半分血に染まった切符を見る。
乗員名簿に名前の記載が無いので散々怪しまれたが、あの車掌にもらった乗車券のおかげでなんとか助かった。
感謝すべきなのかもしれない。あの化け物みたいな血だらけの車掌に。

「無賃乗車女さん……?」

「え?」

ぎくりと身体が強張る。
一瞬警察がやってきたのかと思ったが、顔を上げると見覚えのある東洋人がいた。

「アンタ、食堂車にいた……」

食堂車両のカウンターで食事をとっていた乗客の一人だったと記憶している。
やたらと賑やかなカップルと顔に刺青や傷痕のあるカップル、それに親子連れと一緒にいたはずだ。
食堂車両で見た時は少年かとも思ったが、近くで見ると童顔の女性であることに気付いた。

「無賃乗車ってなんで……」

私のことを無賃乗車女だなんて呼ぶのか心当たりが一つしかない。
というか、あの列車で私が無賃乗車だと知っているのは一人しか居ない。
目の前の彼女は少し考えた後、私の隣を指さした。

「座ってもいいですか?」

「どうぞ……」

「私瑞樹っていいます。貴女のお名前は?」

「……レイチェル」

「レイチェルさん。警察に捕まらず此処にいるということは乗車券がお役に立ったみたいですね」

その言葉で確信する。

「……やっぱりアンタ、あの車掌の関係者?」

「はい。彼が貴女のこと随分と褒めてましたよ。『変な女だったがなかなかに肝が座ってた』て」

「それ、褒めてる?」

あの車掌がそう言ってるのが想像出来てしまって眉をしかめる。
それを勘違いしたのか彼女が慌てた。

「気に障ったならすいません」

「別にアンタが謝ることじゃないよ。気に障った訳でもないから。というか、アンタとあの車掌の関係って?どういう関係なの?」

あの化け物みたいな車掌の異常さと尊大な態度から目の前の大人しく控えめな女性がどうにも結びつかなかった。友人には見えないし、アイツの仲間か何かだろうか。
彼女は少し思案して、それから顔を微かに朱に染めて言った。

「婚約者です」

「は……?」

婚約者?今婚約者と言った?あの化け物と婚約しているの?というか、あの化け物は婚約が出来るの?いや、化け物じみてるだけで車掌なんだから人間ではあるのだろう。
人間なら婚約も、結婚だって出来る。
しかし、よりにもよって婚約者。男なんて星の数ほどいる中で、よりにもよってアイツと婚約だなんて。
しかもちょっと頬を染めているぞこの人。照れることなのか、アイツと婚約することは。

彼女の心理が全く理解できず、私が混乱していると荘厳な雰囲気を纏った男が近付いてきた。

私も彼女も男に視線を向ける。
近付いてきた男はベリアム上院議員だった。
何故こんなところにこんな人がいるのかと思ったが、議員の後ろに彼女と食堂車で談笑していた親子を見つける。
ベリアム議員の妻子だったのか。なるほど、あの列車がテロリストに狙われた訳だ。

「妻と娘が世話になったようだな。礼を言う」

ベリアム議員は無愛想にそう告げると彼女に分厚い紙封筒を投げて寄越した。
封筒の口から100ドル札の束が見えてぎょっとする。

「取っておいてくれたまえ」

不遜な物言いに眉をひそめる。
どういうことかは分からないが、おそらく彼女がベリアム妻子をテロリストから守るなり助けるなりしたのだろう。それに対してこんな礼の仕方はあまりにも失礼ではないか?
悶々としながら隣の彼女を見ると、受け取った札束を見つめながら何か考えているようだった。
その間にベリアム議員が用は済んだとばかりに身体の向きを変えた。

「待ってください」

彼女が札束から顔を上げベリアム議員を呼び止める。
ベンチから立ち上がり呼びかけに反応した議員と向き合った。

「ベリアム上院議員。今回の私の働きを"買って"頂けるのでしたら是非他のものも買っていただけませんか?」

彼女は真向から議員を見上げ、議員はそのまま真っ直ぐ彼女を見下ろした。

「君から何が買えるというのかね」

不遜な物言いが警戒を帯びて更に不遜になる。
お偉い政治家様には金目当てで近づいてくる輩も多いのだろう。警戒するのは当然だった。
彼女は私と目の前の議員にしか聞こえないような小さな声で言った。

「不死に対する戦力と情報です」

フシ?フシとは何だろうか。
彼女の言った意味が私にはよく分からなかったが、ベリアム議員の仏頂面がわずかに驚きの色に染まったので、彼にはフシがなんなのか分かっているのだろう。
ちらりと議員が私を見た。

