試験をさぼった。

満天の星の下、東塔の一番高い窓を開けて憚ることなく大きく欠伸をした。白い息が暗闇の中に飛び込んで拡散する。季節は春といえど、陽が落ちたこの時間の風は底冷えするほど冷たかった。ローブを襟元まで上げて、その中に口まで埋める。耳を冷やす風の音に目を閉じた。
寒いのは嫌いじゃない。

今頃天文学を選択している生徒は反対側の塔で試験中だろう。試験官の持つ生徒リストには、当然受講者である私の名前も載っている。受けてやる義理はないが。もともとN.E.W.T試験など興味もなければ必要性を感じたこともない。ホグワーツ史上最悪とも謳われる問題児が、素直にO.W.L試験をパスしただけよかったと思ってほしいものだ。
授業は受けてもいい。けれど試験に受かるために猛勉強したり、くだらない監督官の元で必死に教科書を捲る気にはどうしてもなれなかった。N.E.W.T.学生たちは、試験さえ終ってしまえば卒業までもう授業は殆どない。
教科書など持っていても邪魔なだけだと早々に判断して、つい先ほど全て灰にしたばかりだ。
必要ないものは捨てる。必然的な行動。

「そうは言っても、君は思い切りが良すぎると思うけど。鞄ごと燃やすなんて」
「教科書入れとくための鞄だし。もう取っておく意味もない」
「図書館の本もいくつか入ってただろ」
「忘れた」

反対側の窓枠に腰かけていたリドルが、手元に視線を下ろしたまま呆れた声で言った。受験者以外の生徒が出歩いていい時間はとっくに過ぎているが、今更彼に規則について説いたところで無意味だし、第一言えた義理でもない。当然のようにそこにいるリドルに、こちらも視線を向けることなくぼんやりと空を見上げた。
黒い空で瞬く星。その小さな光が、何億光年離れた遥か遠い場所で燃えている大きな星なのかと思うと不思議な気持ちになった。どれだけ熱く燃えていようと、それを確かに見上げている自分は今、ここで寒さに体を抱いているのだ。
そんなことを考えていると、背後でピン、と何かを弾くような音がした。ふり向くと、小さく光る金属の何かが、リドルの手から浮かび上がり、そしてまたその手に戻ったところだった。
落としても知らないよ、と一応声をかけるが、彼が聞く耳を持つはずもない。それは何度も何度も、彼の指に弾かれては宙を舞った。

「なに、それ」

ついに興味が沸いて、そう聞く。
リドルはその後も数回その金属を弄び、そしてようやくこちらに視線を向けた。

「触ってみるかい?」

意外にもそう言って、彼がこちらに手を伸ばした。
彼の掌に乗った銀色の光るものを見て、思わず眉を寄せる。それは大きな黒い石のついた指輪だった。
指輪に掘られた細やかな細工は素晴らしかったが、そのごてごてした装飾はあまりにも彼のイメージから掛け離れていた。

「そんな似合わないもんいつ買ったんだ」
「買ったんじゃない」
「……リドルくんさぁ、盗みは犯罪って知ってるか?」
「盗んでもいない。大体、君に責められる謂れはないだろ」
「ひとのこと犯罪者みたいに言うな」

そう言って、リドルはその指輪を自分の指にはめた。正直似合わないとは思ったが、しかし身に着けてしまうと彼の空気によく馴染むような気もした。その石の光は冷たくもあり荘厳でもあり、他人を魅了する。まるでリドルそのもののようだ。

「もともと、半分は僕のものだ」

その言葉が嘘か本当か、どんな意味かは知らないが、そう言われれば納得してしまうほど自然に、何の違和感もなくそれは彼の指に納まっていた。まるで、そこに在るのが当然だと言わんばかりに。
暫くその様子を眺めていると、リドルはふたたびそれを指から抜き取って、こちらへと差し出してきた。触ってみるか、という先ほどの言葉はまだ生きているらしい。
立ち上がって、その指輪に手の届くところまで近づく。けれど手を伸ばし、その指輪に触れようとした間際、私は一瞬迷って手を引っ込めた。

「……やっぱいい」
「どうして」
「なんか、気持ち悪い」

一歩身を引いてそう言うと、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。不機嫌というよりは、嫌悪に近いが。
彼はたまに、こういう顔を見せることがある。不快感を隠そうともしない、侮蔑の眼差しがこちらに向けられる。教師や取り巻きには絶対に見せない表情だった。

「これが何かを知らないからだ」
「それ、そんなすっごいもんなの」
「君などには推し量れないほどの価値がある」
「へーそりゃすごい。どっからそんなもん手に入れたのやら」

