葡萄酒と運命9


「なかなかに動けるんですね。未来では何かスポーツでもしていたんですか?」

「……いえ。どちらかと言えばスポーツとかは苦手でした」

この時代のアメリカで生活し始めて判ったことは、東洋人の女は驚くほど不当な扱いを受けるということだ。
お店に行けば店員は私を見て顔をしかめる人もいるし、夜道では必ずといっていいほど絡まれる。歩いていたら肩をぶつけられて慰謝料を請求してくるという古典的な恐喝にあった時は流石に呆けてしまった。私の時代では古典的でもこの時代では最先端の恐喝方法だったのかもしれないなどとくだらないことを考えたのは、肩をぶつけてきた人達をシャーネが叩きのめした後だった。
とりあえず、男物の服を着ることでそういう事は多少緩和されたが、それでも身の危険が無くなりきったわけではなかった。この世界に来た当初は暴漢に襲われたし、何かあった時に対処できるようなりたいと考えるのは自然なことだろう。
そこから駄目元でシャーネに護身術程度でいいから体術やナイフの扱いを身に付けられないかと相談したら快諾してくれて今に至るわけだ。

垂れていた汗を拭う。私の目の前にいるシャーネは汗ひとつかいていない。
シャーネとの体力差はあって当然だ。問題は私の運動能力だ。簡単な組み手のようなものをしたが、なかなかに有り得ない動きを有り得ない速さでした気がする。少なくともこの世界に来る前の私からは想像できない動きだ。

「運動能力が向上したことの心当たりは?」

「……ありません」

ヒューイさんからの好奇な視線から思わず目を背ける。
これも女の悪魔によるオプションだろうか。
自分の身体が他人の身体のように思えて仕方がなかった。





***





年が明けた。

新年のお祝いに沢山の人で騒がしい街中を通り抜ける。
これだけ人が居れば一人くらい見つかるだろうと、きょろきょろと人ごみを探すと案の定目当ての人が見つかった。

「シャム」

「……瑞樹さん」

少し驚いた様子の男性に人気のない路地裏を指さす。
男性は頷いて私と一緒に路地裏に来てくれた。

「……やっぱり分かるんですね。俺のこと」

少し困ったように男性、もといシャムの一個体が聞く。
この世界に来て、英語が出来るようになったり、運動能力が向上したり、身体にいくつかの変化が起きた。
女の悪魔のおかげかと考えているが確かめる術はない。
そして、その変化のひとつかどうか分からないが、私はシャムとヒルトンの個体を識別出来た。

「なんとなく。ヒルトンも分かるよ」

「どうしてそれをヒューイさんに言わなかったんですか?」

「言ったら警戒されるし」

「……本当にやる気なんですね」

「うん。やるよ」

ヴィクターさんに戸籍を用意してもらった。クレアと結婚できるようになった。エルマーさんとも繋がりは出来た。これから会うガンドールさん達とも仲良くしたい。少しずつ、少しずつだが私はこの世界に居場所を手にし始めていた。

「ヒューイさんを止める。シャムだって考えてたんじゃないの?」

シャムは居心地が悪そうに眼を逸らした。
ヒューイさんは遠くない未来で大規模な実験を計画していた。というか、ヒューイさんは定期的に何か実験をしないと気が済まない質だ。その中でも今立案中の計画は今までにない規模らしい。詳細は知らないが、その為に「リズム」の人達が動いているのを知っている。

「危険ですよ。ヒューイさんが相手なんですから。俺の企みだって既にばれていてもおかしくないんです」

「それでもやろうって思ったんでしょ?シャムは。私もそうだよ」

大通りから聞こえる喧騒がやけに遠く感じる。
少し前まではこの世界のすべてがそうだった。
目の前で起こっていることなのに、自分自身のことなのにどこか遠くに感じていた。
だけど今は違う。