「話は後日しよう」

「分かりました。では明日の夕方16時にそちらへ伺わせて頂きます」

「……まるで私のスケジュールを把握しているかのような物言いだな」

「ええ。もちろん」

堂々と肯定する彼女に、議員は不服そうな態度で立ち去っていった。
フシというのが何なのかは分からないが、私には聞かれたくない話なのだろう。
彼女は一体何者なのだろうか。政治家が他に知られたくないような話を知っているなんて、しかも、曲がりなりにも情報屋の私すら分からないような話だ。得体が知れなかった。
入れ替わりにベリアム夫人と娘が近づいてくる。

「瑞樹さん、今回は本当にありがとうございました」

「ベリアムさん、私に感謝なんてしてはいけません。私は貴女達に危害を加えたテロリストの一味なんですから。旦那さんには私がテロリストの仲間だと伝えてないんですか?」

「伝えておりません。テロから助けてくださった方だとお伝えしてます。実際、貴女が居なければ私もメリーもどうなっていたか分かりません。貴女に助けて頂いた後も、黒服の一部の方が「瑞樹様に指示されたから」と言って守ってくださいました。本当に助かりました。貴女は『一般客に危害を加えず、この列車を無事にニューヨークに到着させることを最優先』するようにおっしゃっていました。そもそもテロは貴女の本意ではなかったのではありませんか?」

「それは……」

図星なようで彼女は口ごもった。
そっとベリアム夫人が彼女の手を握る。

「貴女とは食堂車で少しお話しさせて頂いただけですが、人に乱暴を働く方ではないことは分かります」

「買い被りすぎです……。貴方達を危険に晒したことに違いありませんから……。このお金もお返しします。私が頂いていいお金ではありません」

「いいえ。そのお金はどうか受け取ってください」

居心地悪そうに彼女が視線を落とす。
しかし、視線を落としたことによって彼女はベリアム夫人の隣にいた娘と目があった。

「瑞樹お姉ちゃん、本当にありがとう御座いました!」

あどけない笑顔ではっきりと言われたお礼に、彼女は戸惑ったように数秒沈黙して、覚悟を決めたようにこう言った。

「どういたしまして」





「レイチェルさん、これあげます」

「え?」

ベリアム議員達を見送った後、彼女はぽいっと私の膝の上に札束を寄越した。

「ちょ、ちょっと!こんな大金もらえないって!」

「じゃあそれで無賃乗車した分の切符でも買ってください。元とは言え、勤務先の列車に無賃乗車というのは正直見逃せません」

「は!?待って!ねえ!」

私の呼びかけに一切反応せず、彼女は去っていく。
普段なら追いかけて札束を突き返すところだが、脚の負傷でベンチから彼女を見送るしかなかった。

彼女の後ろ姿と手に残った札束を交互に見る。

「………………え?社内結婚?」

あの車掌の笑い声が聞こえた気がした。





■クレア・スタンフィールドの場合

「クレアさん」

「だから俺はもうクレアじゃないんだって」

「……じゃあなんて呼べばいいんですか」

チックから借りた鋏を掌で転がしながらラックの呼びかけを否定すると、ラックがはぁと諦めたように溜息をついた。
「ヴィーノ」や「レイルトレーサー」と呼ぶのはどうにもしっくりこないらしく、ガンドール三兄弟は「クレア」と呼ぶのをやめない。
まあ、新しい戸籍を手に入れたら名前の問題も解消されるだろう。問題はその新しい戸籍をどうやって手に入れるかだが。

「手紙と荷物が届いてますよ」

ラックが指差した先には俺がフライング・プッシーフットに置いてきた私物が置いてあった。
瑞樹に預けた荷物だ。コレがここにあるってことは瑞樹が到着したということかと思ったが、ラックは今「届いた」と言った。

「これ、貴方のことでしょう」

鋏を置いて、ラックが差し出してきた手紙を受け取る。
手紙には『親愛なるレイルトレーサーへ』と書かれていた。
開封すると『ちょっと寄り道してきます。もしかしたら時間がかかるかもしれませんが、必ず戻ります』と日本語で書かれたメッセージカードが出てきた。

「誰からだ?」

ベルガがメッセージカードを覗き込むが、見慣れない言語を見て顔をしかめた。

「なんて書いてあんだよ、コレ。中国語か?」

「日本語だ。ちょっと寄り道してくるからこっちに来るの遅れるのってさ」

「もしかして、例の婚約者さんですか?」

「ああ」

「寄り道って、お前の婚約者はニューヨークに知り合いでもいんのか?」

知り合い、と言われて真っ先に思い浮かぶのは黒服を纏ったテロリスト達だ。
何人かの生き残りが川に飛び込んで逃げたはずなので、そいつらと合流しているのかもしれない。それか、リーダーであるヒューイ・ラフォレットを助けに行ってるのかもしれない。
どちらにせよ、一人で行かずに俺を頼ってくれればいいのにと歯痒かった。
列車で別れずに一緒に脱出すれば良かったと後悔しても遅い。

