orpington


モラトリアム-1


私たちはタクシーでとある港町へと向かった。港に出るころには日が昇り始めていた。燃えるように紅く大きな太陽を見て、美しいと素直に感じた。
キリコ先生は荷物を積み込んでボートに乗り込んだ。私も慌てて乗り込もうとすると、船が自分の体重で揺れる。バランスを崩しそうなところだったが、キリコ先生は手を差し伸べて支えてくれた。

「あ、ありがとうございます…」

「海に落ちて風邪でも引かれたら俺の仕事が増えるからな」

可愛げのない人、と心の中で毒づいて、キリコ先生に気づかれないように溜息を短く吐いた。
波に揺られて内臓が宙に浮かぶような感覚を我慢しつつ、しばらくすると小さな離島に到着した。陸地に足をつけても、体がまだ波で揺れているような奇妙な感覚がした。
小高い丘の上にポツンと建っている家がひとつあった。中に入ると、しばらく使われていなかったのだろう、少し埃っぽく空気が滞っているようだった。

「この部屋を使え、荷物を置いたらリビングに」

私は荷物を置いて、窓を開けて空気を入れ替えた。どこからか入ってきた虫を見つけてはひぃと小さく声を上げるのであった。電気は通っているようで、スイッチを押すと明かりがついた。
私はリビングへと向かう途中、携帯電話に着信が入っていることに気づいた。ばくばくと心臓が主張していて、肌の外にまでわかるくらいの鼓動の大きさだった。
私はとんでもないことをしてしまったんじゃないだろうか、あの家に帰った方がいいのだろうか、とぐるぐると色んな思いが頭を駆け巡る。携帯電話を片手に立ち竦む私を不審に思ったのか、キリコ先生が電話の画面を「失礼」と言ってのぞき込む。

「わっ。大将、もう気づいたか。この着信の量は過保護の域を超えてるな」

不敵に笑うキリコ先生をにらみつつ、どうしよう、と考えていると、再び携帯電話が震えた。

「どどど、どうしましょう」

「…一言声でも聞けばもうかけてこないんじゃないか」

「でもっ、なんて言ったら、ってあああ!」

キリコ先生が画面に指を滑らせて、通話状態にしてしまった。電話口からは、先生の焦ったような、怒ったような声が聞こえてくる。キリコ先生の方を見ると、『うまく言え』と声を出さずに口を動かす。そうは言ってもと、勝手に電話に出た目の前の人間を恨めしく思う。もうどうにでもなれ。

「〜〜先生、ごめんなさい!理由は言えませんが、えと、旅!じ、自分探しの旅にでます!探さないでください!ごめんなさい!!!仕事ほっぽってごめんなさい!!!!」

ぶつ、と無理やり会話を終わらせると、唖然としたキリコ先生の顔がみるみる紅潮していった。

「くっ、ハハハハハッ、お前さん、なかなかやるじゃないか!これは傑作だ」

キリコ先生は頬を緩ませて腹を抱えて苦しそうに笑っていた。

「もとはと言えば、キリコ先生が勝手に通話にしちゃうから!」

「いや、ふふ…すまん、だが、っふふ、どうせしつこくかけてくるさ、あの先生は。くっ、ふふふ…」

「…はぁ、もう。でも、確かにそうですね。繋がるまでかけそうです、先生は。不本意だけど、良かったのかもしれません…」

なんだか、この人と話しているとあれこれと思案するのがばからしく思えてくることがある。キリコ先生の行動はたまに荒っぽいにも程がある。先生も、似たようなところがあるけれど。そんなことを言ったら、先生は怒るだろうが。
手元の携帯電話がもう一度短く震えた。先生から、ショートメールが入っていた。

――なまえがそんなことを言うならよほどの理由があるんだろう。お母さんのこともあったし、仕事の事はいいからしばらく休みなさい。ただし、一日に一回は連絡を入れるように。B・J

「こりゃあアレだな。おれが絡んでることが分かったら、先生、おれをぶん殴りにきそうだな」

私は笑えない話だと苦笑いを浮かべつつ、先生に『わかりました』とだけ返事をした。キリコ先生は、「連絡しないとやかましそうだから一日一回の連絡は許すが、場所が分かるようなことはするなよ」と釘を刺した。

