彼の呪縛



「うーん、まずまず!」

開かれた答案用紙には十点満点中五点という文字。堂々と胸を張るわかばに彦四郎は微妙な顔だ。

「わかばさん、たしかに君は成長してるけど、補習以外に勉強しないと満点は取れないよ」
「ううっ、だって仕事したら疲れちゃっていつの間にか寝てしまうんです」

授業が終わった昼下がり、わかばが補習を始めてちょうど一ヶ月。彦四郎の指摘にバツが悪そうに指をいじり視線をそらすわかば。確かに働きながら勉強するのには限界があるかもしれない。ならば、と彦四郎は提案する。

「では、宿題を出そうか?」
「宿題ってお家でやる課題のことですよね?」
「そう。これを次回の塾の日までに終わらせるんだ。テスト範囲の宿題だから、きちんとやれば点は取れるはずだから!」

わかばは考える。彦四郎の言うとおり、今のままでは教養を身につけるのにあと何年かかるか・・・。宿題は憂鬱であったが、早く一人前の大人になって素敵な結婚するのだと思うとやる気が出てきた。

「がんばります!」
「うん、その調子」

彦四郎が満足そうに頷いていた頃、入り口から戸を叩く音がした。今福塾に来た生徒の親だと思った彦四郎はわかばに補習の作業を言い渡しその場を離れた。

「少し離れるが、頼んだ作業、やっててくれ」
「はい!」
 
わかばは頼まれたプリントの仕分けと手紙と本棚の整理を行う。はじめはとてもぎこちなく行われていた作業も大分こなす事ができるようになった。おかげで簡単な計算もできるようになり、文字や漢字も少しずつ興味を持つようになってきた。その日わからない漢字を見つけると塾の日では彦四郎に聞くなどするほど熱心になった。

「作業おわり!・・・だけど彦先生来ないなぁ〜」

わかばは教室の前でちょこんと彦四郎の帰りを待っていた。しかし帰ってくる気配は無く、わかばは時間を持て余しそうだった。ふと汚れた黒板が目に入る。

(先生が帰ってくるまで軽く掃除しちゃおう)

そうしておもむろに立ち上がりわかばは黒板を清掃し始めた。黒板から教卓、長机に床掃除。すっかりきれいにしてしまったわかばは気持ちが晴れやかになってきた。

「でも先生は帰ってこない」

わかばは再びちょこんと正座して彦四郎の帰りを待っていた。ふと、新妻とはこんな感じなのだろうかと想像する。なんだか照れてしまったわかばは、立ち上がり様子を見に行っていこうと塾の門の前にそっと歩いた。出入り口の戸を音もなく少し開けて外の様子をうかがうと、彦四郎と知らない男が向かい合って話していた。男は彦四郎と同じぐらいの年だ。

「だから、僕はもうやめたんだ。戻るつもりはないよ」
「何言ってるんだ!今まで僕達はこのために頑張ってきたんだろ?彦四郎、お前を求めてる城はいくらでもあるんだぞ?」

わかばは首を傾げた。城、と男は言った。彦四郎は町の塾の講師だと思っていただけにその言葉が妙に浮いて、どこか物騒にも聞こえた。彦四郎はいつもの優しい声音ではなく、はりつめたような低い声だった。

「伝七、先程も言ったように僕はもうその世界には関係はない。今はただの塾の先生なんだ。何度言ってもこれは変わらない。・・・ごめん」
「彦四郎・・・」
「・・・・・・」

わかばはその会話を聞いてはいけないととっさに思った。音をたてないようにそっと戸を離れた。あの男性は彦四郎の知り合いだろう。城という言葉から、彦四郎はもともと兵士か剣士なのかもしれない。何かしら事情があって今は塾の教師をしているのだろう。

わかばは教養が足りないことや世間知らずなところはあったものの、物事を整理することは回転が速かった。何事もなかったようにわかばは教室へ戻り参考書を眺めていた。

「ごめん。待たせたね」

しばらくして彦四郎が一人でもどってくる。どうやらあの男性はいないようだ。なにも知らないふりをしなければ、と思いわかばは軽く首を振った。

「なかなか帰ってこないから、掃除しちゃいました」
「本当に?じゃあさっき覗き見てたのはどこの誰だろう?」

白々しく彦四郎は首を傾げる。彦四郎はわかばの気配をとうに察していたのだ。知ってたんですか、とわかばは隠すのをやめた。

「盗み聴きしようとは思わなかったんです。ちょっと様子見のつもりが、大事そうな話をしてたから、その、ごめんなさい」

正直に頭を下げて謝るわかばに彦四郎は優しく微笑む。

「いいよ。大したことじゃない。昔の同業者だったんだ。私はその仕事辞めちゃったんだけどね。たまにああやって帰ってこいって言ってくるんだ」
「え、先生塾やめちゃうんですか?」

彦四郎の話を聞いて不安になったわかばはとっさに彦四郎をみる。彦四郎は首を横に振った。

「やめないよ。昔の仕事より今の仕事のほうが合ってるからさ。それに問題の生徒をほっとけるわけないだろ?」
「問題の生徒?誰?」
「きみだよ!まったく・・・自覚がないんだな」

呆れたように脱力する彦四郎。どうやら塾をやめるつもりがないらしい彦四郎にわかばは心底安堵した。自分はこの今福塾が好きなのだと思う。

「よかった!彦先生に会えなくなると思っちゃった」
「そんなに勉強したいの?」
「うーん、勉強も嫌じゃないけど先生と会うの楽しみなんです。先生とお話すると色んなこと知れるから!」

彦四郎は少し照れてしまう。勉強のためとはいえ、可憐な女性に会うのが楽しみと言われて浮かれてしまった。教師として表には出すまいとぎこちなく彦四郎は咳払いをする。

「あー、そうですか。じゃあ次回のテストは満点を取って私を喜ばせて欲しいものですね」
「それは、別にして・・・」
「こらこら」

そんな和やかな会話をしつつも彦四郎は先程の昔からの友人である伝七の言葉を思い出す。忍者として帰ってこい。お前を望む城は沢山あるはずだ。彦四郎だって忍者になりたくて今まで努力してきたのだろう?

自分だって忍びに全く未練がないと言う事はない。しかし、自分が再び忍者になるということは"あの時"を再び作り出しかねないのだ。彦四郎は忠誠を誓った城主清之助の首を刺した感覚を思い出す。その度に彦四郎は恐れてしまうのだ。

「先生?大丈夫ですか?」

しばらく固まってしまった自分を心配するわかばの声で我にかえる。彦四郎は笑顔を取り繕ってわかばに言った。

「あぁ。大丈夫ですよ。さて、君に頼んだ作業がきちんとできてるか確認しないと。その後、ご飯にしよう」
「はーい」

わかばはそんな彦四郎の迷いなど到底察することはできなかった。いつものように振る舞うと彦四郎は無邪気なわかばのいつもの様子に塾の教師である自分を、これでいいのだと言いきかせていた。

- 3 -

*前次#


ページ: