◆ ◆
ボーダー本部は、いつもにぎわっている印象だ。とくにこの時間帯は、学生が多い。学校を終えた隊員が訓練におとずれるからだ。一週間ほどまえにも出向できていたけれど、活気があるほうが気がまぎれてよかった。
近頃は、本部にばかり顔をだしていた。以前なら、用がなくてもいくくらい玉狛に入りびたっていたけれど、いまはむしろ、いづらい場所へとなっている。玉狛は、迅さんと顔をあわせやすいところなのだ。
栞ちゃんに泣きついた翌日、陽ちゃんのおむかえのお礼もかねて、シュークリームを買って玉狛へいった。ドアをあけてなかに入ると、すぐに陽ちゃんがでむかえてくれて「どうしてきのうむかえにこなかった!」としかられた。ごめんね、とシュークリームを見せたらすぐに機嫌をなおしてくれてほっとしていると「おれにもくれよ」とうしろから声をかけられて、心臓がとびだすほどにおどろいた。
ふりかえるとそこには迅さんがいて、にやりとわらったのだった。いきなりのことと、さけられているのではないかという疑念をだいていることで動揺していると、迅さんは「なんだかひさしぶりだな」と言って、わたしの頭をなでた。ふれられている、ということがはずかしくて、でもとびあがりそうなくらいうれしかったのに、見おとしてしまいそうなくらいかすかな違和感がぬぐえなくて、わたしは素直によろこべなかった。
それでも、オペレータールームのほうにいた栞ちゃんと、戦闘訓練をしていたレイジさんと千佳ちゃん、桐絵ちゃんと遊真くん、とりまるくんと修くん、全員でシュークリームをほおばった。そのときの迅さんにおかしなところはないように思えたけれど、くもりガラスでは完全に物陰をかくせないように、どこかがぎこちなさがあるように思えた。
でも栞ちゃんには依然と変わらずうつったようで「このところ迅さんはいそがしかったみたいだし、それでさけられているようにかんじただけだよ」と言われて、わたしにはかえす言葉が見つけられなかった。
それでもやっぱりおかしなかんじがする、と言ったって、きっと栞ちゃんをこまらせてしまうだけだということもわかっていた。第三者から見て変わったところがないのにだだをこねるように食いさがったって、自意識過剰ではないと言えるだけの根拠がないのだから。さけられているとかんじているのはわたしだけで、それはいわば「勘」でしかない。
それ以来、わたしは極力玉狛に滞在しないように心がけていた。さびしくない、と言えばうそになる。でも、ぬぐえない違和感でうたがいをもったまま玉狛にいるほうが、もっとずっと、くるしかった。
思いだせばどこまでもしずんでいくような気がする。ランク戦に参加して勝ちこせれば、すこしはすっきりしたかもしれないのに。つながりを切らないためというかのように、玉狛のトリガーだけをもってきていた自分に後悔をした。
でもこの時間なら、米屋くんがいるかもしれない。玉狛のトリガーと本部のトリガーでは規格がちがうからランク戦はできないけれど、ポイントが動かない模擬戦なら大丈夫だろう。槍バカと呼ばれるほど戦闘好きなところのある彼なら、さそえばよろこんでつきあってくれるはずだ。
連絡をとってみよう、と肩からさげたスクールバッグのファスナーをあけると、ロビーの端のほうから、ざわついた気配がただよってきた。なんだろう。鞄に手を入れて携帯電話をさがしながら、ゆれる空気のほうへ視線をむける。
原因は、すぐにわかった。奥から歩いてくる人物たちは、ここボーダー本部で有名だからだ。
A級一位、太刀川隊。個人ランク一位のアタッカーと、天才シューター――癖のある茶髪にあご髭をたくわえた青年と、クリーム色の髪の少年――太刀川慶と、出水公平だ。チーム一位、個人一位ともなると、認知されないほうがむずかしい。
ふたりはなにかを話しながら、こちらへ歩いてくる。わたしは近づいてくる彼らを見ながら、ぴったりと動きをとめていた。
ふっと、太刀川さんと話していた出水くんが、こちらを見た。磁石のS極とN極がくっつくように、視線があわさる。出水くんの口が、まるくひらく。
「――あ」
まだ遠いのに、出水くんがつぶやいた声が聞こえた気がする。その様子を見て太刀川さんもわたしのほうをむき――視線がつながった瞬間、わたしと太刀川さんは同時にかけだした。太刀川さんは、わたしのほうへ。わたしは踵をかえして、太刀川さんがいる方向とは逆へ。
我ながら、最高の反射速度だったと思う。A級一位、太刀川慶に引けをとらない反応だったのではないだろうか。けれど、いまはそんなことに思いをめぐらせている場合じゃない。
「すみません――すみません! とおしてください!」
有名人の出現であつまりだしていた隊員をかきわけて、とにかくできるだけ遠くへと足を動かす。太刀川さんから、できるだけ遠くへ。
「桑染! 逃げるな! 待て!」
うしろから、おおきな声がわたしを呼ぶ。無理です、待てません。逃げます。心のなかで返事をして、わたしは本部の出口を目指して人の隙間をぬって走る。
「すみません、どいてください! すみません!」
中学生くらいの子たちと危うくぶつかりそうになったところ、無理やりに体をよじって回避する。減速してはだめだ。追いつかれてしまう。
「桑染!」
背後からの声が、さっきよりも近い。それもそうだろう。A級一位の太刀川さんだ。彼が道をあけろと言えば、モーセの十戒のごとく人波がわれるだろう。でもわたしは、本部では影のうすい玉狛支部の隊員だ。わたしのことを知っている人は、入隊が同期の子か、おない年の子か、その他一部の人だけだ。太刀川さんが無名の隊員を追いかける理由が知りたいくらいだろう。わたしは走る速度をあげた。
「すみません、とおしてください!」
目だつはずかしさをこらえて、さけんでいると「だれでもいいからそいつをつかまえろ!」おそろしい命令が聞こえてきて、血の気が引きそうになった。ここはボーダー本部。わたしは玉狛支部。知りあいもすくない。つまりまわりはみんな太刀川さんの味方のようなものだ。
「こないでください太刀川さんッ……!」
「おまえが逃げなければいい話だろ!」
「追いかけてくるから逃げるんです! こわいんですよ!」
うしろをふりむかず、たちどまらず、速度をおとさず叫ぶ。太刀川さんの気配は、すこしずつ近づいてきている。「そいつをつかまえろ!」と太刀川さんが怒鳴っているけれど、さいわいなことに、まわりにいる隊員たちはみんな状況がわからずとまどっているらしく、わたしの確保に乗りだす人はまだいない。
それでも油断はできない。いつだれが、太刀川さんの言うことを素直に聞いてわたしを拘束しにかかるかわからない。いまのうちに本部をでてしまおう。外にさえでられれば、わたしの勝ちなのだ。トリガーを起動して一気に警戒区域ぎりぎりのところまでとべば、玉狛への避難が確定したも同然だ。