あのあと、結局キリコ先生は「例の件だが、準備に時間がかかる。最低1週間は帰れないと思え」と言った。私は、帰る気もないのに、という思いと、先生の顔が思い浮かんだ。つきんと腰が痛みで疼いた。私は思考を逸らして、死ぬまでこんな埃っぽい所で過ごすのは、と掃除をすることにした。キリコ先生もあまり訪れていないようだし、たまには掃除が必要だろうと思ったのだ。
家中の窓を開けて空気を入れ替える。布団を干してシーツや枕カバーを洗濯機に入れ込んだ。スイッチを入れて、問題なく洗濯が始まったことを確認したら、お風呂場へ。
シャワーも問題なく使えそうである。水の出始めは少しばかり濁っていたが、だんだん透明になっていった。お湯もちゃんと出る。湯船と洗い場にざっと水をかけて、洗剤で軽くこすった。小物が少し汚れている、明日まとめて粉末洗剤でつけ置き洗いしよう。洗剤を流しながらそんな事を考える、次は洗面所。
鏡を軽く拭いて、洗面台も軽く洗剤で洗い流す。ここも明日、つけ置き洗いだ。次はお手洗い。
こちらも異常なし、軽く水を流して確認した。洗剤を回しかけて、壁から床、便座を拭き上げる。最後に便器をブラシでこすって終了。こんなものだろう。今度は部屋の掃除だ。
ランプシェード、本棚や小物にかぶさった埃を取ってから掃除機をかける。収納棚を物色していたら、妹さんが置いていったのか、柄の長いモップと使い捨ての雑巾シートを発見した。ありがたく使わせていただこう。濡れたタオルと乾いたタオルで窓を拭いて完成だ。目に見えるところと、手が届くところだけの掃除で十分だろう。洗濯が終わった音がした。
シーツをばさりと物干しにかけて、軽くしわを伸ばして洗濯バサミで止めた。よし、こんなものだろうと、深呼吸をして伸びをする。気持ちいい風の薫りと、洗剤の香りとを胸いっぱいに吸い込んだ。一連の動作を見ていたキリコ先生が、紫煙をくゆらせながら私に近づいてきた。

「圧巻だな。正直、なにもできないお嬢様かと思っていた」

「…それはほめているんですか?けなしているんですか?」

「――おまえさん、掃除で汚れただろう、風呂でも入ったらどうだ。おれも少し休む」

私の問いかけは流された。確かに全身埃まみれになってしまったので、お言葉に甘えて休むことにした。
私はお湯につかりながら、壁のタイルをぼうっと見つめていた。キリコ先生と共にやってきたこの島。現実世界を忘れるための旅のようだと思った。思えば生まれてこのかた、旅行に行ったのは学生時代の修学旅行と、母が私の洗礼の時に宗教団体の本部へ連れて行ってくれたくらいだろうか(その時は本部から車に揺られて川へ行った気がする、水がとても冷たかった思い出しかない)。今思えばあれは母の精いっぱいの見栄だったのだろう。旅行といっても、まったく楽しくはなかったけれど。
先生の家に居候することになってから、私はその生活を「死ぬまでの回り道」だの、「旅」だのと形容した。はじめはそれが非日常ではあったが、慣れればやがて日常になった。
私は先生に言った「自分探しの旅」などと口をついて出た嘘を、半分ほんとうにしてしまおうと思った。これを、人生最後の旅にしてしまおう。きっと、旅とは、非日常を楽しむものだろう。残りの人生を悔いなく過ごして、最期は笑って死のう。泣いてばかりの人生だったけれど、最期に笑えたらどんなに幸せだろうか。私はそんなことを考えて、お風呂から上がった。
――ところまでは良かったのだが。

「あっ…!着替え…」

私は頭を抱えた。人生最後の旅にしては身軽すぎた。今日着ていた服はもう汚れてしまっているし、かといって着替えは持参していない。私はふと、キリコ先生の言葉を思い出す。