語気を強くした彼が、差し出していた指輪をまた自分の指にはめる。その動作を、目で追う。
触れたいとは思わない。それは正直な気持ちだったが、その指輪に、ただの宝石らしからぬ魅力を感じたのも本当だった。
茶化すように肩を竦めると、リドルは嘲るような一瞥を寄越す。その視線は不愉快だが、これ以上突っ込むのはよそう、と私は彼から少し離れた壁に背中をつけた。
非常に不本意だが、リドルのこういった視線にだいぶ慣れてきた自分がいるのも事実だった。

かみ合わないことも多いし、時には衝突もする。
それでもこうして同じ時間を過ごしているのは、彼から向けられる感情に、侮蔑はあっても拒絶はないからだ。むしろ彼の言動は時折、私のスリザリンらしからぬ想念を、なんとか軌道修正しようとしているようにも見てとれた。
時には、異常なまでの執着で。


「君は」

幾何かの沈黙のあと、リドルがぽつりとそう呟いた。
視線だけを向けると、彼は指輪を見つめている。今呟いたのが本当に彼なのかと疑いたくなるほど、こちらに意識を向けていない。
珍しい。こんな風に釈然としない彼は初めて見た。明にしろ暗にしろ、いつも明確な感情を人に向ける彼が、まるで無意識に、思わず零れてしまったような話し方をするなんて。
黙ったまま次の言葉を待っていると、彼はぼんやりとしたまま、しかしはっきり言葉を紡いだ。

「人を殺したことがあるか」
「あるけど」

あ、また珍しい。
間も入れず答えた私の応えに驚いたのか、彼はようやく視線を上げた。その表情からは、ただ驚きだけが読み取れる。そこにはいつもの毅然とした、あるいは侮辱的な態度はまるでない。ある意味年相応な、まだ少し幼さの残る少年の顔だ。へえ、こいつ、こんな顔もできるのか。

「……あるのか」
「あるっつってんだろ。嘘ついてどうすんだ」
「いつの話だ」
「もう何年も前。マグルを1人。向こうの学校行ってたときに」

それは、自分が魔女だと知る直前のこと。なぜそうなったのか、状況はよく覚えていない。けれど殆ど事故のようなものだったとは理解している。同級生の男の子だった。数日入院して、結局死んだ。
古い話だ。そんなこともうすっかり忘れていたし、そもそも罪の意識を感じたこともないのだから大して印象的な事件でもなかった。死んだ子の顔すら、もうまともに思い出せない。

「なに、この話聞きたいわけ?」
「……」

そう聞くとリドルは少し眉を寄せた。けれども彼の顔に、軽蔑や非難の感情は浮かばない。正直そんな反応もどうかとは思うのだが、先にも指摘を受けたように、善悪に関して説けるほどの人格者でもない。
否、そもそも彼の大嫌いなマグルが1人2人死んだところで、何ら感情を揺さぶる話でもないのだろう。ほんの短い沈黙のあと、リドルはいつもの様子で首を振った。

「いや、別にいい」
「そりゃよかった」

有り難いことに、リドルは事の詳細にはまるで興味を示さなかった。昔の自分について話すなんて、こんなに面倒で億劫で無意味なことはない。
ただひとつだけ気になるのは、彼の目から私に対する嫌悪の色が消えたことだ。「人を死に至らしめた」という答えが、少なからず彼の所期を満たしたようだった。有り難いことだが、あまりにも異常な反応だ。

時々思う。彼という人間は、おそらく一欠けらの良心、あるいは情といった感情も持ち得ないのだ。
情の真似事は出来る。けれどそれは周囲の人間から得た「知識」であり、彼自身から湧き上がるものではない。リドルは出来た人間だ。けれど状況に応じ最適な選択が出来るということは、必ずしも人格者であることとは結びつかない。彼のそういう非人間的な部分が、一番恐ろしい。
だからと言って彼と距離を置こうとしないのは、彼の非人間性に、私が心地よさを感じているからだろうか。
     だとしたら、私も充分異常だ。


「お前もあるだろ」

確信に満ちた問いかけ。
何がは言わずとも彼に伝わったようだ。リドルは肯定も否定もせず、ただ口の端を上げて嫌味っぽくこんな言葉を返した。

「ひとのことを犯罪者みたいに言うな」

ああ、こいつと私は、意外に似ているのかもしれない。燭台に灯された蝋燭のわずかな光を受けて、黒い石が赤く輝いた気がした。






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20140502