ロビーからエントランスへとぬけると隊員はまばらになり、ぶつかるおそれがないわたしはますます全力をふりしぼる。足がおそいわけではないけれど、太刀川さんから逃げ切れるほどはやいわけでもない。なにごとかとむけられる視線を引きちぎりながら、制服のポケットにしのばせていたトリガーをとりだす。
「桑染!」
「ごめんなさい!」
あと、十数メートル。扉をぬければわたしの勝ちだ。勝ちを確信したそのとき、ボーダー本部の正面出入り口、分厚い扉が勝手にひらいた。
「うおッ、なんだ?」
「――よ――」
とうとつに人があらわれた。心臓がとまりそうなほどおどろいたけれど、フルスロットルでかけている足はとまれない。
「米屋! そいつをつかまえろ!」
――まずい。あらわれた米屋くんをよけている余裕がない。太刀川さんはもう背後までせまっている。彼を回避しようと減速をしたりしたら、脱出目前でつかまることになってしまう。
「米屋くんよけて!」
彼がよけてくれることに賭けて、わたしは減速するどころか背後の鬼をふり切る思いで突撃する。
もう、のこり数メートル。「米屋くん!」わたしはさけんだ。このままではぶつかってしまう。「え、なにこれ、どうしたんだよ桑染と太刀川さん」米屋くんは余裕そうに扉のまえにたちふさがっている。どうしてどいてくれないのだ。このままではぶつかってしまう。――もう、だめ、だ。
「よけて!」
車が急にはとまれないように、人だって急にはとまれない。わたしはぎゅうっときつく目をつぶり、米屋くんにむかって――つっこんだ。
「――ッ!」
どすん、とにぶい衝撃とともに、一瞬平衡感覚がくるう。
「――ッてぇ……」
かたいのにやわらかい感触が、わたしのしたでちいさくうめいた。はっとして、はじかれたように身を起こす。
「よ、よねやくん、ごめ――」
「……と、思うじゃん?」
「……え?」
下敷きにしちゃってごめん、怪我はない? つづけようと思った言葉は、わたしにおしつぶされたままにやりとわらった米屋くんの表情を見て、うしなわれてしまった。
「太刀川さん、これでいーの?」
「――え、あ、え……?」
上半身を起こした米屋くんが、がっちりとわたしの手首をつかんだ。あ――まずい、かも。低速で動く脳が、状況を理解しはじめたところで、
「よくやった、米屋」
頭上からふってきた声に、かちんと身体が硬直した。
「なにやってたんすかふたりで。本部で鬼ごっこなんかしてるのバレたらおこられますよ」
「こいつが俺の顔見るなり逃げだすのがわるいんだ」
「ぶっは! きらわれてる!」
「ちがう。きらわれてなんかいない。なあ? 桑染」
頭上と、眼前。A級一位の隊長と、同級生でA級五位の隊員ふたりから、たずねるような視線をむけられる。
「――は、はなして……!」
「うおっと」
「米屋、逃がすなよ」
本部の正面出入り口まえですわりこんだまま、つかまれた手首をはなしてもらおうと身をよじるけれど、がっちりしっかりおさえこまれて、わたしの力では逃げだせそうにない。
「――あっ!」
「これでもう逃げられないなあ」
なんということだろう。にぎったままだったトリガーを、太刀川さんにうばいとられててしまった。
「か、かえしてください!」
「いやだって言ったら?」
「かえしてくれないと、こまります!」
「ふうん。どうしようかな」
米屋くんに拘束されて動けないわたしの鼻先で、太刀川さんがトリガーをちらつかせる。意地のわるいわらい顔だ。
「はなして、米屋くん……!」
「わるいな桑染。おもしろいほうに五千ポイントだ」
「気があうな、米屋」
こんなところで意気投合なんかしなくていい。かえしてはなして、と口でうったえてももがいても、わたしの懇願は聞き入れてくれそうにない。ふたりともにやにやとわらうばかりで、意地がわるい。
ここしばらく、本部で太刀川さんに会うことがなかったからすっかり油断していた。もっと気をつけていれば、こんな目にあうこともなかったはずだ。見つかればどうなるかくらい、なんとなく予想はついていたのに。
――いや、そもそも、だ。玉狛をさけるようなことをしたから、こうなったのではないのか。本部出向はこのあいだで終わった。わたしがここへこなければならない絶対の理由はないのだ。それを、迅さんを、さけるようなことをしたりするから。
泣きっ面に蜂、とはこのことだろうか。踏んだり蹴ったり、かもしれない。そう思うと途端にむなしくなって、わたしは抵抗するのをやめて脱力した。
「桑染?」
「どうした」
空気のぬけた風船のようにしぼんだわたしの顔を、米屋くんと太刀川さんがのぞきこむ。見ないでください、と拒む言葉もでてこないわたしは、なにもこたえずにただうつむく。
「おい米屋、こいつ泣いてないか」
「は? え、マジ?」
「おまえとぶつかってどこかひねったんじゃないのか」
「いや、太刀川さんが鬼の形相で追いかけてくるからビビったんでしょ」
わたしをおいてけぼりにして、ふたりが好き勝手なことを言う。べつにわたしはどこもいためていないし、太刀川さんに追いかけられるのはいやだけれど、泣くほどおびえたりはしない。ていうか、泣いていない。まだ、泣いて、いない。
「おい、マジかよ、桑染」
「米屋、どうにかしろ。いますぐ泣きやませろ」
「オレに全部投げんすか! 太刀川さん仮にもA級一位でしょ!」
「A級一位だったらなんでもできると思うなよ。俺は明日の単位も危うい身だ」
えらそうに言うようなことじゃないです、太刀川さん。勉強してください。忍田さんがかなしみますよ。つっこみたいのに、口をひらいたりしたら涙がこぼれてしまいそうで、わたしは唇をきつくかみしめた。
どうにも神経が繊細になりすぎているらしい。思ったよりもわたしは、まいっていたのだろう。こんなところで、太刀川さんと米屋くんのまえで泣いたってふたりをこまらせるだけなのに、もう限界を超えそうだった。
玉狛にもどりたい。迅さんと、まえみたいに、ちゃんとしゃべりたい。――そう思ったときだった。
「太刀川さん、槍バカ」
「出水――と」
「迅さんじゃん」
うしろから聞こえた第三の声と、それに反応して米屋くんが呼んだ名前に、わたしはひゅうと息を飲んだ。
「太刀川さん、本部でさわぎ起こすのやめてくんないすか。また忍田さんと沢村さんにおこられますよ」
「さわいだつもりはないぞ、出水。それより迅、おまえが本部にきているなんてめずらしいな」
「おれだってたまには本部にくるよ。女の子もいっぱいるしね」
動けないわたしは息をつめたまま、石になったように固まっている。できるだけさけていたから、まさか本部で会うなんて思ってもいなかった。まえみたいに迅さんと話したいと思ったはずなのに、いざとなってみると、どんな顔をすればいいのかわからない。
「米屋、手をはなしてやってくれない? 太刀川さんも、トリガーかえしてやって」
背後でたちどまったふたつの気配のうちの一方が、そう言った。うつむいて顔をあげることはできないけれど、声音はやさしいものだった。――それなのに。どうして、どうしてこまったようなひびきもあるの?