「そうだ、妹さんの日用品があるって仰ってた」

妹さんの洋服も少しなら置いてあるかもしれない。苦肉の策だが貸していただこう。そう考えた私は、クローゼットを覗いてみようとタオルを巻いて脱衣所を出た。

「き、キリコせんせー」

少し休む、と言っていたから返事がなければ寝ているだろうと、脱衣所から顔を出してキリコ先生を呼んでみた。返事はない。抜き足差し足で自分が宛がわれた部屋へ急ぐ。しかし、クローゼットを開けてみるも洋服は置いていなかった。他の部屋も見てみようと、足音を立てないように移動する。しかし、どこの部屋を見ても服は置いていなかった、キリコ先生の部屋を除いては。
安眠を邪魔するのも忍びないが、ここは事情を説明して(ドアはなるべく開けずに)着るものを貸してもらおう。そう考えて、ドアをノックしようとした次の瞬間だった。

「何をこそこそ、ウロチョロしてるんだ。余計なマネはするなと――」

ドアが開いたかと思うと、少し眠たそうにしたキリコ先生と目が合った。視線がかち合った瞬間には、眠気なんて吹っ飛んだような顔に変わっていったけれど。私の右手はノックしようとして行き場を失っていた。ドアは勢いよく閉められる。

「お前は何を考えているんだ、男の前をそんな格好でウロチョロするな!」

「ちょ、ちが、着替えがないんですってば!妹さんの服があるかなって聞きに来ただけです!!脱衣所からお呼びしたけど返事もなかったから、」

「風呂に入る前に聞けばいいだろう!」

ドアを挟んで押し問答している時だった。少し湯冷めしたのか、くしゅん、とくしゃみが出た。それを聞いたキリコ先生は何も話さなくなったかと思うと、少ししてドアが開いた。キリコ先生の腕だけが、ドアの隙間からのぞかせている。

「お前はお嬢様じゃないが『世間知らず』だ。そんな格好で男の前を歩いたらどうなるか考えろ。…もう一度風呂で体を温めてこい。風邪を引かれるとかなわん。あと、きれいな服はこれしかない、我慢しろ。」

「…すみません。ありがとうございます、でも、私なんかをそういう目で見る人なんて、」

「おまえがたまたまそういう経験がなかっただけで、居るんだよそういう男は!お前さんみたいなのがそんな格好してたら鴨が葱を背負ってくるもんだろうが…もういいからとにかく風呂に入れ!」

「はいぃ!」

ドア一枚挟んでもすごい剣幕なのが伝わってきたので、慌てて風呂場へ向かった。
下着と、ワンピースの下に履いていたショートパンツだけ手洗いし、乾燥機にかけている間にもう一度湯船に浸かった。洗濯物の量が少ないので髪の毛をドライヤーで乾かしたり、化粧水をつけたりしている間には履けるようになっていた。生地が傷みそうだが仕方ない。私はその上からキリコ先生が渡してくれたシャツに袖を通した。肌ざわりがよくて気持ちがいい。ただ、サイズは大きく、太ももが半分隠れるくらいの丈の長さだ。袖を何度か折る。

「キリコ先生?…洋服お借りしました。ありがとうございます。その、先にお風呂いただいてすみませんでした。」

キリコ先生は私の方をじっと見て、何か言いたげに顔をしかめたが、結局何も言わなかった。

「…お前さんは一応患者なんだ。昨日から碌に寝ていないだろう。すこし休め。おれも風呂に入る」

「わかりました。お気遣いありがとうございます。あっ、お風呂の水は栓を抜かずにそのままにしておいてください、またあとで掃除に使うので」

「…あぁ」

ひと寝入りのつもりが、疲れていたのか起きた時にはもう日が傾いていた。慌てて布団を取り込みに出ようと自室を出ると、ドアのところにふかふかで温かい布団とシーツが置いてあった。キリコ先生が入れてくれたのだろう。台所へ行くと軽食が用意されていた。

「起きたか。起こしに行こうと思っていた」

「はい、あの、お布団取り込んでくださってありがとうございました。」

そういうとキリコ先生は「陽が落ちる前に片づけただけだ」と言った。食卓には、具沢山のスープとライ麦パンとチーズ。あまり生活感のないキリコ先生が布団を片してくれたり、ごはんを用意してくれたりと、失礼ながら当初の極悪人のイメージが覆る。

