9月1日はさわやかな秋晴れの日だった。
アリアはいつも通り、出発を待つホグワーツ特急に早々と乗り込んだ。人影は少なく、汽笛の音だけが騒々しくプラットホームに響いている。車内にも、生徒の影はほとんどなかった。

ここまで一緒にやってきたドラコとナルシッサは、まだ9と3/4番線の外にいる。彼らより一足先に汽車に乗り込み、ドラコがホームで学友を見つけるよりも早く、無人のコンパートメントにひとり腰かけて本を開く。
それが毎学期、休み明けのいつもの光景だった。まだ人の少ない車内を歩くと、無人のコンパートメントはすぐに見つかった。浮遊呪文でトランクを上げ、読みかけの本のページが空中で捲れていくのを見ながら、アリア慣れた様子で扉に杖を向ける。
その時、こんこん、と窓を叩く音に振り返って、アリアは驚いて慌てて窓に駆け寄った。窓を開けると、外に立っていたナルシッサが疲れた表情で両手を伸ばしてきた。

「おば様……どうしたの?お別れならさっき   
「アリア、」

もうホームの外にいるだろと思っていたナルシッサは、両手でアリアの頬を包んだ。ひやりとした冷たい手だった。

「気をつけて、アリア。決して無茶はしないと約束してちょうだい。それと、危なくなったら必ず逃げると」
「…………」
「お願いよ……」


懇願するようなナルシッサの声はひどく小さかったが、アリアの耳までしっかり届いた。
ここ数日、アリアはナルシッサとまともに話せていなかった。ナルシッサは、ドラコがいると異様に息子を気にかけて心配し、それでよくドラコと口論をしていた。ドラコがいないと言葉も発せず、ただ顔を伏せて震えているばかりだ。
そんなとき、アリアは彼女をただギュッと抱きしめるばかりだった。ナルシッサの不安は、アリアにもよく理解できる。

両頬を包む手に触れて、アリアはなるべく明るい笑顔を作った。ドラコの心配で頭がいっぱいのナルシッサに、これ以上心配事を増やしたくなかった。

「約束します。だから心配しないで、おば様」

ナルシッサの目がすっと細くなって、目尻に涙が溜まった。その言葉ひとつで不安を拭い去れたとは思わなかったが、ナルシッサは僅かに微笑もうとした。

「困ることがあったら……先生を訪ねなさい」
「先生……?」
「あの方は必ず力になって下さるわ。そうお約束したのよ」

その時、再び汽笛が鳴ってアリアが視線を上げると、ちょうどホームにドラコの姿が見えた。スリザリンの学友を見つけたらしく、いつもと変わらない様子でホームを闊歩している。
コンパートメントの外を誰かがバタバタを走り抜けていく。アリアは「先生」が誰かを聞かないまま、ナルシッサの両手を離した。ホームも少しずつ賑わってきたし、いずれにせよ、こんなところで堂々と話せる内容でもない。ナルシッサの目尻の涙を拭って、アリアはその頬にキスをした。

「愛してるわ、おば様」

今度こそナルシッサが微笑んで、そして背を向けて歩き出す。その後ろ姿を見送って、アリアも窓を閉めた。廊下を再び誰かが駆け抜けて、アリアはもう一度扉に杖を向けた。
接着呪文を唱えると、扉は隙間もなく完全に密封された。これで、誰かがこのコンパートメントに入ってくることはない。

アリアは座席に腰かけてもう一度窓の外に視線を向けた。ナルシッサの姿はもう見えなかった。


「僕が選ばれた……僕がやらなければならないんだ」



当然ナルシッサも、あの日「あの人」からドラコに告げられたことを知っている。そしてアリアと同様に、その言葉に隠された意味に気付いたのだろう。だからこそ、ドラコが物怖じしていないことに余計な恐怖を掻きたてられた。


「あなたが……あなた、ひとりで…?」
「あのお方は、僕が君に伝えることを許してくださった。必要ならば、君も僕の計画に加わるようにと」
「…………」
「でも、試されているのは僕だ。僕が成し遂げなければいけない。父の代わりに……」
「ダメよ」



到底、ドラコひとりで成せるとは考えられなかった。
相手は「あの人」でさえ一目置く魔法使い。それを、まだ成人もしていない16歳の学生が相手取れるなどと誰が期待するだろうか。


「たったひとりで……そんなの危険すぎるわ。絶対にダメよ」



成功するはずがない。ましてや、「あの人」が事の成功を期待しているはずもない。だとしたら、なぜドラコにそんな無謀な使命を与えたのか。
なぜ、ドラコが選ばれたのか。


「ドラコ、私も計画に入れて」
「…………」
「私も手伝うわ。ひとりでなんて危険すぎる」



腹心の部下の息子だから?それだけの理由ではこの作戦の必要性に乏しい。ドラコひとりが何をしようと、相手が相手だ。
例え別の目的から目を逸らすための囮だとしても、目の前を飛ぶ蚊ほどの興味も引けないだろう。
なら、何故。