米屋くんは、わたしの手をまだつかんでいる。太刀川さんもわたしのトリガーをとりあげたまま、だまっている。トリガーはかえしてほしいけれど、はなさないでほしかった。つかまったままでいれば、それを言い訳に、迅さんから逃げられるような気がして。
「いやっす」
「いやだ」
わたしの願いがつうじたのか、米屋くんと太刀川さんは、打ちあわせをしたようにほとんど同時にそう言った。
「桑染をはなしてほしかったら、ランク戦してよ、迅さん」
「そうだ。おまえがランク戦をしてくれるんなら、桑染にトリガーをかえしてやる」
「ずりいぞ、槍バカも太刀川さんも! 迅さん、おれともランク戦!」
「やっぱりこうなるか……」
迅さんが、ふかいふかいため息をついた。きりきりと胸がしめつけられる。迷惑をかけているということに、泣きそうだった。これ以上、きらわれるような――さけられるようなことを、したくないのに。
「ひとり三本ずつでいいかな」
「十本だろここは。ケチケチするな」
「十本勝負を三人とやったら日が暮れるって。三本で妥協してくれ」
「オレは迅さんとやれるなら三本でもいーよ」
「俺も。迅さんとやれるなんてそうそうないからな」
「米屋と出水もそう言ってるし、たのむよ太刀川さん」
本人をよそに、わたしを取引として三人は勝手に話をすすめていく。
「わかった。そのかわり、のこりの七本はまた今度だからな」
「あ、やっぱり十本はやるんだ……」
「はは! 弾バカの隊長はランク戦バカだな」
「おまえだって槍バカだろ」
「――と、言うことだから」
迅さんのまとめで、つかまれていた手が解放された。うばわれていたトリガーも、目のまえにさしだされる。のろのろとあげた手はおもかった。
「桑染、わるかったな」
「おかげで迅とランク戦ができる。感謝するぞ。おまえとやるのはまた今度だ」
「もしかして、桑染見るなり追いかけていったのは勝負するためだったんすか?」
「なに、太刀川さんがすごい形相で桑染を追いかけていた理由って、バトるのが目当てなわけ?」
「そうだ。こいつのトリガーおもしろいだろ? だから模擬戦をさせろって言ってるのに、なんでかきまって逃げるんだよな」
「うわあ……太刀川さん、それいやがられてるからだって。桑染もドンマイだな」
「――……桑染、たてるか」
わたしをよそにやいやい言いあう三人をよそに、正面にまわりこんだ迅さんの影が、おちる。つかまれ、とばかりにさしだされる、手。以前なら、なんのためらいもなく、この手をにぎったはずなのに。本当に、どこでまちがってしまったのか。
「――……ありがとう、ございます。だいじょうぶ、です」
ちいさくつぶやいて、わたしは迅さんの手を借りずにたちあがった。やさしさをはらいのけるようで、くるしかった。でも、この手にたよることは、もうできそうになかった。
制服を手ではらって、ほこりをおとす。「さきいってるぞ、逃げるなよ」と気がはやい太刀川さんがランク戦のブースにむかう声がする。迅さんのほうをまっすぐ見れないわたしは自分の爪先を見つめたまま、たちつくしている。なにか言ってほしいだなんて、あまりに都合がよすぎるだろうか。
「……米屋と派手にぶつかったみたいだけど、怪我はしてないか?」
「……だいじょうぶ、です」
「太刀川さんには、おれからも言っておくから」
「……ありがとう、ございます」
「……あー……」
間をつなごうと迅さんが発した声は、結局無言に吸いこまれてしまった。きっと、わたしがさけていることは、気づかれている。いままで迅さんとむきあっても、こんな態度をとったことはないのだ。
そもそも「迅さんにさけられている」というわたしのうたがいは、あくまでうたがいであって、確定したわけではない。だから、それが勘ちがいだったとしたら、迅さんも、わたしにさけられる理由に身におぼえがないことになる。露骨にさける態度をとることは、無闇に迅さんをとまどわせるだけなのだろう。けれど、もう、疑心暗鬼でぐちゃぐちゃになっているわたしは、なにが正しいふるまいなのかがわからない。いまだって、やさしくされて心配されているのに、迅さんから疑念をぬぐえないままなのに。
「……最近、玉狛に顔ださないな」
「……そんなこと、ないです。非番の日は、ご飯、作ってます」
「……そうか。そうだな」
いたたまれなかった。おたがいぎこちない空気に気がついているはずなのに、それにふれずに話をつづけようとすることが。迅さんと話すのは、もっと、もっとたのしくてうれしかった、はずなのに。
そう思ったら、もうだめだった。鼻の奥がつんとして、涙がもりあがってくるのがわかった。泣いてしまう。それだけはいやだ。それだけは、だめだ。
「――みんなに、よろしくおねがいします。わたし、きょうは、かえります」
早口でそう言って、ちいさく頭をさげる。助かったことに、出口はすぐそこだ。本部からでてしまえば、いくら泣いたってかまわない。
「――……」
なにか言われるだろうか、と思ったけれど、迅さんはなにも言わなかった。逃げるように外へとびだした瞬間、見はからったようにぼろりと涙がこぼれおちた。なさけない嗚咽がもれる。
ごめんなさい、迅さん、ごめんなさい。心のなかでくりかえしても、意味はないのに、わたしは何度もあやまる。
夕方の荒れた警戒区域のなかを歩く人は、わたししかいない。ひとりぼっちなのをいいことに、わたしは涙もかくさずに、わんわんと泣いた。
◆ ◆
やることなすこと、すべてが裏目にでる。そんなのは、いままでにないことだった。
玉狛支部の自室、ベッドのうえに身を投げだしたまま、ぼんやりと天井をながめる。壁にかけた時計が我関せずとばかりにそっけなく呼吸をしているだけで、ほかに聞こえるのは音はない。
目をとじると、うかんでくるのは桑染の顔だ。以前によく見せていたわらい顔ではなく、目をそらした、拒絶の目だ。近頃おれにむけられる表情だった。
もれそうになるため息を、無理やりに深呼吸と変える。それでも憂鬱は身体からぬけてはくれなくて、気持ちのおもさが身体のおもさへ変わるような気さえした。
未来予知など役にはたたないのだと、はじめて知った。
いままでは、未来がわかることを利用して最善の道をえらんできた。それなのに今回はどうだろう。どんな行動をとったとしても、とても最善とは言えないような結果へところがっている。いきつくさきは、桑染が泣く未来だ。
一番最初の分岐点をまちがえたのだろう、と思う。人の感情の機微に敏感な桑染が、さりげなくさけられていることに気がつかないわけがない。おれのとるべき最善の行動は、見えた未来を黙殺することだったのだ。
