喉が、渇く。

薄暗く灯りの灯らない室内で、アリアは少しでも喉を潤そうと唾を飲み込んだ。
窓から差し込む光は弱い。その上、昼間だというのにカーテンは閉め切ってある。
アリアは部屋の真ん中の、埃っぽいソファに座っていた。もうどのくらいの時間、ここに座っているだろうか。ふと時計があった場所へ視線をやるが、針は止まったままぴくりとも動かない。……きっと、ここが私の部屋じゃなくなったときに、父様が止めたんだろう。

「(ドラコは……まだあの部屋、かな)」

1階の薄暗い応接間を思い出して、アリアは恐怖で震える肩を抱いた。
暖炉の光でちらちらと揺れる影。スルスルという部屋を周回する音。空間を支配する、あの声。
その全てが、アリアの頭を捕らえて離れなかった。

アリアとドラコ、2人がラジアルトの屋敷を訪れたのは、ほんの数十分前だった。
久しぶりに訪れたラジアルト家の屋敷は、アリアの知っている家とは随分様子が変わっていた。整えられた広い庭もレンガ造りの立派な屋敷も、最後にこの屋敷を見た数年前の時から何ら変わっていない。けれど、屋敷内はどこか冷たい空気に支配されていた。
部屋も廊下も、すべてが薄暗く、寒々しく感じられた。時折父の"仲間"が庭の外で姿現し、姿くらましする鋭い音以外、耳に届く音もない。不思議に思いながら屋敷へ入ったその後、アリアはその違和感の原因を知ることになる。
出迎えたラジアルト家のしもべ妖精に連れられて応接間へ足を踏み入れた、その瞬間、





「よく来た    我がしもべの愛しい子らよ」



聞きなれないその声が、脳に張り付いた。
目の前で口角を上げたあの人の赤い目が、アリアをまっすぐ見つめた。その瞬間、自分の全てを奪い取られたような感覚になった。まるで心の中の記憶や感情や、自分というものを構成する全てを、一瞬にして喰われてしまったような。
そう理解した刹那、アリアは恐怖に身を竦めた。
魔法界の誰もがその名を恐れる闇の魔法使い。今、その人本人が目の前にいて、冷えた目で微笑んでいる。
あの ヴォルデモート卿が。



「お前はグリフィンドールに入ったのだったな」

応接室の、背の高い1人掛けのソファ。
暖炉の前のその席は、父の定位置だった。父がそこに座っている姿を、アリアは生まれてから11年間も見続けてきた。
けれど今日、そのソファに座っていたのは父ではなかった。父は母とともに「あの人」の後ろに控え、あの人を恭しい目で見つめている。
2人の後ろにナルシッサと、その姉ベラトリックスの姿も見えた。
ナルシッサはアリアとドラコを交互に見つめ、不安を悟られまいと口をきゅっと結んでいる。その表情は今にも泣きだしそうだった。対してベラトリックスは、妹とは違う、心底憎いという目でアリアを睨んでいた。その目に宿る感情が父が、自分を見たときの目と同じだと、アリアは思った。激しい憎悪。視線だけで相手を呪い殺せたら、と願っているかのような、鋭い殺気。
そしてそんな彼らを後ろに従え、心底冷えた目で微笑んでいる、闇の帝王。

アリアはちらりと両親へ視線を向けた。母は不安そうな目でアリアを見つめている。父は「あの人」が放ったグリフィンドールという言葉に一瞬眉を寄せはしたが、「あの人」から視線を背けはしなかった。


「満足しているか」

低い声で「あの人」がそう言った。その言葉に反応するかのように、アリアの足元をスルスルと大蛇が通り過ぎて行く。隣に立ったドラコが大蛇を見て息を呑むのが聞こえたが、アリアは「あの人」から目を逸らさなかった。否、逸らせなかった、の方が正しい。
まさに、蛇に睨まれた蛙だった。その鋭い目から視線を逸らすことも、身動きすることすら叶わず、アリアは何とか口を開いた。
渇いた喉を通って、かすれた声が部屋に響く。

「わた、しは……っ…私は、いつでも、スリザリンを望んでおりました……もちろん、今も」
「お前のことを、血を裏切る者だと言う者もおるが?」

うるさく鳴る鼓動を押さえつけようと、アリアはぐっと拳を握った。父はまだアリアを見ようとはしなかった。ソファに腰かけていた「あの人」は目を細めてアリアを見、そして口角を上げた。

「私は、この身体に流れるこの血に誇りを持っています。穢れた血と慣れ合うなど……っ」
「その血に誇りを持っている……」

「あの人」がアリアの言葉を反芻し、その言葉にようやく父の視線がアリアに向く。
眉を寄せたままの父の表情からは、感情など読み取れなかった。

「あの人」は笑みを浮かべたまま、今度はドラコに視線を向けた。ナルシッサの顔がさっと青くなる。
ドラコはますます体を固くしたが、「あの人」が自分に向かってゆっくりと腕を上げるのを見ると、右足が僅かに後ろへ下がった。
まるで、体が無意識にその手から遠ざかろうとしたようだ。
アリアは言い知れない不安を感じながらも、「あの人」から視線を外せなかった。
ゆっくりとドラコに向けられた手は真っ白で、まるで生気など感じない。

「ルシウスは失敗した……俺様の信頼を裏切った」
「!!」
「ドラコ、お前はどうだ。父の代わりに……己と父の栄光を取り戻したいか?」

細い指が、誘う様に曲げられる。思わずアリアは隣に立つドラコへ視線を向ける。その目に、恐怖とは別の感情が現れたことに気付いた。それは驚きの様でもあり、興奮の様でもあった。
途端に、アリアは手を伸ばしてドラコを引き留めたい衝動に駆られた。その腕を掴んで、「ダメだ」と叫び、彼を連れてこの部屋を飛び出したい。「あの人」の目の届かないところへ、一刻も早く。
けれど、目まぐるしく回転する脳とは裏腹に、アリアの身体はピクリとも動かなかった。耳の奥に自分の鼓動を聞きながら、アリアはドラコが一歩前に踏み出すのを黙って見ていた。

ドラコの手が「あの人」の手を取る     今ならまだ間に合う。まだ、彼がYESと口を開かないうちに、ここから早く    
しかし頭の中で巡るどんな言葉も、アリアの体を動かしてはくれなかった。ナルシッサおば様が更に目を見開いて、口元を両手で覆う。両目からは今にも涙が溢れそうだった。

「必ず取り戻します……僕が」

力のこもった眼で、ドラコがはっきりとそう言った。







トントン、というノック音で、アリアの意識は恐怖の渦の中から埃っぽい自室へと戻ってきた。振り返って扉を見ながら、早鐘のように鳴る心臓の上に手を置く。

「ドラコ……?」

か細い声で扉の向こうに声をかけたが、返事はすぐには帰ってこなかった。しかしアリアが扉を開けようと立ち上がった時、ノブが下され遠慮がちな高い声がアリアの耳に届いた。

「し、失礼いたします」

扉が僅かに開き、人の手よりも地面に近い位置に盆とティーセットが現れた。
さっと部屋の中に滑り込んだ影は、地面に頭が付くほど深くお辞儀をし、そして丸い大きな目でアリアを見上げた。

「キティ……」
「あ……お、お茶をお持ちいたし、まし……た」

影は慌てて扉を閉めると、ドアに耳を近づけて廊下に誰もいないことを確認し、震える手で盆をテーブルへと運んだ。

キティという名のしもべ妖精は、アリアの父、レイバンが生まれる以前からラジアルト家に仕えている。今日、アリアが震える手で玄関扉をノックしたときに2人を出迎えたのもキティだった。
彼女はアリアを見ると大きな目を更に見開いて、それから老いた顔に悲しそうな表情を見せて、深々とお辞儀をしたのだった。

「どうぞ……お嬢様」

暖かい紅茶を注いだティーカップをテーブルに置いて、キティは再び頭を下げる。
アリアは湯気立つ紅茶へ視線を向けた。端の欠けた古いカップは、おそらくキッチンの食器棚から持ち出したものではない。主たちが使わなくなった古いティーカップに、人目を盗んでこっそりと紅茶を淹れてきたのだろう。
彼女がそうした理由をアリアは理解していた。主人が望まない客人に茶を出すなど、しもべ妖精は絶対にしてはならない。
アリアは思わず肩を抱いた。
久しぶりに見た父は、何の感情もなく、まるで赤の他人を見る様な目でアリアを見た。父にとって自分は、もう既に娘でも何でもないのかもしれない。

「……キティ、ひとつだけ聞いていい?」

そう聞くと、キティは体を震わせて飛び上がった。目を丸くして、口を開けたり閉じたりしながら困惑してアリアを見つめる。

「お、お嬢様とは必要以上に話をするなと……ご主人様が」
「ひとつだけよ」

強い口調でそう言うと、キティはそれ以上抵抗しなかった。気まずそうに両手を合わせて、小さく頷く。それでも目はしっかりとアリアに向けられていた。
アリアはキティの肩辺りを見つめながら、ゆっくり口を開いた。

「もし、私が死んだら……父様は悲しむかしら?それとも、」
「ご主人様のお気持ちを、キティのようなしもべが語ることは出来ません……」
「……そうね、ごめんなさい」

言い淀んだその問いに、キティは視線を背けながらも素早く答えを返した。アリアはふっと息を吐いて額に両手を当てる。
馬鹿なことを。答えなんて当に解っているのに。何年もの間アリアがひとりで抱えてきた不安は、ここへきてようやく確信へと変わった。私はもう、父に愛されてはいない、と。
それでも自分は、嘘でもいいから誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。悲しいと、そう言ってもらえる事で、何かひとつ、覚悟が決まるような気がしていた。
少しでも悲しんでもらえるのなら、それでいいと。