「ひとりじゃない」
「……どういうこと?」
「考えがある……しっかり計画を練る必要がある。確かめなければいけないことも……でも、必ずうまくいく」



「あの人」の声に、期待など微塵にも含まれていなかった。ただ少し汲み取れたのは、ドラコを通して見えた、怒り。「ルシウスは失敗した。俺様の信頼を裏切った」。そう言った時の、あの吐き捨てる様な声色。

アリアは目を閉じて、小さくため息をついた。目の前でページを捲っていた本が、バサッと音を立てて床に落ちた。
汽笛が聞こえる。車内が騒がしい。
出発の時間が近いのだろう。コンパートメントの窓を開けて家族にお別れを言う声が、遠くに聞こえた。ガタン、と車体が揺れる。汽車が出発した。アリアは顔を伏せて頭を抱えた。

目を閉じると、ドラコの声ばかりが耳の奥に木霊する。


「心配するな」



「……無理よ」

心配しないことも、彼を置いてひとりで逃げ出すことも。
どんなに危ない状況になろうとも、逃げ出すなんて出来ない。出来るわけがない。無謀な危険を冒そうとしているドラコを、ひとりになんてしておけない。

アリアは落ちた本をそのままに、ぼんやりと窓の外を眺めた。走る景色の中で、鳥が数羽はばたいている。
自由に飛び回る鳥は、小さなコンパートメントの中にいるアリアなど見向きもしないで空の彼方へ飛び去っていく。
深く考えず、アリアは鳥に向かって手を上げた。去っていく鳥を追いかける様に手を伸ばすと、コツン、と爪先が窓に当たる。透明な壁に隔たれて、それ以上先へは進めない。ぎゅっと、その手を握りしめる。

「…エイビス、」

杖を上げて、呪文を唱えた。杖先から黄色の小鳥が飛び出して、狭いコンパートメントの中を囀りながら飛び回った。杖を振ると、鳥の毛並みは黄色から光を浴びて輝くプラチナブロンドへ変化する。
見慣れた色だった。アリアは持ち上げていた杖を下ろして、青みがかった灰色の瞳の鳥を見上げた。頭上をくるくると旋回する小鳥は、行き場所もなくただ飛び回っている。

その時、コンコン、と扉を叩く音が聞こえて、アリアは小鳥から視線を外した。
コンパートメントの扉の向こう側に、見慣れないセイウチ髭の男が立っていた。アリアが眉を寄せると、男はにこりと笑顔を作って杖を取り出す。その途端、密封されていた扉は元に戻り、男が扉を開けた。

「いやいや、お邪魔してすまない。あまりに素晴らしい鳥だったのでな!」

遠慮なくコンパートメントに足を踏み入れながら、男はアリアの向かいの席に腰かけた。背の低い丸々と太った老人で、アリアに向かってひたすら笑みを浮かべている。

「たった今、この前を通りがかったところでね。そちらが、このドアに呪文をかけた張本人とお見受けするが?」
「……扉は元に戻します。読書の邪魔をされたくなかったので」
「ああ、もちろんそうだろう。いや、なに、ドアをくっつけたことを咎めているわけじゃない」

アリアは不審げに眉を寄せて、男の足元に転がったままの本を拾い上げた。この列車に乗っているということは、恐らく教師だろう。
今年も例に漏れず、『闇の魔術に対する防衛術』の教師席が空いていることを思い出しながら、アリアは男を見上げた。

「あの、失礼ですが……」
「おっと、名乗りもせずに申し訳ない!ホラス・スラグホーンだ。今学期から魔法薬学を教えることになっていてね」

聞き覚えのある名前だった。アリアは少し背筋を正して、当たり障りのない笑顔を浮かべる。


「そのお名前でしたら存じています」
「ほう!それは光栄だ」
「でも、魔法薬学というのは?スネイプ先生はどうされたのですか?」

おっと。
スラグホーンはそう言って一瞬口を閉ざしたが、考え込むように短く喉を鳴らして再び口を開いた。

「あと数時間もすれば知る話だ。今言っても構わんだろう……スネイプ先生は、『闇の魔術に対する防衛術』の担当になられる」
「そうでしたか」

スネイプが毎年『闇の魔術に対する防衛術』の教師枠を希望しているのは有名な話だ。あの防衛術の教室で機嫌よく語り歩くスネイプと、大いに落胆するグリフィンドール生が容易に想像できる。他の寮はともかくグリフィンドール生にとっては、真に有り難くない話だろう。
アリアは残念だ、と少し肩を竦めた。スネイプの魔法薬学はハイレベルで無駄がなく、お気に入りの教科だった。……新しい教授が、期待外れでなければいいが。
見定める様な目でアリアが視線をスラグホーンに向けると、彼も同じような目でアリアを見ていることに気付いた。目が合うと、スラグホーンは人当たりの良い笑顔を浮かべる。

「君の名前と学年を聞いてもいいかね?」

禿げ頭の下のちいさな目が、まるで美術品の鑑定士のようにきらりと光った。

「6年のアリア・ラジアルトです」
「ラジアルト?もしやレイバン・ラジアルトの娘かね?母はアデル・グリーングラス?」

アリアは、ラジアルトの名前を聞いてスラグホーンが少しだけ身を引いたのに気付いた。額に皺が寄り、アリアに向ける視線が興味や期待といったものから、警戒へと変わる。
あからさまな態度に、アリアはすっと目を細めた。スラグホーンはスリザリンの寮監だったと聞いているが、その反応は些かスリザリンの意志から外れているような気がした。

「ということは……君もスリザリンなのかな?」
「……いいえ、私はグリフィンドールです」
「ほっほう」

小さく呟いたアリアの言葉に、スラグホーンは興味を取り戻したようだった。
アリアは握った拳を隠すように両手を重ねて、視線を落とす。
この言葉を口にする度に、自分の呼吸を止めたくなる。恥じる気持ちが脳を占拠して、腹の底がギュッと萎んでいくような感覚。
だが、そんなアリアの心情など知る由もないスラグホーンは、物珍しげにアリアを見た。

「これはまた珍しい。スリザリンに名を連ねる名家からグリフィンドール生とは!」
「…………」
「ああ。いや、すまない。お父上はあまりお喜びにならなかったのだろうな……」
「そうですね」
「あー……その、ご両親はお元気かね?というのは……つまり2人とも、今は家に?それともどこか、別の場所に?」

視線を漂わせながらスラグホーンが問いかける。アリアは彼の言う「別の場所」がアズカバンを指すことにすぐ気が付いた。
ルシウス・マルフォイは投獄された。世間的にはラジアルト家も    マルフォイ家ほど大っぴらではないが    同じく純血こそ至高と謳う歴史古い一族だ。
犯罪者や闇の魔術に傾倒しているかもしれない者はなるべく避けたい、危ない橋は渡りたくない、ということだろうか。
ここでアリアが「ええ、今は2人ともアズカバンに」とでも言おうものなら、きっと彼はすぐにここを立ち去り、以後必要以上にアリアと関わろうとはしない。そうなればこの後の列車旅をゆっくり1人で、誰にも邪魔されず過ごせるだろう。
しかしアリアの両親は投獄されていないし、今も表向きの定評は守られている。そしてラジアルトの娘であるアリアには、その定評を守る義務がある。例え父が、自分をラジアルト家の一員と認めていなくとも。

「ええ、父も母も家に。先生のことは母から伺いました」
「そうか……そうかそうか!いや、元気なら何より!いやいや、ならば君はご両親と同じく優秀なのだろうな」

家に、と聞いて、スラグホーンの声がいっそう高くなる。大変喜ばしいことだ、と何度も繰り返して、彼はアリアの肩を叩いた。

「魔法薬学のNEWTクラスは受講する予定かね?」
「ええ、その予定です」
「それは楽しみだ。ちなみにOWLの結果は……いや、今はやめておこう。君の成績表を見る楽しみがなくなってしまう」
「ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが」
「おやおや、それは謙遜だろうね?少なくとも、魔法薬学は『O・優』のはずだ。スネイプ先生のNEWT基準はそうだった」

満足そうに深く頷いて、スラグホーンは立ち上がった。
コンパートメントを出ていく後ろ姿を見て、アリアがほっと溜息をつく。ようやく、いつも通りの静かな時間が過ごせる。しかしそう思ったのも束の間、廊下に出たスラグホーンが期待の眼差しで振り返った。

「さて、それではアリア。ランチを一緒にどうかね?実は他にも数名呼んでいるんだが……」
「……アリア、ですか?」
「むろん、君が読書を中断する気になってくれればの話だがね」

正直な気持ちを言葉にするのなら、答えは「NO」だった。けれど期待の籠ったスラグホーンの目には、アリアが首を横に振るなどとは想像もしていないだろう。
あらゆる分野への確かな人脈と、逸材を見つける優れた目を持つと言われるホラス・スラグホーン。
その彼が今自分に目を掛けている。否、正確にはまだ、彼の目に留まった程度だろうか。しばらく考えた後、広げかけていた本を再び閉じてアリアは微笑んだ。

「……私でよろしければ是非。スラグホーン教授」




===20120129