思えば、名前を呼んだことはそう何度もない。
いつもお前、だとか、クソガキ、だとか、そんな風に彼を呼んでいた。呼び方に関してはお互い様で、彼も私を名前で呼んだことなどなかったように思う。

いつだったか、羊皮紙を広げた彼が、その羊皮紙いっぱいに自分の名前を書いたことがあった。自分の名前を綴るその行為自体を憎むかのような強い字体で、羽ペンを動かしていく。そして書き終ったあと、杖を取り出して一振りしてみせた。
たった今描かれた文字が小刻みに動きだし、広げた羊皮紙の上をスルスルと移動していく。数秒後、その文字があるべき場所におさまったとき、私は思わず眉根を寄せた。

「アイアム、ロード、ヴォルデモート?」

並んだ文字を声に出して読んで、視線を上げる。ソファに腰かけ、肘掛けに凭れかかっている彼。先ほど自分の名前を綴ったときの表情とは打って変わって、満足げな顔で頷いてみせる。長い脚を優雅に組み、整った顔に不敵な笑みを浮かべたその人物は、自分の名前を自分で構築し直した。
紙上で光るその文字をもう一度見つめて、私はハッと嗤う。

「クソかっこ悪い名前」
「言ってろ」

私の罵倒など意に介さない態度で、彼はただ口角を上げる。談話室には誰もいなかった。青緑色のうすら寒い光の中で、蝋燭と暖炉の火だけが赤く燃えている部屋。そこで彼は、私にあの名前を教えた。彼の描く未来の、最初の足掛かりになる名前として。
彼は羊皮紙を丸めると、躊躇いもせずそれを暖炉に投げ入れた。ぱちぱちと音を立てる炎を見つめて、

「今に恐怖そのものになる」

はっきりと、そう言い切った。
自信にあふれたその声色からは、描く未来に向けた不安や、躊躇いなど微塵も持ち合わせていないのだろうと思わせる強さがあった。ふぅん、と相槌を打って、赤に包まれて焦げていく羊皮紙を見つめた。立ち上る煙はまるで彼の心を表すかのように、真っ直ぐ上へと向かい、そして見えなくなる。

「この名前を忘れるなよ。いつか必ず、もう一度聞くことになる」

視線を彼に戻すと、彼もこちらを見ていた。深い色の瞳が、暖炉の炎のような赤みを僅かに含んでいた。

その名前を聞いたときは、大した興味も持たなかった。恐怖にも支配にも、興味がなかったのだから仕方がない。あのときは軽く聞き流した。他愛のない会話の一部くらいにしか認識していなかったが、まさかそれが今になって、本当に思い出されることになるとは。





「最悪な有言実行しやがったな、あいつ」

手にした日刊預言者新聞。そのページに目を落した瞬間、思わずにやりと笑ってしまった。冬の冷たい風の中を歩きながら、銜えていた煙草を吐き捨てる。雪の上に落ちた煙草がジュッと音を立てて最後の煙を立ち上らせた。
新聞には、” 恐怖FEAR ” の文字と、そこに並ぶ、いつか暖炉の前で見た名前。まだ小さな記事だった。けれど三面の隅に書かれたその文字は、好奇心と恐怖心を煽るには十分だ。

あの卒業式の日、じゃあなと背を向けた日から17年が経った。あいつが卒業してまだ15年。世界を騒がせるにはあまりにも短すぎる時間だ。けれど現に、その名は着実に世を侵していく。あと2年もすれば、この名前は必ず新聞の一面を飾るだろう。

雪の積った山中を歩きながら、私は新聞のそのページだけを抜き取った。残りの新聞は、たった今自分が付けた足跡の上に放って捨てる。
記事の端に印刷された「闇の魔術」の文字。いま彼は、どれだけの罪を犯し、どれだけの駒を従えているのだろうか。学生時代から皆に慕われ、尊敬と羨望を思うままにしていたあの男。そんな彼が今、悪名で新聞を騒がせるほどになっている。
こりゃ、マグルの10人や20人、とっくに殺ってんだろうな。殺人と言うワードに躊躇いすら見せなかった彼なら、マグル相手にはなおさら罪悪感など感じないだろう。彼曰く、「魔法とは力で、僕らは力を持つ者」なのだから。

「……ホント、魔法って便利だね」

無意識に、ポケットの中の杖に触れた。彼の言葉を借りるのであれば、私は未だに「使える武器を使おうとしない愚か者」だろうか。大きな岩に腰かけて、新しい煙草を銜える。立ち上る煙を目で追いながら、ぼんやりと彼のことを思い描いた。

彼はいったい、あの杖で何人の人を殺したんだろうか。
学生時代からその予兆はあった。人を殺すことを躊躇わない彼は、誰かを殺める時に、己の力を惜しむことなどないだろう。
けれど杖を伝い、その事実は蓄積されていく。たとえ何の外傷もなくとも、目に見えない代償はきっとある。人を殴れば拳が痛むように、魔法にも目に見えない反動は必ずあるのだろうと思う。けれど、見えなければそれを実感しない。特に彼のような人は。
反動は積もり積もって、いつか大きな痛みを伴って自らを破滅させる。そしておそらく、破滅する瞬間まで、その代償に気付かない。……そう、ならないといいけど。
柄にもなく、目を閉じてそう祈ってみる。
彼の端正な顔が記憶の中でぼんやりと浮かび上がる。あんなに間近で見たはずなのに、もうはっきりとは思い出せない。

祈りは、おそらく届かない。学生時代ですら、彼の魂は健全ではなかった。それでもこのときわたしは、17年も会っていない後輩のために祈った。
健全であれとは願わない。けれどせめて、いつか迎える破滅までの時間が、少しでも長くあればいいと。





    やはり死んでなかったな」

雪の降る景色に、低く滑るような声が響いた。
清閑な景色には似合わない黒が、視界の端にはためいた。ゆっくりと、煙草を銜えたまま声のする方へと振り返る。前触れもなく現れた存在は、真黒のマントにフードを被っていた。十二、三メートル先の小高い丘から、こちらを見下ろすようにして立っている。顔はフードで隠され、口元と顎先だけが影の中にちらりと見えた。
白い景色に、淀みのない黒。異質なその存在に、私は「ああ、」と心の中で呟いた。
ほら、やっぱり。
諦めにも似た微笑が漏れる。目の前の黒は、どう見たって健全な魂ではない。記憶にある以上に、歪み曲がり、複雑に、そして脆くなっている。一見してそう思った。 そう気付いてしまった。

「よぉ、リドル……っと、今は違うか。……ヴォルデモート卿、だっけ?」

膝に積った雪を軽く払って立ち上がる。見上げると、黒い影はその口元に微笑をたたえた。この笑い方には、覚えがある。残った最後の新聞を両手で潰すと、丸くなったそれを影の方へと放り投げた。弧を描いて飛んでいく新聞の塊を赤い目が追う。影が右手を振ると、それは空中で燃え上がり、一瞬で灰となって消えた。立ち上がり、ローブに付いた雪を払う。

17年越しの再会だというのに、何の感慨もない。今やすっかり有名な闇の魔法使いとなった後輩を見つめながら、私は口角を上げた。


「相変わらず、ダッサイ名前だな」


フードから赤い眼が覗く。……こいつの目は、こんなにもはっきりとした赤だっただろうか。
血の色に似たその眼が、私を捕え、そして以前と変わらぬ嘲笑を称えて、こう言った。


「言ってろ」





===20140728