「私、この世界で守りたいものができたの」

「守れると思うんですか?」

「……手厳しいなあ」

返ってきたシャムの厳しい言葉にちょっと気持ちが揺らぐ。
私だって、ヒューイさんをそう簡単に止められると思ってるわけではない。というか、失敗する確率の方が高いだろう。ヒューイさんは私より何枚も上手だ。
だから私はエルマーさんに声をかけたのだ。
声をかけたといっても、「ヒューイさんを止めるのを手伝ってください」と直接的に言ったわけではない。ただ、関係を作った。今はそれでいい。ヒューイさんは今ヴィクターさんに捕まっているのだ。少なくとも今すぐには動けないだろう。ヒューイさんが捕まっている間、出来るだけ味方を増やす。力強い味方を。それが非力な私にできることだった。
もちろん、力強い味方を得るためには、その人達に味方になりたいと、なってもいいだろうと思ってもらわなくてはいけない。その価値が私にあるのかは正直自信ない。だからこそ、まずすべき事がある。
すっと息を吸う。真っ直ぐにシャムの目を見る。

「シャム、私の仲間になってください」

まず、すべき事は誠意を見せることだ。それが例え非力な私でも相手の為に出来ることで、最も大切なことの一つでもある。
私の目を見て、シャムは少し驚いたようだった。

「……本当に本気なんですね」

「うん。本気。だからシャムの助けが必要なの」

シャムを味方につけることが出来たらそれこそ百人力どころの話じゃない。情報網は一気に広がるし、場合によっては膨大な戦力にもなる。何より、ヒューイさんの行動がほぼ常に把握できる。
ヒューイさんに対抗する為に、シャムを味方につけるのは必須条件でもあった。

「分かりました」

思ったより簡単に返ってきた承諾に拍子抜けする。

「いいの?本当に?」

「誘ってきたのはそっちでしょう」

「まあ、そうだけど……」

「俺だって仲間が欲しいと思ったことが無いわけじゃないんですよ。何人も個体が居ても結局『シャム』という一つの存在です。不安になって、自分以外の誰かに相談したり、頼りに出来る人がいたりしたらいいなと考えたことだってあります」

「……そういうことを言える相手も今までいなかったんだね」

「察しが良くて何よりです」

シャムが弱ったように力無く笑う。
膨大な知識と情報を持っている彼も、私と変わらず一人が不安だったのか。
むしろ、膨大な知識と情報を持っているからこそ、私には想像もつかない不安なこともあったのかもしれない。だから私の誘いにのって、弱音まで吐いてくれたのだ。

会ったばかりの頃の彼はヒューイの指示を真面目に聞いているだけの存在だった。
職場の鉄道会社で私の監視兼護衛をしていることによって接点の多かった彼は、ある日を境に数がやたらと増えた。ヒルトンの数に対してあまりにもアンバランスなその数が気になって、それから彼のことをよく見るようになった。
同時期に私はヒューイさんに「ラミア」をはじめとする「ラルウァ」の面々を紹介された。私の護身術を向上させる為の組み手相手としてヒューイさんは紹介してくれたが、彼らはとても良い友人にもなってくれた。そのことから私はヒューイさんの作ったホムンクルスに対して興味を抱くようになった。それぞれどんな能力があるのか。どんな性質なのか。身体の造りは普通の人とどこが違うのか。
その過程でシャムについても色々調べた。その結果、どうにもシャムの個体の多さに関しては、ヒューイさんや「リズム」の意図の外にあるようだと確信を得ることが出来たのだ。

「それじゃあ、これからは仲間だね。運命共同体だ」

「運命共同体とかそういうこと言わないでくださいよ。貴女の旦那に殺されそうだ」

「……流石にそれは大袈裟でしょ」

「どうですかね。俺は貴女の職場で貴女の旦那に胸ぐらを掴まれたことを忘れていませんからね」

シャムがジト目で睨んでくる。
シャムは私の監視兼護衛をしていたので職場でジャムの個体の一つは私の上司だった。上司のシャムは特に職場で私を特別扱いするなどは無かったのだが、人目につかないところで話すことはよくあった。
しかし、人目につかないところで話していたのにも関わらず、クレアは私と上司シャムの接触をばっちり把握していた。
普段は大して接触のない上司と部下が人目を忍んで会っていたことから、セクハラを受けているのではないかと疑ったクレアが上司シャムの胸ぐらを掴んで詰め寄ったのだ。
結局、たまたま私がその現場を発見したことによってセクハラの誤解をその場で解くことが出来たのだが、あれ以来シャムはクレアに近付きたがらなかった。

「大丈夫だよ。……多分」

「多分ですか」

シャムのジト目から目をそらしながら言う。
まあ、部署が違うとはいえ、上司の胸ぐらを掴むクレアもクレアだからフォロー出来ない。
このままこの話題を続けても良くないと判断して、話題を変えた。

「シャム、生き残った「レムレース」の人達の居場所わかる?」

「分かりますよ。俺もいますし。「レムレース」の残党と合流して何をするんですか?」

「とりあえず、ベリアム議員のところに行く」





「ベリアム議員?」

スパイクさんが訝し気な声をあげた。

「本気ですか?我々は彼の妻子を人質にしようとしたんですよ。雇ってもらえるとは思えません」

リズと名乗った女性が眉間にしわを寄せた。
「レムレース」のメンバーで私が名前を知っていたのはグースと、かろうじてスパイクさんだけだったので、改めて自己紹介してもらったのだ。
その中でもリズさんは比較的「レムレース」に入ったのが最近らしく、ヒューイさんに対する忠誠心的なものはほぼ持ち合わせていないらしかった。勿論、私に対する敬意などもなく、先程から度々責めるような問い詰め方を私にしてきた。

「本気です。ヒューイさんの計画を止めるために、資金調達は必須です。その為にベリアム議員に取り入ります。テロに関しては私が前に立つことで大丈夫でしょう。彼の中では私はテロから妻子を守った人間ということになっているので」

「……」

リズさんは納得がいってないようだった。

「シャーネさんには本当に言わないんですか?」

「言いません。反対するどころか敵認定されるでしょうから」

「アンタとシャーネさんは仲が良いと思ってましたよ」

「仲良いですよ。でもそれとこれは別です」

はっきり言い放った私にスパイクさんは取りつく島もないと感じたのか肩を竦めた。

「私からも貴方達に質問してもいいですか?」

「レムレース」の生き残りのメンバーの顔を見回す。生き残り、且つ私と合流してくれたのはシャムの個体も合わせて六人だった。

「どうしてあの時私の指示に従ったんですか?」

あれだけいた「レムレース」の中から六人という人数はとても少ない人数だ。先程から黙って成り行きを見守っているシャムの個体を抜いたら五人だ。しかし、その少ない人数でも、五人も私と合流してくれる人がいたことが不思議で仕方が無かった。

「私はヒューイさんと違って貴方達に不老不死を与えられるわけではありません。お金も大して持ってないので報酬を支払えるわけでもありません。あの時、貴方達はグースに従い続け、状況が悪化したらそのまま逃げれば良かったのです。私に従うメリットなど無いのですから。それなのに何故私に従ったんですか?」

六人がそれぞれ顔を見合わせた後、スパイクさんが品のない笑みを浮かべた。

「メリットが無いわけじゃないぜ。アンタはヒューイの野郎にとって特別だったことは確かだからな。グースよりもアンタに付き従ってりゃあ、いつかはまたヒューイとの接触が持てるだろうと思っただけだ」

