教え子の夢



宿題と補習の二段構えの体制になりわかばの成績は更に伸びた。彼女は毎日の仕事をしながら合間に宿題をこなし、さらに補習の成果のおかげでわかばは今福塾のなかでもなかなか優秀と呼べる所まで来ていたのだ。

彦四郎は採点をして高点数のわかばのプリントを見て満足する。しかし、それは宿題や補習という特別指導のおかげである。これがなくなれば途端にいつもの問題の生徒になりかねないと彦四郎は思う。

一通り採点を終えて彦四郎は背伸びした。久しぶりに早めに採点が終わった。今福塾は明後日であるし、明日はゆっくり本でも読もうと思っていると今福塾の門の前で立ち止まる足音がした。

(今は夜更けだというのに・・・誰だ?)

彦四郎は色んな顔を思い浮かべたがどれもわからない。あてもないまま門の前まで寝間着姿で出ると思わぬ人物に驚いた。

「わかばさん!」

戸の前には見慣れぬ作業着姿のわかばが月明かりに照らされていた。まさか夜も更けようとする頃に教え子が訪ねて来るなど考えなかった彦四郎は狼狽える。

「どっ、どうしたのですか?」
「先生・・・こんな時間にごめんなさい」

とりあえずわかばを中に入れ奥の自室へと案内する彦四郎。流石に教室で話せる時間でもない。ひょうそくの灯籠でぼんやり照らされた彦四郎の部屋に入り、ぼんやりとした様子でわかばはその場に姿勢良く座った。

「先生、私塾に通えなくなるかもしれません」
「なにがあったんですか?」

不安そうに目を伏せるわかばを安心させるように優しく声をかける彦四郎。わかばはぽつりぽつりと事情を話した。

「私、この町の武家屋敷で住み込みで奉公しながら暮らしてたのですが、そのお屋敷は前から派閥争いのようなものがあったんです。それで、この前私、怖いこと聞いてしまって・・・」
「何を聞いたんだ?」

わかばの顔は蒼白していた。そしてふと顔を上げて彼女は言った。

「近々、お屋敷を焼くって聞いてしまったんです」
「なんだって?君が住んでる屋敷を?」

彦四郎はわかばの住んでいる屋敷を知っていた。以前わかばに教えてもらったこともあり、昔の職業柄、この辺りの内情は多少は知っているつもりだった。自分たちの住む町、虎谷城配下にある武家屋敷は前から内争が噂されている。そのひとつであるわかばの住む武家屋敷が焼かれるということは、明らかに内部紛争が行われるということだ。それにわかばは巻き込まれようとしている。

「そうか。不安だったでしょう」
「ううん、私お屋敷が焼けちゃうのはしょうがないなって思うんです。偉い人って皆私達の生活なんて、何も考えてないのは、昔からよく知ってたから。でも、仕事がなくなっちゃうとお金がなくて塾に通えなくなるから、それが嫌なんです」

わかばは悲しそうに彦四郎をみつめた。ほのかに照らされたわかばの不安げな顔が、彦四郎の中に妙な気持ちをわかせた。

「自分の生活を第一に考えなさい。うちはいつでも通っていいから」
「嫌だ。先生に会えなくなっちゃう。私、寂しいよ・・・」

それはわかばの素直な気持ちだった。昔に心の拠り所を失くしたわかばにとって、週二回会える彦四郎の存在が日に日に大きくなったのだ。今福塾に通う前は平気だった孤独が、今はとても辛く感じている。

「わかった。今日はここにいなさい。明日また考えたらいい」
「はい。迷惑かけて、ごめんなさい。彦先生」

彦四郎はわかばの肩にそっと手を置いた。気にしないでいい、そう彦四郎は呟いた。

「いいんだ。僕は君の先生なんだから、頼るのはおかしくない」
「はい」

そっと笑ったわかば。先程よりは落ち着いた様子のわかばをみて彦四郎は改めて考えた。自室の寝具は一組しかない。しかし彼女を冷たい教室に寝かすわけには行かないと彦四郎は今日は教室で寝ることを心に決めたのだった。明日は読書どころでは無さそうだ──。彦四郎は心の中でため息をつくのだった。

