今福塾の教師
「おはよーございます!彦せんせい」
「弥太郎、お早う」
朝餉も済ませ、今福塾の生徒たちがやってくる。彼らは塾に来たらまず今福塾の掃除を始める。部屋の掃き掃除に拭き掃除、外に枯れ葉とりに水撒き、皆が掃除をしているなか、巳の刻を告げる寺の鐘が鳴る。一人遅れてきた生徒がいた。この町の武家屋敷で下働きをしているわかばである。彼女走ってきたのか髪は少し乱れ、小袖もよれており、彦四郎はそのいつもの忙しなさにため息をついた。
「彦四郎先生、ごめんなさい!」
「一番がそれかい?」
「屋敷の仕事してたらいつの間にか時間がたってました」
「わかばさん、皆はもう来ています。皆、席に座って。授業を始めるよ」
生徒たちはそれぞれ席について長机に向かう。この中でもひょっこり体が大きいのはわかばである。彼女はこの今福塾でも生徒の中では最年長者。十六である。普段は屋敷の下働きとして生活し、週に二度あるこの今福塾へと通っているのだ。
彦四郎は一所懸命に授業の内容を聞いているわかばの顔を一瞬見た。授業を進めながら彦四郎はわかばの事を考えた。彼女は幼い頃に父親が戦死し、十になったとき母と妹をはやり病でなくしたとわかばからこの今福塾に来るときに聞いた。自分は家事や看病に明け暮れてろくに世間もしらず字も書けないでいたが、十六になって教養を身に付けたいと思ったわかばはとある武家屋敷に住み込み奉公する生活の傍ら、今福塾へと入ることにしたのだ。しかし、彦四郎はなぜ彼女が教養を身に付けたいと思ったのか、その理由は知らずにいた。
一方わかばは彦四郎から発せられる算術の仕組みを理解しようと帳面に数式を書いていく。彼女がなぜ教養を身に付けたいのか、それはわかばが下働き先で色んな者から声がかかることから始まった。その内容は縁談であった。十六になればそろそろ嫁入りだとしょっちゅう持ちかけられるのだ。はじめはわかばは断っていたが、断りながらも家庭に淡い憧れをもつようになった。しかし、自分は文字もかけず世間も知らない。嫁になるには難しいだろうと思った。そうして嫁入りを悩んでいるときに今福塾をみつけた。わかばはその小さな平屋の学舎を覗く。すると植木に水をやる彦四郎の姿を見た。その優しそうな教師の姿をみて、わかばはここで教養を身に付けようと決心したのだ。
(彦四郎先生って、普段何してるんだろ)
授業中にふとわかばは思う。彦四郎はわかばが入学したいと言っても断らなかった。少し考えて、なんともないような顔で「いいですよ」と言った。彦四郎は自分よりいくつか年上に見えたが、家庭はあるのだろうか?そんなことを考えながら算術、文字書き、講座を終わらせる。すると寺から午の刻を告げる鐘の音が聞こえた。この音が本日の授業の終わりの合図だった。
彦四郎が終礼を終えると子供たちが帰っていく。わかばも帰ろうと荷物をまとめて立ち上がったとき、彦四郎がやってきた。
「まちなさい、わかばさん」
「はい」
わかばは彦四郎へと向く。彦四郎の眼差しはじとりとわかばを見つめていた。
「今日の漢字のテスト、全部間違えたでしょう」
「あはは、忙しくて事前に勉強してませんでした」
「あははじゃない。まったく、十歳の子でも点は取れるというのに君って奴は・・・」
「仕事が終わると疲れちゃって」
その苦しい言い訳を聞いて彦四郎は静かに深呼吸した。そしてぴしゃりといい放つ。
「私は君が学びたいと言うから教えています。もちろん、わかばさんからお金をもらって」
「はい」
「でも肝心の君がそんな様子じゃ、意味がない!というわけで、補習をすることにしました」
わかばはほしゅう?と首をかしげた。はじめて聞く言葉だった。
「授業だけでは足りない分を補う特別な勉強のこと!」
「特別?わーい!」
「いいことじゃないから!!もう」