「……そこまでして不老不死が欲しいと?」

建前を捨てたスパイクさんの顔を見る。

「欲しくねえ奴がいるのかよ」

「いるでしょう。普通に」

「……」

即答で返した私にスパイクさんが奇妙なものを見るような目をした。
不老不死なんて手に入れたって幸せになれるわけではない。それはヒューイさんを始めとする彼ら不死者を見て感じたことだった。
不死者になった彼らが今最も恐れているのは不死者に食われてしまうことだ。不老不死になってまで、彼らは相変わらず死ぬことを恐れている。結局は何も変わりはしないのだ。
むしろ、老いて死ぬことがなくなった分、彼らは持てる人間関係が限られてしまった。そこから不死者は随分と孤独に見えた。ヒューイさんがホムンクルスを作ったり、いくつもの組織を作ったりしているのは実験の為だけではないのかと考えたこともあった程だ。
目の前の彼らがどんな過去を持って、どのような思想から不老不死を欲するかは想像もつかないが、不老不死になることで彼らの持つ望みが全て叶うとは到底思えなかった。

「私は、貴女に従う気持ちはありませんでした」

黙っていたリズさんが口を開く。

「以前の貴女はヒューイ師の陰に隠れ、庇護され、己の意志など無いように思えました」

そんな風に思われていたのか。
極力接触をさけていた「レムレース」の人達からどう思われているかなんて考えたことがなかったが、確か私は「レムレース」の前ではヒューイさんにピッタリくっついていたし、そう思われてもおかしくなかった。

「しかし、今こうして貴女と話してみて、その印象が変わりました。少なくとも私はこれから貴女に付き従います。例えヒューイ師と再び接触が持てなくても」

しっかりとした宣言だった。その場にいた「レムレース」の人達が、先程とは違った戸惑いの表情で顔を見合わせる。シャムは黙ったままだ。
正直一番戸惑っているのは私だった。今私が話した内容で、彼女が私に付き従いたいと思える要素が何かあっただろうか。しかし、そう思ってもらえたことは少なからず今の私の自信になった。

「私は強制することはしません。貴方達は「レムレース」のことも不老不死のことも忘れて、このままニューヨークで何事もなかったように生きていくことだって出来るのです。もう一度言いますが、私はヒューイさんのように貴方達に不死を与えられるわけではありません。協力頂けるのでしたらそれなりの報酬は用意するつもりですが、ヒューイさんの頃と比べたら雀の涙でしょう。何より、ヒューイさんに敵対するのです。貴方達が欲しかった不老不死は手に入らなくなります。一時間後に私はベリアム議員の元に行きます。それまでによく考えて、己の意志で決めてください」

戸惑ったままの顔も残る六人を置いて、私は先程寄った病室に戻った。





「失礼します」

ノックをして病室に入るとその場にいた人達が一斉にこちらを見た。
僅かだが、私を警戒している人もいるようだ。
ベッドにいるジャグジーさんに声をかける。

「怪我は大丈夫ですか?ジャグジーさん」

「あっはい。そんな大したことなので大丈夫です」

「すいません、ご迷惑おかけして……」

「そそそんな!瑞樹さんが謝ることじゃないですよ!」

ぶんぶんと手を振ってジャグジーさんが慌てる。ジャグジーさんの警戒心の全くないその行動のおかげで、私に警戒心を抱いていた人達の顔が少し穏やかになった。ほっと肩の力を抜いて病室の入り口付近にいたシャーネの傍に寄る。
シャーネは私の顔を見てちょっと安心したように微笑んでくれた。ジャグジーさんのベッドの傍に座っていたニースさんが私達の顔を交互に見る。

「瑞樹さん達は、これからどうするんですか?」

「私は婚約者と合流します」

「婚約者ってあのレイルトレーサーの?」

「レレレレイルトレーサー!?痛!?」

「だ、大丈夫ですか?」

ニースさんの言葉で慌てたジャグジーさんが頭をベッドの縁に打ち付ける。
なかなか鈍い音がしたのでたんこぶとか出来てそうだな。ジャグジーさんはいつもこんな調子なのだろうか。それなら生傷が絶えなそうだ。
余程痛かったのか、涙目で頭をさするジャグジーさんが落ち着くのを待ってから話を続けた。