けれどおれだって人間である。いくら未来が見えたとしても、自分の感情を完璧にコントロールすることはできない。一番の敗因はそれだ。おれの人間が、そこまでできていなかったことだろう。
散々、人の未来を見てきたというのに。わるいものは変えてきたし、最高の未来を見たことだってある。干渉するのは、死や大怪我といった生命に関わるものごとだけで、予知を利用して安易に未来を変えることはしないときめ、守ってこられたというのに、このザマである。未来視のサイドエフェクトにもなれきって、使いこなせていると思っていたけれど、慢心だったのだろうか。いまさらつまずくとは思いもしなかった。
ボーダー本部で太刀川さんと米屋に桑染がつかまったあの日に、おれと桑染のあいだには決定的な亀裂が入った。
もともとは、太刀川さんに追いかけられ、米屋につかまり、そのあと無理やり模擬戦をさせられる未来が見えたものだから、助けてやろうというつもりだった。
仲なおり、ではないけれど、玉狛によりつかなくなってきた桑染が、家で泣いている未来を見ることが増えていたからだ。それは言い訳の余地もないほどおれが原因で、いいかげん罪悪感がくるしくなりはじめていたし、以前のように玉狛が好きだとわらっていてほしかった。
これだけは信じてもらいたい。泣かせるつもりはなかったのだ。ただ「桑染に告白される」という未来に、動揺しただけのことなのだ。
「どうしたもんかなあ……」
おれのつぶやきにこたえてくれるものはいない。壁掛けの時計は、時間をきざむという自分の責務をまじめにこなしているだけだ。
なやんでも解決にはならない。そのことはよくわかっているのに、どうすれば修復できるのかがわからなかった。
おそらく、もっとはやくに手を打つべきだったのだろう。桑染が、おれにさけられているのでは、とうたがいをもっている段階のうちに解決ができていれば、ここまでこじれることはなかったはずだ。
おれにさけられていると確信した桑染はいまや、おなじようにおれのことをさけている。まさか、関係修復に乗りだしたその日に、逃げられるようになるとは思いもしなかった。
人間関係は鏡、とはよく言ったものだ。相手は自分をうつし、自分は相手をうつす。まったくもってあわせ鏡だ。桑染は、自分にむけられた態度をそっくりそのまま、おれにかえしている。いまのおれは、身からでた錆にくるしんでいるのだ。予知のサイドエフェクトで事前に手を打つことになれてしまっていたおれには、後悔をしてもおそいのだということが身にしみる。
はやくどうにかしなければいけない。近頃は、宇佐美にさぐりを入れられるようになった。桑染をさけだした頃にも、なにかあったのかとたずねられたけれど、いまでは確信をもたれつつある。はぐらかしたけれど、なぜさけるのかと問いただされたこともあるし「園希を泣かせたら、迅さんでもゆるさない」とおどしをかけられた。けれど、もうおそい。すでに泣かせてしまっている。
京介も最近桑染に元気がないと言っていた。京介が気がつくほどなのだ、レイジさんはとっくになにかを勘づいているだろうし、このままではだまされやすく鈍感な小南にまであやしまれるのも、時間の問題かもしれない。そうなると、小南になぐられることは必至だ。
ベッドから身を起こす。窓をあけると、ぬるい風が吹きこんできた。空はうすぐもりで、昼すぎの日ざしはおだやかなものだった。近界民の襲撃さえなければ、三門市は平和そのものである。
どこをながめるでもなっくぼんやりとしていると、扉がたたかれる音で意識を引きもどされた。
「迅、いるか」
「いるよ。あいてる」
返事をすると、すぐに扉がひらかれた。たずねてきたのはレイジさんだった。
「待たせたな」
「いや、今日はとくに予定もなかったから大丈夫。レイジさんのほうこそ大学は?」
「今日の講義は終わった。夕方の任務までは訓練をするつもりだ」
「さすがレイジさん。ストイックだね。――場所、変えようか」
「単刀直入に訊くが、桑染となにかあったのか」
一階のリビングに移動するなり、レイジさんは口をひらいた。まさに単刀直入。せっかくいれたのだから、コーヒーを飲んでひと息ついてからでもいいだろうに。らしいといえばらしいけれど、苦笑がもれてしまう。
「やっぱりわかる?」
「なにがあった」
「ううん、なにかあったというより、これからなにかある、っていうか……」
言葉をにごすと、レイジさんは無言でおれを見つめてくる。話せば意外とおだやかであるけれど、まるみがあるとは言えないその目つきが、おれを問いつめてくるようだった。
「気づかれているなら、かくすことでもないか。――レイジさん。相談にのってもらっていいかな」
「……解決策をだしてやれる保証はないが、できるかぎりの力は貸そう」
どこまでも生真面目な返事はおれを責めるものではなくて、すこしだけ気が楽になった。気合い入れにと、あついコーヒーを一気に流しこむ。ふう、と息をついて、丹田に力をこめて、いよいよ核心にふれる。
「近い未来、桑染に告白をされるみたいなんだ」
――ついに口にだしてしまった、という気持ちと、ようやく口にだせた、という真逆の気持ちがひろがる。どうやら、自分で思う以上になやんでいたらしい。声にだしてかたちにしてしまうと未来のことがよりはっきりと輪郭をもった気がするけれど、こんなに楽な気持ちにもなるのなら、もっとはやく相談していたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、ここまでもつれることもなかっただろう。
「なんだ、それがどうした」
「……は?」
一世一代、というのはおおげさだけれど、思いきって打ちあけたことに、レイジさんは至極かるい反応しか見せなかった。拍子ぬけもいいところで、肩から力がぬける。
「いや、それがどうしたって……」
「桑染から告白されると問題があるのか」
たいした相談でもなかった、とばかりにコーヒーをすするレイジさんに「いやいやいや」とつっこむ。問題ならあるだろう。大有りだろう。
「だって、気まずいでしょ。やりにくくなるって」
そう言うと、レイジさんはコーヒーをテーブルのうえにおいた。じっと、おれのほうを見る。さぐるような、うったえるような、あきれたような、おこっているような、よくわからない視線だ。一体なんなのだ。物理的なおもささえかんじられるような視線に、すこしだけ気圧される。
「ことわるのか」
しずかに、けれどはっきりと発せられたレイジさんの言葉を理解するのに、数秒の時間がかかった。ことわる――なにを? ――桑染からの告白、を?