「け、けれどお嬢様……」

伏せたアリアに、キティが一歩近づいて膝をついた。
祈るような目でアリアを見上げて両手を組み、必死に首を振る。目に涙を浮かべて、キティは震える声を絞り出した。

「キ、キティは、とても悲しいです……」
「…………」
「死んだらなんて、そんなこと仰らないでください、お嬢様」

アリアが驚いてキティを見ると、彼女は今にも零れそうな涙を服の裾で拭った。小さな声でしゃくり上げて泣くしもべ妖精に、アリアは自然と頬が緩んだ。
胸の内に感じていた不安が消え、この小さく老いぼれたしもべ妖精に対する感謝の気持ちでいっぱいになった。
こんな言葉でさえ、今のアリアには支えになる。

「泣かないで、キティ」
「…申し訳ありません……っ」
「もう行っていいわよ。紅茶は飲み終わったらテーブルの下に隠しておくから、父様に見つからない時に片付けて」
「!」

「ありがとう、キティ。あなたがいてよかった」

キティは丸い目を更に見開いて、そして再び深くお辞儀した。堪えきれず零れた涙が2、3滴、絨毯に染み込んだ。
音もなく扉の向こうへ消えたキティを見送って、アリアは紅茶を一口飲む。アリアの好きなアップルティーだった。気持ちはまだ落ち着かなかったが、喉をすっと流れていく紅茶が、喉の渇きと一緒に恐怖を和らげてくれたような気がした。



アリアが紅茶を飲み終える頃、廊下に響く足音が耳に届いた。
慌ててカップを机の下に滑り込ませると、同時に部屋の扉がバタンと開く。アリアは思わず立ち上がって、現れた青白い顔を見つめた。

「ドラコ……」

後ろ手に扉を閉めながら、ドラコはしばらく複雑な顔でアリアを見つめていた。その表情は今にも泣きだしそうであり、何かを決意したようでもある。そしてその奥に、僅かに高揚した表情が隠れ見えていた。
尋常ならざるドラコの様子に、アリアが再び口を開こうとしたとき、それよりも先にドラコがアリアに駆け寄って抱きしめた。

「ドラコ、どうし   
「アリア」

驚いたアリアをよそに、ドラコは腕に力を込めたまま小さな声でアリアを呼んだ。その表情を窺えぬまま、アリアは頭の上から聞こえるドラコの声の震えに眉を寄せた。
小さな声ではあったが、弱々しくはない。はっきりとした声でドラコが言葉を続けた。

「準備が必要だ……」
「…………」
「僕が選ばれた……やらなきゃいけないんだ」

その言葉に、背筋が凍った。
僅かに落ち着いていた心臓は再びうるさく鼓動し、脳がぐらりと揺れた。あの時、ドラコに向けられた「あの人」の微笑が視界を覆い隠したようだった。

「ド、ドラコ……」
「僕の力を試されているんだ……どう計画を立てて、どう実行するか……すべて僕に任せると言って下さった」
「…な、に………」
「僕がやる。そうすれば父上も母上も、みんな助けられる」
「…………」
「君は僕の傍にいるべきだ。それを証明できる。僕があの方の信頼を勝ち得れば、君の父上だって……」

その声は一言発するたびに力強く、自信を得ていくようだった。
アリアが顔を上げると、ドラコの青みがかった灰色の目がアリアを見つめている。
ドラコの手がそっと頬に触れた。いつもならそんな行動ひとつひとつが熱を帯びるのに、今はそんな余裕もなかった。
不安で高鳴る鼓動ばかりが耳にうるさく、ドラコの言葉の意味もほとんど解らないまま、アリアはドラコの手に触れた。
握ったドラコの手が予想以上に暖かく、自分の手がこれほど冷え切っていたことに心底驚いた。

「……何を、言われたの」

絞り出した声で、アリアはそれだけ言った。
ドラコの目から視線を逸らせない。胸の奥で、聞きたくないと思う不安と聞かなければと思う恐怖が綯交ぜになっていた。
真っ直ぐ見据えたドラコの目に、恐怖はない。それが余計にアリアの恐怖を増幅させた。
ドラコは低い声で、しかし自信に満ちた声ではっきりと、その目的を告げた。


「ダンブルドアを、殺せと」


その言葉ひとつを完全に理解するのに、その言葉が脳の奥まで浸透するのに、とてつもなく長い時間を要した。
まるで耳が、頭が、その言葉を拒絶しようと厚い膜を張ったかのようだった。
ようやくその言葉を理解したとき、そしてそれを実行するのが目の前にいるドラコ自身なのだと理解したとき、アリアは今まで以上の恐怖で声が出なかった。
「理解の時は必ず訪れる。君にとって一番大切なものは何かを、その時までによく考えておくことじゃ」
いつか、あの不思議な部屋で聞いた穏やかな声が、耳の奥で聞こえたような気がした。





===20111211