翌朝、差し込んできた戸の隙間の光で目を覚ます。彦四郎は昨日の晩、教室で寝た。適当な座布団を枕に雑魚寝だ。体の節々が痛むと伸びをしているとふわりと味噌の香りがした。いつもは周りが朝食の支度をしているのだと思う彦四郎だが、どうも香りが近い。不思議に思って顔を洗う前に寝間着で自室へと戻るとそこには囲炉裏に釜が置いてあり味噌汁ができている。その隣に漬物とこんがり焼いたモロコと炊きたての稗飯が置いてあった。そしてそれをよそっているのはわかばである。

「おはようございます。彦四郎先生」
「わかばさん、これ・・・」

戸惑っている彦四郎を前にわかばは説明した。

「ご飯勝手に作ってごめんなさい。お味噌とお米も使ってしまって。」
「いいけど、その魚と漬物は?」

彦四郎は自宅に漬物、まして魚など置いておいた記憶はない。するとわかばが笑顔で答える。

「朝、市までいきました。そこで頂いてきました」
「ええ?悪いな・・・」
「いいんですよ!おせわになりましたし。それより、はい」

わかばはそばにおいてあった桶に手ぬぐい、それにちゃっかり普段着まできれいに畳んだものを持ってきた。

「顔を洗って着替えてください」
「あ、う、うん」

思わず素で答えてしまう彦四郎。言われるがまま裏手にある共用の井戸へと向かい、水を組んで顔を洗った。冷たい水を顔にかけながら彦四郎は考える。

(とりあえずはわかばさんから話を聞かないとな)

話とは昨日聞いていた武家屋敷の内争についてである。冷たい水に自然と思考が冴えてきた。そのまま教室で着替えて髪を結う。改めて自室に戻るとわかばはすっかりお膳を用意して待っていた。彦四郎はわかばの手際の良さに感心した。

「ありがとう。なんか働かせてしまってすまない」

彦四郎が軽く頭を下げるとわかばは頬をうっすら赤らめた。

「いいんです。仕事ではコレの倍以上作りますし、私こういうのずっと憧れてて」
「憧れ?」

わかばの憧れとは誰かの妻になることであった。元々奉公の長いわかば。掃除家事洗濯は完璧で相手への気遣いも覚えている。それを誰かのためにすることがわかばの目標であるのだ。もちろん彦四郎とは夫という関係ではないのだが、こんなふうに誰かのために尽してみたいとわかばは思ったのだった。

「えーっと、いいんです。ほら、彦四郎先生、ご飯にしましょう」
「うん。美味しそうだね」

二人で静かに食事を始める。さすが毎日大勢の国人に食事を作っているわかば。魚も味噌汁も味気ない稗飯でさえもうまく感じる。

「うん、やっぱり美味しい。わかばさんはいいお嫁さんになれるよ」
「本当ですか!?わーい!」

今までで一番嬉しそうに微笑むわかば。一方で彦四郎は自分にもし妻ができたら毎日こんな彩った生活になるのだろうかとふと考えたが自分に妻などできるはずがないと思い直して考えるのをやめた。ちらりとわかばをみると昨日の不安は今はほとんど残っていないように見えた。

「先生、私は今日は奉公は非番なんです」
「あぁ、そのことだけど・・・もしかして仲間争いをしてるのは柏派と桜派のことじゃないか?」

彦四郎は自分の持っていた情報をわかばに伝える。わかばは驚いた様子だった。

「はい。この町は近くの虎谷城の領土にありまして、その拠点である2つの場所、柏派は北の屋敷で、私の住んでいる桜派は南の屋敷になります。彦四郎さん、ご存知なのですか?」
「まぁ、私もこの町にしばらく住んでるし、噂ぐらいはね。柏派の噂はあまりよくないみたいだね」

彦四郎はこの町へ来たばかりのとき、妙な空気を感じた。町の北部と南部で町の雰囲気が違うのだ。越してきた時に隣人のものに聞くと声を小さくして「北部の柏屋敷は近寄ると斬られる」と言ったのだ。柏代官屋敷では賄賂や賭け事が毎日行われているらしく、それを指摘すれば直ちに捕まり斬られるという腐敗した取締が行われているらしい。同じ虎谷城の支配下といえど場所によって顔が全く違うのが彦四郎は印象的だった。