「いや、それは――」
「気まずいということは、桑染の気持ちにこたえられないということだろう。ちがうのか」
「いやいや、そうじゃなくて」
「じゃあどうなんだ」
組みふせたうえから、のどもとにレイガストを突きつけるような声だった。いつになくきびしい声音に、思わず言葉を飲みこんでしまう。
レイジさんはなおもするどい視線をむけてくるけれど、ことわるとかことわらないとか、そういうことではない。もっと、ほかに問題があるだろう。ただでさえ人員のすくない玉狛支部なのだ。うまくいっていればなんの問題もないけれど、少人数がゆえに、人間関係のこじれは面倒なことになる。そう――いまのように。
「レイジさんだって、桑染に告白されたらこまるでしょ」
「どうして俺を引っ張りだす。迅、おまえと桑染のことなんだろう」
「もしもの話だよ。桑染じゃなくて小南でも宇佐美でもいい。玉狛のやつに告白されたら、レイジさんはどうするのさ」
「どうもこうもない」
きっぱりと、レイジさんは言った。
「おなじ気持ちならおなじ気持ちだとつたえるし、そうじゃないのだとしたら、その気持ちにはこたえられないとつたえるだけだ」
レイジさんらしい、実直なこたえだった。おれとおなじ状況になったら、なんて、この人には愚問だったかもしれない。
「ゼロか、十かしかないのか……」
「あたりまえだ。どうであれ好意はうれしいし、わるい気はしないものだろう。けれど、それにあまんじた中途半端な態度で期待をもたせれば、かえって相手を傷つける。どれほど酷でも、こういうものごとにはゼロか十のどちらかしかない。俺はそう思う」
おまえはどうなんだ、と問うレイジさんへ、反論する余地など一ミリもなかった。
「……まったくもって、そのとおりだと思うよ。レイジさんの言うとおりだ」
おれの場合は、まだゼロか十かの選択にたたされるまえの段階ではあるけれど。最終的にはどちらかをえらばなければいけないのだ。そしてそれは、おれの言葉ひとつで、桑染の未来がきまってしまうとも言える。
「わかっていても、荷がおもいよなあ……」
おもいため息をついて、ソファの背もたれに体重をあずける。桑染が泣くのもわらうのも、おれ次第なのだ。
「やっぱりことわるんだな」
「そうだな……桑染にはもっといいやつがいるよ」
桑染には、もっと真面目で誠実で、大事にしてくれるような男のほうがいい。嵐山や、鋼のような信頼できる男でなくては。不誠実な態度で泣かせてしまっているおれには、桑染とつきあう資格なんてないのだ。
いつまでもおちこんでいてもしかたがない。どうするべきかは見えたのだ。あとは、今後の方針を考えなければ。さめたコーヒーの苦味で気分転換をこころみると、レイジさんがしずかに口をひらいた。
「……意外だな。おまえは桑染のことをかわいがっているように見えていたんだが」
「かわいいとは思っているよ。後輩になつかれていやな気になる人なんて、そうそういないでしょ」
「でも、ことわるんだろう」
「おれにはもったないからね」
そう、桑染はおれにはもったいない。緑川にも言えることだけれど、迅さん迅さん、としたってくる姿はかわいいものだ。それにくわえて、桑染はよくわらうし、素直だ。そんな桑染のことをきらうやつなんて、そうそういないだろう。――だからこそ、おれなんかでは、釣りあわない。
「……ふたりの問題にとやかく口だしするつもりはないが、逃した魚はおおきかった、なんて思うようなことはするなよ」
いたってまじめにそんなことをいうレイジさんがらしくなくて、わらってしまう。
逃した魚もなにも、釣ったおぼえはないのだ。うつくしい魚ならなおのこと、食べてしまうよりも海へ帰してしまったほうがいい。いつかだれかがつかまえて、食べたりせずにかわいがってくれるだろう。それが、おれではないというだけの話だ。
「……迅。おまえは、人よりいろいろなものが余計に視える。自分を見ることを、忘れるなよ」
ゆっくりとつむいだレイジさんの言葉には、おれのことを気にかけているひびきがあった。
「ありがとう、レイジさん。話を聞いてもらえてだいぶすっきりしたよ」
「これくらいならいくらでもつきあう。おまえはもっとまわりをたよってもいいくらいだ。かくしごとが多すぎる」
「なんていったって、趣味は暗躍ですから?」
どこまでもやさしさをふくんだ言葉にずがゆくなって、へらりとわらって茶化したというのに「あまりかかえこみすぎるのなよ」とだめおしをしてくるのだから、この人は。
「レイジさん。桑染が泣いたら、なぐさめてやってね」
「……それこそ荷がおもい」
「いいじゃん、おれは小南と宇佐美になぐられることまちがいなしなんだから」
わらってぐっとのびをすると、ひさしぶりにふかい呼吸ができたような気がした。桑染に連絡を入れてみよう。そうしたら、さけていたことを素直にあやまって、もとどおり――の態度はむずかしいかもしれないけれど、また、わらいあえる関係にもどれるように努力してみよう。
ソファの背にもたれて、天井をあおぐ。とじたまぶたの裏に未来は視えなかったけれど、根拠もなくうまくいくという確信が、あった。
◆ ◆
ブー、ブー、と振動した携帯電話にいいかげんうんざりした気持ちになった。まるで、お昼休みに入ったタイミングを見はからったようだ。無視をきめこんでお弁当のおかずを口にふくむと「携帯鳴ってんぞ」米屋くんがわざわざ教えてくれた。やさしいことだけれど、その必要はまったくもってこれっぽちもないのに。
「ああ、うん、大丈夫。重要なことじゃないから」
「見なくてもわかんのかよ。隊からの連絡かもしんねーじゃん」
玉子焼きを飲みこんでこたえると、今度は出水くんがそう言った。もっともな言いぶんなのだけど、大事な連絡である可能性はとても低い。わたしはお弁当とおはしをおいて、出水くんをうらめしげに見た。
「なんだよ、その目は」
「出水くんはわるくないけど、出水くんにやつあたりしたくなるの」
「はあ? 意味わかんねー」
「……携帯電話」
わたしは、ようやく動きをとめておとなしくなった携帯電話を指さす。
「いまのラインかメールか電話、だれからきたのか確認していいよ」