頭がいたくなってくる彦四郎。彦四郎は姿勢を直して背筋を伸ばす。いいかい?と彦四郎は念をおした。
「教室が終わったら私の手伝いをしてほしいのです。帳簿の計算とか、本棚の整理とか、毎回作る名簿も確認してほしい」
「私、計算も漢字も読めませんよう」
弱気になるわかばにも彦四郎は容赦なく続けた。
「だから勉強になるんだ。手伝ってくれた分、ご飯ぐらいはご馳走してあげるよ」
「やります!」
生活が貧しいところから普段外食など滅多にしないわかばは彦四郎の"ご馳走"という甘い言葉に即座に飛びつく。彦四郎は素直と言えるぐらい現金なわかばに呆れつつ、でもこれでいいのだと内心安心した。きっかけはともあれこれで補習ができるのだ。
「じゃあ、早速この書類の仕分けをお願いします」
「仕分けって、どんなふうに?」
彦四郎が仕分け作業を指示する。それは計算して均等に分けるという算術を利用した作業だった。説明を聞いて難しそうな顔をして書類を睨みながらぎこちなく仕分けしている。彼女の素直な姿が彦四郎はそれなりに好きであった。
「頑張りなさい」
そういって満足そうに彦四郎は微笑んだのだった。
──しばらくして八時になる。すっかりお腹が減ってしまっていたわかば。仕分けも終わり、彦四郎が再度書類を確認して頷いた。
「うん、きちんと分けれたね。よくできました」
「やった!褒められた!」
バンザイして喜ぶわかばに彦四郎は微かに笑った。時間はかかったが、これから毎週二回は補習を行う。この調子ならきっと計算も速くなるだろう。
「よし、じゃあおやつにしよう。何が食べたい?」
「うどんが食べたいです!」
「がっつりじゃないか」
「じゃあおしるこ」
自分のはしたなさに自覚したわかばは少し恥ずかしそうに手を組んで彦四郎をちらりと見た。彦四郎はそんな無邪気なわかばにくすりと笑う。
「いいよへんに気を使わないで。うん、うどんにしようか。美味しいところがあるから」
「えへへ、すみませーん」
その後は町へ出た二人は彦四郎の案内したうどん屋で食事をした。嬉しそうに油あげを頬張るわかばを見て彦四郎はふと気になることを聞いた。
「それにしても、君ぐらいの年の子が塾に通うのって、抵抗とかなかった?」
机で向かい合った形で彦四郎はわかばを見た。わかばは質問の意味がわからず首を傾げた。彦四郎は十六にもなった手前、小さな子と一緒に勉強するというのは自尊心が許さないのではと思ったのだ。
「教師の僕が言うのも変だが、恥ずかしいとか、思わなかったかい?」
しかし、わかばはそんなことを微塵も考えていなかった。
「お勉強するのって年が決まってるんですか?」
純粋なわかばの質問にはっと彦四郎は思う。
「そんなことはないよ。うん、君の言う通りだ」
再びうどんを食べる二人。あらかた食べ終えてお茶を飲んでいたとき、ふとわかばは先程の質問の続きとでも言うように答えた。
「私、お勉強してやりたいことがあるんです」
「そうなの?仕事かい?」
「いえ、そういうのじゃなくて、生活というか。お勉強して生活を変えたいんです」
その言葉に彦四郎は感心する。
「目標を持つのはいいことです。是非変えてください」
「はい!」
笑顔で答えるわかば。この時は彦四郎は彼女の生活を変えたいという言葉は算術や文字を生活で利用したいという単純な意味合いで言っているのだと思っており、まさか嫁入りの為に頑張っているのだとは思わなかった。ただ、不器用ながらに努力するわかばが報われるように、この教え子の為に彦四郎も何かしてあげたいと思っていたのだった。
「あの、ひこしろーせんせー」
「はい」
「おかわりいいですか?」
「駄目です」
彼女が一人前になるのはもう少しかかりそうである。
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