◆ ◆
お嫁にいけない。
前をあけられたブラウスを胸にかきよせながら、半ば絶望のなかで私は思った。はしたなく乱れた姿を、おとこのひとに見られた。もう、お嫁にいけない。どうしよう。お父さん、お母さん、ごめんなさい――。
「――く、くにちか、しぬ」
呆然として真っ白になっていた頭にかすれた声が届き、私は意識を取り戻した。そして目の前の光景に思わず叫んだ。
「ゆ、ゆうちゃん! ストップ、ストップ! その人死んじゃう!」
ソファから飛び出して、ヒゲの男の人の首をしめる柚宇ちゃんを引きはがす。柚宇ちゃんは首をしめることこそやめたものの、今度は「太刀川さんなんか死んじゃえ〜!」と泣きながら殴りかかっている。
「痛い、痛いです、国近サン」
「太刀川さんのバカ〜! ヒゲ〜!」
「痛っ、ヒゲ抜くのはやめろって」
「ゆ、柚宇ちゃん、痛がってるし、それくらいにしてあげようよ」
とまどいながら仲裁に入ると、柚宇ちゃんは「タチカワさん」を叩くのをやめて私に抱きついた。
「えーん園希〜! 太刀川さんが、太刀川さんが〜!」
「うん、わかったから、わかったから、ね? 柚宇ちゃん、ちょっと落ちつこう?」
子どものように泣く柚宇ちゃんの背中をとんとんとやさしく叩いて、頭をなでてなだめる。衣服の乱れた私に、殺されかけた男性、泣く柚宇ちゃん。地獄絵図、という言葉が頭をよぎったけれど、深く考えることはやめにした。たぶん、ここは柚宇ちゃんを泣きやませることに専念したほうがいいだろう。
「あー、マジで死ぬとこだった……――ん? もしかしてあれか、おまえが噂の『園希』って子か?」
かすれた声に、私の肩がびくりと跳ねる。おそるおそる視線を向けると、喉をなでる「タチカワさん」と目があった。一瞬だけ視線を交わして、私はすぐに目をそらして小さな声で名乗った。
「あの、はい、はじめまして……桑染園希、です。お邪魔しています」
「おー、国近から話は聞いてる。ふうん、あんたが『園希』か」
こくりとうなずいて、柚宇ちゃんに抱きつく。値踏みをされているのがわかった。さっき視線を合わせた時の、鋭い目つきを思いだしてこわくなる。
「ゆ、ゆうちゃん……」
すがるように名前を呼ぶと、私に抱きついて泣いていた柚宇ちゃんがバッと顔を上げた。「太刀川さん! 園希のことこわがらせないで!」
一瞬前まで泣いていたというのに、今度は怒っている。ジェットコースターのような速度と起伏で変わる柚宇ちゃんの態度に、私と「タチカワさん」はとまどう。
「なんだよ急に。恐がらせたつもりはないぞ」
「そ、そうだよ柚宇ちゃん、私は大丈夫だから……」
「太刀川さんにそんなつもりはなくても、園希が恐がってるの!」
「そうなのか?」
水をむけられて、ぐっと言葉につまる。場をおさめるために大丈夫だと言ったものの、こわいと思ったのは確かだ。答えられずにだまってしまった私に「ほらー!」と柚宇ちゃんが「タチカワさん」を責める。
「あー……なんか悪かったな。園希チャン」
ぽりぽりと頭をかいたタチカワさんが、首をすくめるようにして頭をさげた。目つきがこわいと思ったけれど、根はいい人なのだろう。少しだけホッとして、緊張がゆるむ。
「あの、こちらこそすみませんでした……。柚宇ちゃんも、もうタチカワさんのこと、怒らないであげて。ね?」
私は気にしてないから、と言い聞かせてようやく、柚宇ちゃんはしぶしぶながら怒りをしずめてくれた。
「……あらためて紹介するね。園希、この人が太刀川さん。ボーダーで、私の所属している隊の隊長をやってる人」
「太刀川慶だ。よろしく」
「で、太刀川さん、この子が園希。私のだーいすきな子だから、いじめないでね」
「桑染園希です、よろしくお願いします……」
大好きな子、という紹介にはずかしくなって、太刀川さんにきちんと顔を向けることができなかった。赤くなっているだろう顔をかくすようにうつむく。
「じゃ、あいさつもしたことだし俺は一旦退散するか」
用事は済んだとばかりにこの場から去ろうとする太刀川さんに、彼が現れる直前までのできごとを思いだして全身が熱くなった。思わずその場にしゃがみこんで、身体をかくす。すっかりわすれていたけれど、そうだった。私はあられもない姿をこの人に見られたのだ。思いだすだけで発火しそうなほどはずかしくて、できるものなら今すぐ消えてしまいたい。
「……国近、園希チャン、ちょっとかわいいな」
「でしょ〜!? ちょっとじゃなくてすっごくかわいいんだからそこは間違えないでほしいんだけど、やっぱり太刀川さんにもわかる!?」
「なんつーか、素人くさくていいな」
「例え方が下品! 園希はウブなの〜」
柚宇ちゃん、太刀川さん、お願いです。当人を置いてきぼりにして盛り上がらないでください。うらめしく思いながら、私はますます小さくうずくまる。
「国近、国近」
「なに? 太刀川さん」
「ちょっと耳」
なにをこそこそ話しはじめたのかわからないけれど、その隙に私はいそいでブラウスの前ボタンを留めた。本当はホックを外されてごわついているブラジャーも直したいのだけど、露骨すぎてそこまではできなかった。太刀川さんが一旦この場を外してくれるなら、そのときに直せばいい。それまでの辛抱だ。
話はまだ終わらないのかとちらりと顔を上げると、柚宇ちゃんと太刀川さんは交互に耳元へ口をよせながら、なにかを相談しあっているようだった。
どうしたものだろうか。あいだに割ってはいることもできずに困っていると、二人が同時に私のほうへ目をむけた。わずかにたじろいでしまう。
「えっと……どうしたんでしょう……?」
「う〜ん、園希がいいって言うならいいけど……」
「いいって言わせないと、お前がもったいないぞ」
「私がどうかしたの……?」
じっと私を見つめる二人が、私のことについて話をしていたことはわかった。それはわかったけれど、肝心の内容まではわからない。二人の四つの瞳にじっと見つめられると、居心地が悪い。右に左に視線を動かして戸惑っていると、柚宇ちゃんが私の前にぺたりと座りこんだ。
「ねえ園希」
「なあに、柚宇ちゃん……」
まじめな顔をした柚宇ちゃんに身構える。なに、どうしたの。私の不安を感じとったのか、柚宇ちゃんが手をにぎってきた。やわらかくてあたたかい手に、少しだけ肩の力が抜ける。
「あのね――さっきの続き、してもいい?」
気がゆるんだ瞬間を狙いすましたように投下された爆弾に、私の気ははるか遠くへ逃げだしてしまいそうだった。
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