出水くんはまだあやしむような顔をむけているけれど、言われるままにふせられたわたしの携帯電話をつかんだ。
「うげッ……!」
「うッわ!」
横からのぞきこんだ米屋くんとふたりそろって、携帯電話の画面を見るなり予想どおりの反応をしてくれた。
「なんだよこれ!」
「やべえ! ストーカーか?」
「ストーカーみたいなかんじだよ、本当に……」
わたしの携帯電話のロック画面に表示された通知を見ながら、出水くんは引きつり、米屋くんはわらいころげるている。わたしはふかいため息をついた。
「なにやってんだよ太刀川さん……」
「桑染と太刀川さんって、そんな仲よかったか」
「全然仲よくないよ。いいとこ顔見知りだもん……」
数日まえからあきることなくしつこくわたしに連絡を入れてくるのは、界境防衛機関、ボーダーのA級一位隊隊長、ナンバーワンアタッカー太刀川慶その人だった。そして、支部と本部で所属こそちがうけれど、いま一緒にお昼ご飯を食べている同級生でボーダー隊員の仲間である出水公平くんの、部隊長なのである。
「なんでこんなことになってんだよ」
ロック画面に表示されている、あらゆる連絡手段からのコンタクトをざっとさらって、出水くんはよごれたものをさわってしまったかのようにわたしに携帯電話をかえした。その反応はちょっとひどいのではないだろうか。ストーカーまがいのことをしているのは、正真正銘、出水くんの隊の隊長なのだ。
「四日くらいまえに、本部で太刀川さんにでくわしたでしょ?」
あまり思いだしたくもないできごとが起きた日をあげると、ふたりはうなずいた。
「あの日から、模擬戦しろ模擬戦しろって、連絡がうるさいの……」
がっくりとうなだれると、出水くんは「あー……」と同情するような声をだして、米屋くんはおおきな声でわらった。
そう、思いだしたくはないあの日。本部で太刀川さんに追いかけられ、米屋くんにつかまったあの日以来、太刀川さんからの連絡がたえないのだ。
最初こそ、ことわりの返事をしていた。けれど、太刀川さんはおどろくほどねばりづよかった。どんなに丁重におことわりをしても、いいかげんにしてくださいとおこってみても、とにかく模擬戦をしろの一点張りなのだ。
ついにはわたしのほうがつかれてきてしまって、無視をすることにきめたのだった。そのうちあきらめるだろうと思っていたのだけれど、その考えはあまかった。反対に、連絡がくる回数が増えたのだ。その熱心さはどこからくるのだと、一周して感心するほどである。
「いっそ着拒すればいいんじゃね?」
さんざんわらいころげて、目じりにうかんだ涙をぬぐいながら、米屋くんが提案をした。
「それも考えたけど、そんなことしたら、本部で鉢あわせしたときがこわいんだもん……」
無視も十分あとがこわいけれど、着信拒否だなんてことをしたら、どんな目にあうかわからない。それこそ無理やりにでもブースに連れていかれて、強引に模擬戦をさせられて、徹底的にたたきのめされるにちがいない。そして、太刀川さんが満足するまで解放してもらえないのだ。考えただけでぞっとする。連絡先の交換だって、携帯電話をとりあげられて無理やり登録されたのだ。
「自分とこの隊長ながら、これはないわ」
「出水くん、お願いだからもうやめてって言ってくれないかな……」
「それは無理だな」
「なんで!」
あっさりと切りすてた出水くんに、わたしはつかみかからんばかりのいきおいで身を乗りだした。
「だって、あの人なんでかおまえのこと気に入ってるみてーだし。ほかのことならともかく、戦闘バカだからこればっかりは言っても多分聞かないだろうな」
「そんなあ……」
直接がだめなら外堀から、と考えたというのに、にべもなく突きはなされてしまった。がっくりとうなだれると「ドンマイ」とかるいなぐさめがふってきた。当事者ではないから、ひとごとのように言えるのだ。ふたりはわるくないというのに、うらめしさばかりがつのる。
「それにしても、なんでそんなにこだわられてんだ?」
「俺も気になるな」
「そんなのわたしが知りたいくらいだよ……」
昼食を再開した出水くんと米屋くんにつられて、わたしものろのろとおはしをもちあげた。
「たしかに玉狛のトリガーはおもしろいけどな。京介のやつとかずりーし」
「でもわたし、どちらかというと射手なのになあ……」
玉狛のトリガーは本部のものとちがい、使用者にあわせて作られたオーダーメイド仕様だ。戦うことが大好きな太刀川さんが興味をもつのはわかるけれど、わたしのトリガーは近接武器とは言えない。だからこそ、火花を散らすような戦いにたのしみを見だしていそうな太刀川さんが、中距離戦を得意とするわたしに興味をもつ理由がわからないのだ。
「逃げるから追いかけたくなるんじゃね?」
「なにそれ、犬とおなじじゃない……」
「いや、槍バカの言うこともあながちはずれてないかもしんねーぞ。あの人戦闘以外は基本バカだから」
「おいおい、弾バカのおまえが言うか?」
「おまえに言われたくねーよ、槍バカ」
いつもどおり、バカバカ言いはじめたふたりを見ていると、なんだか気がぬけてしまった。
結局、だれにも助けてもらえないのならいままでどおり接触をさけるしかないし、なやんでもしょうがない。ほとぼりがさめるまで、本部に近づかなければいいだけだ。無視しつづけていれば、太刀川さんもそのうちあきらめるだろう。
「――ん?」
あらためて、今後の方針を固めたところで、ふたたび携帯電話が着信をつげた。げんなりと手のひらサイズの機械に目をむける。確認しようという気持ちにはならなかった。
「また太刀川さんだったりしてな」
「ええ……やだよぉ……」
「太刀川さんだったらおもしれーじゃん。マジでストーカーだぜ」
「じゃあ、米屋くんがたしかめてよ……」
無視をするということで固めたけれど、やっぱりうんざりはする。だれからの連絡なのか確認する気になれないわたしは、米屋くんに携帯電話をわたした。
「どれどれ」
米屋くんと出水くんが、わくわくした顔でわたしの携帯電話をのぞきこむ。たのしそうでなによりだ。わたしの災難が、わらいのネタとして有意義になってくれているのなら、多少なりともすくわれる。
