魔法薬学の教室を出た後、アリアは生徒の波から抜け出して広間へ向かっているドラコを追いかけた。学友たちが彼を囲む前に素早くその手を捕まえて、廊下の隅にあった古い扉から空き部屋へと滑り込む。

苛立ちにまかせて乱暴に扉を閉めると、思いのほか扉が鋭い音を立てて閉まった。その音ですこし頭が冷えて、取っ手を握ったまま一度大きく呼吸した。スラグホーンの声が、まだ耳の奥で響いている。
怒りで体が震えるなんて初めてだった。胸の前でぐっと拳を握って、アリアは唇をかんだ。


「アリア?」

後ろから訝しむような声が聞こえて、アリアはバツの悪い顔でドラコに向き直った。
正直、何を言おうとして彼をここまで連れてきたのか、自分でもよく分かっていなかった。とにかく腹が立って、深く考えもせず、衝動のままに行動した。ほんの少し冷静さを取り戻し、自分の浅慮を省みた今でも、苛立ちは収まることなく湧き上がってくる。

「……ごめん」

一言そう言うと、ドラコは眉を寄せて首を傾げた。

「何のことだ?」
「今のこと、と……さっきのこと。フェリックス・フェリシス、必要だったでしょう」

絶対に手に入ると思っていた。それほど、あの調合には自信があった。アリアは教室にいた誰よりも薬学書をたくさん読んでいたし、昨年の魔法薬学の成績はグレンジャーを抜いて一位だった。スラグホーンも当然それを知っていただろうし、期待されていたのは確かだ。
けれど起こった不可解な逆転劇。自分が魔法薬学でポッターに負けるなど、今までありはしなかったのに。
絶対に何かあると、アリアはそう確信していた。でなければこの結果に説明がつかない。ポッターが母親の才能を受け継いだなんて、そう思って浮かれているのはスラグホーンひとりだ。きっと、なにか裏がある。実力でいけば今頃アリアの手に納まっていたであろう幸運の液体は、今アリアの手の中になる。
フェリックス・フェリシス。
あの場にいた誰よりもアリアが欲し、あの場にいた誰よりも、ドラコに必要なものだったのに。

「……やり遂げるさ」

言い聞かせるようにそう言ったドラコが、項垂れたアリアの頭にぽんと手を乗せる。アリアは顔を上げて彼を見ることも出来ずに、そのまま地面に膝をついて座り込んだ。涙をこらえるだけで必死だった。
あの薬があれば、彼の任務は成功した。彼の家とルシウスの名誉を取り戻し、ドラコは「あの人」に認められ生き延びただろう。そのチャンスをふいにしたのは外でもない、あのポッターだ。
胸の内に憎しみがこみ上げてくる。この5年間、これほどにポッターを憎いと思ったことなどなかった。

「腹は立つけどな。ポッターが魔法薬学で僕らに勝つなんて、今まであったか?卑怯な手を使ったに決まってる。グレンジャーは口出ししてたか?」
「……してないわ。それに、グレンジャーより私の方が上手くできてた」

アリアの答えを聞きながらも、ドラコはアリアの頭から手を離そうとはしなかった。自分も膝をついてアリアの頭を撫でながら話を聞いてくれるドラコに、ようやく胸の内の濁りが和らいだ気がした。
顔を上げて「ありがとう」と微笑むと、ドラコは最後にぽんぽんと頭を叩いて、その手でアリアの手を握る。

「……多分、教科書とは違う方法を試したんだと思う」
「違う方法?なんであいつがそんなこと知ってる」
「分からないけど……一度だけそんな会話が聞こえてきたから、きっと    

そう言いかけた途中で、部屋の扉がギィッと音を立てた。
驚いて見上げる形で振り返ると、開いた扉の隙間から黒い髪と整った顔がひょいと現れた。さっと視線を下げてアリアを、そしてドラコを見た人物は、少し目を丸くして「おっと、」とおどけるように肩を竦めた。

「悪い、逢引中だったか?」

にやりと口角を上げた彼の言葉に、アリアは繋いでいた手を慌てて引いた。ドラコに目をやると、彼は眉を寄せて睨むようにその人物を見上げている。

「何の用だ、ザビニ」
「別に。スラグホーンに呼び止められててさ、遅れて教室出たら、お前らが手繋いでここに入ってくのが見えたんだよ」

そう言うと、ブレーズ・ザビニはそのまま立ち去るどころか、ドアを押して中へ入ってきた。迫るドアに押されるようにして立ち上がったアリアとドラコを交互に見ながら、扉の脇の壁に凭れかかって腕を組むザビニ。
アリアを支えながら立ち上がったドラコが少し前に出て、ザビニの抜け目なくアリアを観察する視線を遮った。

「彼女は敵じゃないぞ」
「あーあー知ってるよ。もう何百回も聞いた」

厳しい声のドラコに、ザビニはうんざりだと言わんばかりに両手を広げて眉を寄せた。けれど、ドラコは未だ腑に落ちないような複雑な視線を向けている。

「……戻るわ」

長居したところで得はなさそうだ。そう判断して、アリアはドラコに短く別れを告げてザビニの横をすり抜けた。視線が追ってくるのを感じたが、アリアは気に留めず足早に廊下を曲がる。
城の中はろうそくが灯り、薄暗い廊下を揺れる光が照らしていた。周囲に人気が少ないのは、もう夕食の時間が近いからだろう。静かな廊下の石階段に靴音が染み入るのを聞きながら、アリアはついさっき聞いた2人の言会話について考えた。