「怖い人ばかりだから人が離れていきますし、北部は人通りも少なくて、ちょっと不気味なくらいです。表向きは柏も桜も協力しあってましたが柏派の偉い人が桜派は昔、獅子竹城と仲良くして虎谷城のお城のことを外に漏らしていた、という噂がたってしまって。それで柏派が桜派は裏切り者だって。屋敷を焼き払えっていうらしいんです」
「なんだって?」

彦四郎は獅子竹城と聞いて思わず大きな声で聞き返した。様子の変わった彦四郎にわかばはびくりと肩を震わせた。

「ごめん。その、本当にそんな噂が?」
「はい。でも私、初耳でした。えっと、獅子竹城はもうなくなってしまったのですよね?」
「うん。二年前に。城を奇襲されて、失くした」
「黙って勝手に他の城と仲良くするっていけないことなのですよね?桜派はそんなことする人たちではないと思いましたが」

何気なく言ったわかばの言葉に彦四郎は顔を上げた。

「どうしてそう思うんだい?」
「桜派の主格の庵餅さまはすごく用心深くて、ケチなお方ですから。あと、なによりコソコソした事は大嫌いなんです。だからこっそり他のお城と仲良くなんて、しないかなって」
「じゃぁ、君は桜派が獅子竹城に内部事情をもらしたという噂は嘘だって考えてるんだね?」

彦四郎の言葉にわかばは頷く。彦四郎は獅子竹城の側近の忍びであったが虎谷城とのつながりはないはずだった。それは城主の清之介が心許せる数人のものにしか内政を行わなかった様子からして、清之介が黙って虎谷城と極秘に繋がっていたとも考えにくい。恐らく桜派を失墜させ、柏派の勢力を拡大させるための罠だと思った。

「なるほど。わかった」
「なにがでしょうか?」

力強くいい放った彦四郎の姿を見てわかばはきょとんと首をかしげた。彦四郎はきっぱりと答える。

「どうやらわかばさん、君の屋敷は今ピンチでとっても危険だってことだ。そんな危険なところに僕の教え子を返すわけにはいかないと思う」

彦四郎の言わんとする意味がわからないわかばは微妙な反応をした。彦四郎はわかばがこのまま屋敷に帰ってしまってはその内紛に巻き込まれてしまうことが目に見えた。彼は考えてある提案をする。

「君を僕が責任をもって保護させてもらいます」
「保護・・・?えっと」
「危ないところから守ること。隣の長屋に確か空きがあったから、ちょっと相談してみるか」

その彦四郎の言葉を聞いてわかばはようやく理解した。内紛に巻き込まれることを危惧し自分を守るために手段を考えているのだ。わかばは慌てて首を振る。

「大丈夫です!私、自分の事は自分でします!いままでそうしてきましたし、先生にこれ以上迷惑かけてしまうのは」
「だめだよ。巻き込まれてからじゃ遅いんだ。万が一を考えるとこのままじゃいけない」

彦四郎は脳裏に獅子竹城にいたときのことを思い出す。万が一というのは来るときには来てしまう。その時ではもう取り返しがつかず、なにも手をつくせないまま、消えていくのをただ見ている事しかできないのだ。彦四郎は真っ直ぐにわかばを見つめた。

「僕は先生として、生徒を守る義務がある。このまま放っておけない」

その眼差しにわかばは言葉を失う。彼の言葉には圧力があった。しかし、どこかそんな言葉を彦四郎ならかけてくれるのではないかという妙な期待をしていた自分にも気づいたのだ。

「あの・・・私、先生ならそういってくれるかもって思ってたのかも。私、駄目な子なのかなぁ」

独り言のようにわかばは呟いた。両親を無くし他人に頼るという事をすっかり忘れていたらしい。そんな中彦四郎の存在にわかばは彼をあてにしていたのだ。

「そんなことがあるわけないでしょう。よく来てくれたね。もう大丈夫だから」
「うう、彦先生ぃ・・・」

安心して涙を浮かべるわかばに彦四郎は軽く微笑んだ。しかしわかばを保護すると決まれば色々気を付けなければいけない。このままずっと保護するわけにはいかないからだ。彦四郎は考える。まずは柏屋敷と桜屋敷の情報集めをせねばならない。柏派が桜派にはっぱをかけていることは明らかだ。その証拠をつかみ桜派に知らせる事が出来れば・・・とそこまで考えてわかばの声ではっとする。


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