「お、太刀川さんじゃない」
「えっ」
「迅さんだ」
――迅さん。出水くんの発した名前に、体が硬直した。なぜ、どうして。疑問符が頭のなかをうめつくしていく。迅さんが、わたしに連絡をよこす理由がわからない。
「桑染?」
「――え――あ――うん、なに?」
「確認しねーの?」
「あ――うん、そう、だね」
さしだされた携帯電話を受けとるのが、こわかった。手がふるえていることに、気づかれませんようにと願いながら、手をのばす。ばくばくと、心臓がはげしく脈打っていることがわかる。スマートフォンの画面に表示されている「迅悠一さん」という名前。確認することが、とても、こわい。
ふるえる手で、画面をタップしようとしたときだった。絶妙のタイミングで、予鈴がひびいた。
「あー、もう昼休み終わりか」
出水くんがぼやく。まだ弁当がすこしのこっていたわたしは、携帯電話をわすれたふりをして、ご飯をあわてて口のなかにかきこむ。携帯電話はすぐに、息をとめた。「食べるのおせーな」米屋くんが紙パックのジュースを片手にわらう。
神さま、ありがとうございます。わたしは心の底から感謝した。予鈴はまさしく、すくいの鐘だった。あのまま迅さんからの連絡を確認していたら、場合によっては泣いていた可能性もある。そうしたら、午後の授業どころではなくなってしまう。
「あー、午後の授業だるいな」
「眠くなんだよなー。昼寝の時間作ってくんねーかな」
そうぼやいて、米屋くんと出水くんは自分の席へともどっていった。わたしはつぎの授業の準備でざわつくなか、いそいで弁当箱をしまい、そのまま教科書をとりだす。
午後の授業開始のどさくさにまぎれるように、迅さんからの連絡は見なかったことにした。心臓のあたりを引っかかれたけれど、気がつかないふりをしたわたしは、意気地なしなんだろう。
◆ ◆
玉狛にはいきづらい。本部には、近よりたくない。どこにも身のおき場がないわたしがえらんだのは、ささやかなより道だった。
校門をでて、駅前の市街地へとむかう。おいしいクレープ屋さんがあるのだ。友人に連れていってもらったことがきっかけで知ったのだけれど、それなりに人気のある店のようで、平日の夕方だというのにお客さんが多かったことをおぼえている。もちろん味もうわさどおりにおいしく、またこようと約束をしたのだけれど、それっきりいく機会がないままだった。そのことをふっと思いだしたのだ。
「それなのに、なあ……」
思わず、ひとりぼやいてしまう。友人がだれひとりとして、つかまらなかったのだ。部活にバイトと、みんなそれぞれ予定や用事でうまっていた。それならと、米屋くんと出水くんに声をかけてみたけれど、ふたりとも今日は防衛任務があるのだと、それもやっぱりことわられてしまった。
本当に近頃は、ついていないことが多い。ここまできたら、厄おとしをしてもらったほうがいいのではないかと思えてくる。
「でも、今日はクレープ食べるし!」
病は気から、ではないけれど、くらい気持ちでいたらしあわせも逃げてしまうだろう。おいしいクレープを食べて、気分転換をするのだ! 人波にまざりながら、わたしは近頃の不幸を吹きとばすように、気合を入れた。
クリーム色の体に、オレンジ色ののぼり。まるいフォルムの移動販売車を、数人のお客さんがとりかこんでいた。わたしとおなじように制服を着ている子や、二十代くらいの人もいる。共通しているのは、みんな女性であるというところだ。やっぱり、あまいものが好きな女性は多いらしい。
なににしよう。列のうしろにならんで、イーゼルにたてかけられた黒板に書かれたメニューを、ひとつひとつ吟味する。やはりここはストロベリーにするべきか。いや、でも、バナナもおいしそうだ……。
うんうんとなやんでいるあいだに順調にクレープは焼かれ、お客さんがひとり、またひとりと笑顔で去っていく。
「ご注文はおきまりでしょうか」
えらべないままにっこりとたずねられて、わたしはあわててメニューをふりかえる。
「えっと、じゃあ、ストロベリーホイップをお願いします」
「おれはチョコバナナで」
左斜めうしろ。ごく近いところから鼓膜を打った声に、ばっとうしろをふりかえる。
「よっ」
あらわになった額。すこし厚いまぶた。首にかけた、ブリッジ無しのサングラスに、トレードマークとも言える青いジャージ。
「――じん、さん」
どうして、という疑問が、わたしの顔にははっきりとうかんでいただろう。予想外も予想外、不意打ちのおどろきに固まったわたしを見て、迅さんがふっとわらった。
やわらかな、表情だった。いままでさけられていたことがうそだったかのように思えるほど、やさしい目つき。とうとつな出現もあいまって、混乱して言葉がでてこない。石化の魔法をかけられたみたいだった。
「――お会計、九百二十円になります」
魔法は、店員さんの声であっさりと解けた。あわててスクールバッグに手をつっこむと「お願いします」迅さんが千円札をさしだすところだった。
「じ、迅さ――」
「おごらせてくれるよな?」
おだやかなのに有無を言わせない口調でそう言われると、言葉が封じこめられてしまう。ずるい。もうしわけない気持ちで「ありがとうございます」とつぶやくしかないじゃないか。
店員さんからおつりを受けとった迅さんは、クレープ生地がうすくのばされて焼かれていくのを、おもしろそうに見ている。こういうお店へくることがないのかもしれない。
――どうして、迅さんがここにいるのだろう。すこし冷静になった頭に、ふたたび疑問がうかんでくる。迅さんからの連絡を無視したばかりだ。クレープを食べにいくと言ってはいないし、このお店の話をしたおぼえもない。偶然、だろうか。迅さんにかぎって、その線はないように思えるけれど。
「お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
「どーも」
ちらちらと迅さんの様子をうかがっているあいだにクレープは焼きあがり、ふわりとあまいにおいが鼻をついた。思わずほほがゆるむ。焼きたてであたたかい金色のクレープ生地に、真っ白でやわらかそうなホイップクリーム。真っ赤ないちごのコントラストがあざやかだった。
「あっちで食べようか」
迅さんが、駅前広場のちいさな噴水を指さした。やわらかな水しぶきが、きらきらと光っている。わたしはうながされるままうなずいて、噴水のふちに腰をおろした。
「うまそうだな。いただきます」
「い、いただきます……」
迅さんにならって口をひらきながら、頭のなかは疑問符でいっぱいのままだった。なにごともなかったかのような態度だけれど、わたしと迅さんはぎくしゃくした関係になっていなかっただろうか。それとも、いままでのことはすべて夢だったのだろうか。なんだかわけがわからない。このままでは混乱する一方だ。
わたしはふるふると頭をふって、頭をうめつくす疑問をちらす。せっかくクレープがあるのだし、まずはこれを味わおう。せっかくたのしみにしてきたのだから、おいしく食べなければもったいない。むりやりに思考を停止して、クレープにかじりつく。
「――はあ……」
「おいしい?」
迅さんの問いかけに、わたしは首を縦にふった。うすくてもっちりとしたクレープ生地に、ホイップクリームはさっぱりとしていて、いちごのあまずっぱさが際だつ。おいしくて、自然とため息がでてしまう。
「おいしいです」
ほう、と息をついて、わたしはもうひと口クレープに歯をたてた。うん、やっぱりきてよかった。クレープ生地とホイップクリーム、いちごの絶妙なバランスを堪能しながら、目をほそめる。
「……しあわせそうに食べるなあ」
おいしさに足をぱたぱたふっていると、迅さんがくすりとわらった。はっとして、口のなかのものを飲みこむ。クレープのおいしさで、本当にすっかり、迅さんのことを忘れてしまっていた。いや、忘れるためにここへきたのだから、まちがいではないのだけれど。
「こっちも食べる?」
ひょいと目のまえにクレープがさしだされる。どちらにするかでまよっていた、チョコバナナ。ストロベリーホイップでこれなのだ、きっとこのチョコバナナもおいしいにきまっている。
「う、うう……!」
これは悪魔の誘惑だ。以前のわたしなら、一も二もなく言葉にあまえていただろう。けれどいまは、ためらう理由がある。ここで迅さんのクレープの味見をしたら、それとなくさけられていたことが水に流れてしまうことになるような気がした。
けんかをしたわけではない。関係がもとにもどるのはうれしいくらいだ。むしろそれをつよくのぞんでいる。でも、さけられていた理由をしらないままうやむやになってしまっては、もやもやした気持ちが晴れないだろう。
「食べないの? それとまよっているように見えたんだけど」
そう言われて、ほほがあつくなるのがわかった。最後までストロベリーホイップとチョコバナナのどちらにするかでなやんでいたのを、しっかり見られていたのか。
「遠慮しているなら、おれにも桑染のやつ味見させてよ。それならいいだろ?」
迅さんが、わたしのクレープを指さす。――ずるい。そうやって、ためらうわたしに理由をくれる迅さんは、ずるい。いつも飄々としていて、なにを考えているのか読ませないくせに、やさしいことはたしかなのだ。
「……いただきます……」
「めしあがれ」
ずるい。
うれしい。
どうしてやさしくするの。
ついこのあいだまで、わたしのことをさけていたのに。
一度にあらわれたいろんな感情をむりやりにおしかくして、クレープを交換する。そのせいで渋々ながら、というような態度になってしまったけれど、迅さんはまったく気にしていないようだった。わたしの葛藤だって、お見通しなのだろう。
「お、こっちもうまいな」
「――はい、おいしいです!」
クレープ生地とホイップクリームはおなじなのだけれど、バナナのあまさと、ビターなチョコレートソースの相性が満点だった。ストロベリーホイップとまよったけれど、これはどちらをえらんでもまちがいはなかった味だ。
「ごちそうさまでした。ありがとうございます」
至福の気持ちでクレープをかえしたところで、なにをしているんだ! と我にかえった。単純にもほどがある。あまいものにつられている場合ではない。
口をひらいたりとじたりしていると「どうした?」と迅さんが助け船をだしてくれた。わたしは思いきって、たずねた。
「あ、あの……迅さんは、どうしてここに……」
「ああ、米屋から聞いたんだよ」
「米屋くん?」
予想をしていなかった名前の出現に、首をかしげてしまう。
「そ、桑染がクレープ食べにいくって話を聞いてね」
「そうなんですか……」
防衛任務があるからとことわられてしまったけれど、たしかに米屋くんに声をかけていた。でも、どうしてそれを迅さんにつたえたりしたんだろう。理由がわからなかった。
それっきりで言葉はつづかず、なんとなく無言がひろがった。ふたりしてもくもくとクレープを食べながら、また居心地のわるさがおとずれる。ここに「いる」理由はわかったけれど、ここへ「きた」理由はわからないままだからなのだろう。でも、わたしにはその核心にふれる勇気がなかった。
まえのままの関係だったら、もっとたのしかったはずなのに。最初からクレープを半分こする約束をして、もっとわらって、もっともっとおいしかったはずなのだ。こんなふうにだまりこむことは、きっとなかった。
すこしうしろむきに考えただけで、途端にかなしくなってしまった。せっかくのクレープの味もわからなくなりそうで、必死でひと口目の感動を思いおこす。
「――桑染」
「はいッ!」
ぐるぐるとまわりだした思考にわりこんできた声におどろいて、背筋がのびた。迅さんはふっと息をつくようにわらって、たちあがった。
「おれ、今日の夕飯担当なんだ。買いものにつきあってくれ」
決定事項のように言われて、さあいくぞとうながされる。わたしのとまどいを、迅さんはおいてけぼりにする。考えることにつかれてしまったわたしは、思考を放棄することにして、言われるがままにたちあがった。
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