「本当は列車降りたらすぐ合流する予定だったのを勝手に出てきたんです。一応、手紙は送っておいたんですが、あんまり遅いと向こうから探しに来ちゃいそうですし」

クレアはじっと待っているタイプではない。むしろ落ち着きなく動き回っているタイプだ。手紙を送ったといっても、長くは待っていてくれないだろう。ガンドールさんからの依頼を済ませたらすぐにでも私を探し始めてもおかしくはない。

「……愛されてるんですね」

「えっ」

ニースさんから『愛』なんて予想外の大層な言葉を聞いて思わず声が出る。かあっと顔が熱くなった。

「そ、そんなんじゃないですよ。ただあの人がじっと待っているタイプじゃないんです」

「……」

先程のジャグジーさん程ではないが慌てて否定する私をシャーネがじっと見る。ちょっと不機嫌そうなのは気のせいだろうか。

「しゃ、シャーネはどうする?私と一緒に来る?」

「……」

シャーネがじっと私を見続ける。何か考えているようだったが、不機嫌そうな表情はそのままだ。

「あ、あの……、シャーネ?」

「あの、シャーネさん、良かったら僕達と一緒に来ますか?」

「ジャグジー?」

シャーネからの視線に居心地が悪そうに身じろぎした私に、ジャグジーさんが提案をしてくれた。ニースさんが驚いたようにジャグジーさんの名前を呼ぶ。

「あ、いや。新婚さんの家にお邪魔するのもちょっと気を遣うかなって思ったんだけど……。余計なお世話だったかな?」

「……」

この提案にはシャーネも驚いたようだった。
確かに、言われてみればそうだ。深く考えることなくシャーネを誘ったが、新婚の家というのはシャーネも気を遣うかもしれない。それにクレアに相談もせず決めるのは良くないだろう。
ジャグジーさん達は会って間もないが、とても良い人達だと思う。あの列車でも危険を顧みず一般乗客を守ってくれたし、ジャグジーさんはグースにも怯まず挑んだ人だ。それに彼らはなかなかの大人数で行動しているようだから、おそらくこのニューヨークでも寝食の当てはあるのだろう。それならシャーネのことを頼んでも大丈夫だ。

「どうする?シャーネ」

「……」

シャーネは私の目を見る。迷っているようだったが、しばらくしてこくんと頷いた。

「じゃあ、シャーネをよろしくお願いします」

なんだか妹の面倒を頼む姉のような気分だった。





「……全員ですか」

驚いた。「レムレース」の生き残った人達は六人全員が私についてきてくれるとのことだった。
正直、シャムはともかく、先程宣言してくれたリズさんですら「やっぱりやめます」と言い出すのではないかと思っていたのだ。

「この不景気、新しい仕事を探すのも一苦労だしな。世話になりますよ、瑞樹様よぉ」

もうすっかり建前のなくなったスパイクさんが品なく笑いながら言うので、苦笑しながら釘を刺した。

「様はやめてください」





「貴様がいればヒューイ・ラフォレットを封じ込めることができると?」

封じ込めるって悪霊じゃないんだから。
どうやらベリアム議員は私の予想以上にヒューイさんのことを嫌っているらしい。私が教えたヒューイさんの情報にかなり関心を示してきた。私とヒューイさんとの関係性を話す過程で、私は列車テロを起こした組織の一員だと正直に話しても彼は大して問題視しなかった。
彼からしてみれば、200年前から存在している不死者達は亡霊みたいなものなのかもしれない。その中でもヒューイさんはとびっきりの悪霊だろう。そうなってくると「幽霊レムレース」なんて組織を作ったのはヒューイさんの皮肉にしか思えなかった。
その「レムレース」人達はシャムの個体を除いて置いてきた。流石に妻子を危険な目に合わせた人達と一緒では話どころではなくなると思ったからだ。かといって、一人では不安だったので、シャムにだけついてきてもらった。そのシャムは今部屋の外で待機している。