瑞樹があの鉄道会社に入社した時、社内は瑞樹の噂で持ちきりだった。多額の寄付金と共に入社した東洋人がいると。

人種差別の激しいアメリカで、東洋人がアメリカ人と同じ職場にいることは珍しかった。ガンドールみたいなマフィアだったら実力さえあれば国籍なんか関係無いこともあったが、一般的な会社、しかも事務職に黄色人種というのは異例だったし、何より「多額の寄付金と一緒に」ということが社内を騒がせた。
入社当初はどんなヤツかと車掌連中も何人か覗きに事務室まで行ったくらいだ。

そんな騒ぎとは裏腹に、入社してきた瑞樹は大人しく控えめで本人の言動自体は目立たない社員だった。
大して愛想があるわけではないがそれを補うように顔立ちは整っていたし、生真面目な勤務態度と優秀さから事務室の幹部達が瑞樹を重宝しだすのにそう時間はかからなかった。
多額の寄付金に関しては、瑞樹がこのアメリカで身寄りがないところを引き取ってくれた人が資産家である、ということを本人が言っていたらしいので、その資産家が瑞樹が黄色人種ということで差別を受けることを危惧して寄付をしたのだろうと皆適当に納得していった。

瑞樹と付き合うようになってから、車掌仲間には「女に振られ過ぎて自棄になってイエローモンキーに走ったか」と揶揄されたりもしたが(無論、しばらく口がきけないようにした)事務室の瑞樹の同僚達からは「あの子がNOが言えない子だからって無理矢理付き合ったんじゃないの!?」とか「泣かせたりしたら大陸横断特急から突き落とすから!」とか詰め寄られたりもした。
瑞樹は極度に自分の都合を通すことを控える。個人主義のアメリカでその性格は良い意味で浮いたらしい。
瑞樹は社内でいつの間にか人望を集めていた。

瑞樹の控えめな性格は「日本人の気質だ」と本人は言ってはいた。
俺もヴィーノとしての仕事の為に日本の技術を学んだことがあったので、日本人の気質については知識はあった。が、それにしても瑞樹の場合、気質というより何かを恐れているようだった。
その何かが何なのかが未だに分からない。

瑞樹はただの一般人ではないことは分かっていた。
瑞樹は俺がヴィーノだと知っていということは、多かれ少なかれマフィアとかそういう世界と接点を持った人間なんだということだ。
まさかテロリストだとは思わなかったが。
しかし、瑞樹とテロリストというものがどうにも結びつかなかった。そもそもテロを起こして瑞樹には何の利益があるのだろうか。
チャイニーズならともかく、極東の島国の人間がアメリカに来た理由は見当もつかないが、おそらく瑞樹は不法入国だろう。
入籍を先延ばしにされていることも、不法入国をしたことによってアメリカで入籍できるような戸籍がないのだろうと見当をつけていた。まあ、戸籍に関しては俺が新しい戸籍を手に入れるのと一緒にどうにか都合がつけば良い。

それよりも、送ってきたメッセージカードが日本語であることが気になった。
俺が日本の拷問を調べるのに日本語を勉強して読めることは瑞樹に前伝えたことはあるので俺宛の手紙が日本語であることは問題ない。
ただこのタイミングに日本語でメッセージを送ってくるということは、誰かにこの手紙を見られることを恐れたということだ。
まして、念を入れてか内容には具体的なことは一切書かれていない。瑞樹は誰にこの手紙を見られることを恐れたのだろうか。

列車でのことを思い出す。
シャーネという女と瑞樹は随分と親しげだった。職場の同僚の比ではないくらい。
あのシャーネに聞いてみるのもいいかもしれない。
瑞樹が何故アメリカに来たのか。何故テロ組織に居たのか。瑞樹は何を恐れているのか。

「クレアさん」

名前を呼ばれて意識が引き戻される。

「どうしたんですか。急に黙り込んで」

「いや……」

ラックの心配そうな顔を見て頭をかく。

「今まで付き合うにはどうしたらいいかを考えたことはあっても、付き合ってからどうしたらいいかを考えたことなかったなと思って」

俺の言葉にガンドール兄弟が顔を見合わせる。

「クレアさん、貴方随分と変わりましたね」

「あーそうだな。正直、俺も戸惑ってる」

「いよいよお前の婚約者と会うのが楽しみになってきたぜ」

「そりゃ良かった。きっとお前らも気に入る」

もう一度メッセージカードを見る。
何はともあれ『必ず戻ります』という文字が愛おしくてたまらなかった。

「俺のこと、ヒーローみたいって言ってくれた初めての子なんだ」

2017.08.25
拍手
すすむ