アリアが、学校では極力会わないように、人前でなるべく会話もしないようにと心がけてきたのは、ドラコの立場を考えての事だ。
純血の名家出身とはいえ、ほとんど勘当状態のアリアをよく思わない者はスリザリンに沢山いる。父自身がアリアを「血を裏切る者」とさえ言ったのだから、それも当然だろう。そんな中で、アリアを受け入れてくれたマルフォイ家が非難を浴びることだけは耐えられなかった。
だからこそ表向きには繋がりなどない様に振舞ってきたのだ。会いたい気持ちを抑えながら、必死に耐えて。

ドラコは、ルームメイトにどこまで自分のことを話しているんだろうか。庇ってくれるのは正直に嬉しい。けれど、その所為で彼の立場が悪くなるのは耐えられない。
アリアは、内側に渦巻く不安を吐き出すようにひとつ大きくため息をついて、冷たい空気を吸い込んだ。
喉の奥が、空気に触れて少しだけ冷やされた。

「……どうしてついてくるの」

階段を一番上まで登りきって、アリアは足を止めた。
自分のではない靴音に振り返ると、階段の半ばあたりにいた影が足を止めてこちらを見上げている。

「大広間に行くんだよ。もう夕食の時間だ」

当然だろう、とでも言うような口調で、ザビニが首を傾げてアリアを見た。
再び階段を登り始めたザビニが、アリアのすぐ近くまで歩いてくる。立ち止まったザビニより、アリアの方が2、3段上にいるというのに、目線の高さはほとんど変わらなかった。

「君もそうだろ?ていうか、俺の名前覚えてる?」
「ええ、ミスター・ザビニ。それで私になにかご用?」
「ブレーズでいい」

思いもしていなかった言葉に、アリアは驚いて眉を寄せた。目の前には、ドラコに向けられたそれよりも、幾分か柔らかい表情のザビニ。
今日この日に至るまで、彼とはまともに会話をしたこともない。それどころかグリフィンドール色のネクタイに嫌悪を含んだ視線を向けられることすらあった。
なのに、今の彼からは警戒や侮蔑を一切感じないばかりか、視線が合うとにやりと笑って見せさえする。アリアはますます警戒を強めて、睨むようにザビニを見た。

美人好きで有名な彼は、自身の美貌や血筋もあって、スリザリン以外の女子からも人気が高い。けれど、どれほどの美人でもグリフィンドール寮の生徒を相手にしたことはないと聞く。スリザリンの例外に漏れず、彼自身も純血主義者だからだろうと、そう思っていたのだが。

「……光栄ね。でも、『血を裏切る者』は守備範囲外だと思ってたけど」
「君が本当にそうなら。そうなのか?」
「いいえ」

きっぱり答えると、ザビニが満足そうに頷いた。
未だ警戒しているアリアに一歩近づいて、彼はかるい調子で言葉を続ける。

「今年の夏は実家に帰ったんだろ?ドラコに聞いた」

その言葉に、アリアはぐっと言葉を詰まらせた。
無意識のうちに、身体に力が入る。ドラコは、アリアが実家に帰ったことまで彼に話している。まさか、『あの人』に会ったことや、任務のことも、彼らには話しているんだろうか。
私の知らない、計画のことも。

「……だから?」

早くなった鼓動の音に気付かれないようにと、アリアはますます眉を寄せてザビニを見た。また一歩近づいてきた彼から離れる様に、右足を一歩引く。
ザビニが追いかける様にまた一段登った。

「だから、君は今、僕の守備範囲内ってことさ」

口角を上げたザビニが変わらぬ調子でそう言った。
どうやら口説かれているらしい。てっきり空き部屋でドラコと手を繋いでいるのを見られたと思ったのに、そうではなかったのだろうか。
見ていたとしたら、真っ先にドラコとの関係を聞かれただろう。それとも、それも既にドラコから聞いているのだろうか。
自信に満ちたザビニの表情からはそれを読み取ることが出来ないまま、彼がようやく階段を登りきった。背の高い彼と向かい合えば、当然見下ろされる形になる。

「……それはどうも、ザビニ」

アリアは真っ黒な目を見上げて、彼と同じぐらい余裕のある笑みを浮かべた。あえてファミリーネームを強調して言うと、ザビニは笑みを引っ込めて一瞬驚いたような顔をした。けれどそれも一瞬で、彼は苦笑いを零すと、軽く肩を竦めるだけだ。
思いのほか穏やかな反応に、アリアは言葉を飲み込んだ。てっきり不機嫌になるか、そうでなければなにか言い返されるかと思っていたのに。

「それじゃ、失礼するわ」
「ああ、また明日」

アリアが歩き出すと、ザビニはあっさりと手を挙げて1人で広間へ入っていく。その後ろ姿をちらりと見て、アリアは一度だけ階段下を振り返った。
広間へ行くには必ずこの階段を通るはずだが、そこにドラコの姿はない。今頃、何をしているだろうか。彼の姿が見えなくなるたびに、あのラジアルトの家で聞いたドラコの声が脳裏を過ぎる。

許されるのなら、彼が成功するように自分も精一杯力を貸したい。けれどドラコは未だに頑として口を閉ざし、アリアは彼の計画の一切を知らされないままだ。
自分には、まだ見ぬ彼の計画が上手くいくようにと祈ることくらいしかできない。これほど無力なことはないと思えた。結局、自分に出来ることなどないのだと、その事実だけが突き刺さる。

アリアは広間へ続く扉へと視線を向けたが、少し考えて、そのまま踵を返して歩きだした。
焦がれるほどに望み欲した、フェリックス・フェリシス。あの幸運の薬を得意げに懐に入れたポッターが今もあの中で食事しているかと思うと、並んで食事する気には到底なれない。
床に靴音を響かせながら、収まらない不安や苛立ちを振り払う様に、アリアは足早に寮へと向かった。





===20120603