「いずれ彼は牢の中から出てくるでしょう。脱獄した彼のしようとすることはある程度予想がつきます。ですから、そこから先回りして彼の実験という名の一般人を多く巻き込むような計画を潰すことは不可能ではありません」

「口でならどうとでも言えるがな」

高圧的な物言いにムッとする。これで相手がヴィクターさんだったのなら噛みついていたところだが、議員相手にそれは出来ない。それにヒューイさんの計画をほぼ確実に潰せる確信があるわけではない。議員の言葉は正直図星だった。

「まあ、良いだろう」

「へ?」

「なんだ。不満でもあるのかね」

「い、いいえ……」

やはり、ベリアム議員に取り入るのは無謀だったかもしれないと思い始めた頃に彼が承諾の意を示した。
シャムといい、ベリアム議員といい、私の誘いにそんな簡単に乗ってきてくれるのは有り難いがどうにも上手くいき過ぎて逆に不安になる。

「貴様を信頼したわけではない。しかし、ヒューイ・ラフォレットに関する情報が乏しいのは事実だ。貴様の言うことが全て偽りのない真実なら、貴様はヒューイ・ラフォレットの記憶の一部を引き継いでいるのだろう。それは我々にはないものだ」

どうやら私が話したヒューイさんの記憶というものに興味を抱いてくれたらしい。自分では喋りすぎたのではと思ってしまう程、ヒューイさんと私の間であったことをべらべらと議員に話したが、それが功を奏したようで良かった。ほっと胸を撫で下ろす。

それから色々条件の話をしてとりあえず今日のところは帰ることになった。議員はあの列車の事件をもみ消すのに昨夜から色々手を回していて、家族との時間が取れなかったらしく、これから家族と新年のお祝いをするのだそうだ。夫人とメリーちゃんのことを思い出して申し訳ない気持ちになる。

かけていたソファから立ち上がり、扉に近づくと扉の傍に立っていた男性が開けてくれた。

「ありがとうございます」

お礼を言って通り過ぎようとした時だった。

「……っ!」

キィンと金属音を響かせて首筋に向けられたナイフを弾く。

「実力は本物のようだな」

背後からベリアム議員の声がして、それが仕掛けられた事だと理解する。
危なかった。あと少しでも反応が遅れていたら首を撥ねられていた。ぎちぎちと私が首の前に構えたナイフに自分のナイフを押し付ける男を見る。

「もういい。フェリックス」

フェリックスと呼ばれた男性が議員の言葉でナイフを引いた。数秒ナイフを構えたままフェリックスを見つめるが、もう殺意はないらしく、フェリックスは私に恭しく一礼した。

無言でその場を離れる。
列車に乗るまで、護身術やナイフを実践で活用したことがない平和な日々を送っていた私が殺意に反応して身構える日が来るなんて夢にも思っていなかった。しかし、ベリアム議員の元で今後動くならこれが日常となるのだろう。私がやろうとしていることはそういう事だ。
この日常に慣れる日が来るのだろうか。自信が無かった。

バタンっと背後で扉が閉まる。
ぷはっと詰めていた息を吐いた。

「大丈夫でしたか?」

「……大丈夫。今度からはもっとちゃんと調べてからこういうことしよう」

扉の前で待機していたシャムの言葉に首を摩りながら答える。
死ぬかと思った。いや、死なないけど。
ベリアム議員があんな人雇ってるなんて思わなかった。下調べの雑さがもろに出たな。今度からは交渉事を行うときは事前にシャムに徹底的に調べてもらおうと心に誓って帰路についた。

列車に乗ってから今日に至るまで、私は今までにない行動力を発揮したと思う。こんなにも一人で考えて、こんなにも一人で動いたのはこの世界に来て初めての事だった。
帰路を進む足が自然と早くなる。

早くクレアに会いたかった。

2017.09.12
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