「…1日1回腰の診察をする。あとで診せろ」

「えっ。」

「なんだ、おれの処置に文句は言わない約束だろう」

「えぇ、そうなんですけど。お医者さんみたいだなあと」

「ばかやろう、こんなナリでもおれだって医者だ」

「ふふ、ごめんなさい、つい忘れてしまって。診察よろしくお願いします。…でも、その。診て、あまり気持ちいいものではないですよ」

医者という職業の人になら、背中から腰に広がる傷痕も見られる事に慣れてきたものの、子どもや学生のころは、体操服に着替える時や、健康診断で肌着にならないといけない時などは憂鬱だった。誰かに見られて噂されたり、指をさされたりするのがいやだった。私の今までの人生全てを物語っている自分の背中が嫌だった。

「…おれは元軍医でね、腕や足が吹っ飛ばされた人間も診てきた、生きていることが不思議なくらい、体の一部が欠けた人間も…と、すまない、食事中にする話じゃない。まあ、手足がなかろうが腰がどうであろうがおれは気にしないさ。…年頃だと気になるかもしれんが」

案外この人は優しい人なのかもしれない。言葉の端々には棘があるように聞こえるけれど、気遣いが見え隠れしていることに今日一日接してみて気づいたのだ。可愛げはないと思うけれど。前評判だけで人を決めつけてはいけないと、考えを改めた。
ご飯を食べた後、お風呂に張ってある水に洗剤を入れてお風呂場の小物を入れた。これで明日起きた時には汚れが浮いているだろう。顔を洗って歯を磨いたあと、診察室に呼ばれた。

「服は脱がなくていい。そのままうつぶせに。裾を少しめくるぞ」

キリコ先生は、私の腰を指先で刺激する。触られて電気が走るほど痛いわけでもない。そういえば、今日はあまり痛みを感じなかった気がする。

「どこか痛むところは?」

「いえ、…あの、今日はすごく調子が良かったみたいです。あんなに家事をやっていたのに…」

「仰向けに寝ていいぞ。…仕事から離れて少し気晴らしになったのかもな。今日は以前会った時よりも遥かに顔色がいい…普段はどういう時に腰が痛くなる?いつから痛み出した?」

「どういう、時…いつから…」

私は先生の顔と声がフラッシュバックする。大学病院の帰り、あの時と同じ感覚だ。私の頭の中で、無垢な先生の声がこだまする。

「ま、って。やだやだやだ、思い出したくない、痛いっ」

――おかあさん
先生の、かわいらしい声。ごめんなさい、私は、貴方のお母さんじゃない。
――汚らわしい、お前はなんて汚い子だ
実の母親の、金切り声。ちがう、私が抱く感情はあくまで母性で、神聖なものだ。汚らわしい感情なんて持ち合わせていない、絶対に違う。

「おい!落ち着け!」

キリコ先生の声にはっとして我に返る。目を開けると、キリコ先生が顔を覗き込むようにしていた。大丈夫、ここには先生も実の母親も居なければ、母親代わりを演じる必要はない。そう自分を言い聞かせてなんとか呼吸を整える。

「…お前さんの中で自覚はあれど、認めたくないことが何かあるんじゃないか?お前さん、自制心と道徳心は強いみたいだからな」

私は自分の中で芽生えている先生への思いを認められずにいた。認めてしまえば、先生のもとに居られなくなると漠然と分かっていた。しかし、もう先生の母親を演じることが苦しいと思うところまで来てしまったので、もはや手遅れかもしれない。キリコ先生に助けを求めてしまうほどだ。認めてしまうのが怖い、私が私じゃなくなるかもしれない。

「それを認めてしまったら、私はもうブラック・ジャック先生の所にはいられない…認めてしまうのがこわい、口に出すのがこわい…」

「そうか。無理に口に出す必要はない。…だが、話す行為そのものが治療になることもある。病院で『腰痛の原因は精神的なもの』と言われたんだろう?お前さんの腰の痛みと感情は繋がっている。」

「私のこの感情を口に出して認めてあげたら、腰の痛みもよくなるということですか…?」

「あぁ、そういう症例はたくさんある」

私が死にさえすれば、私の思いは誰にも知られないまま消えてなくなる。誰にも何も気づかれず、私の口からこぼれることなく、文字通り燃やされて灰になって消えてしまうだろう。それでいいと思っていた。

「…それでも私は、墓場まで、この気持ちを持っていきたい…やっぱり怖い…」

「…そうか。」

見放すような言い方ではなく、いたって落ち着いた口調でキリコ先生はそう言った。なんとなく、私の意志を尊重してくれているような気がした。言ってもいいし言わなくてもいいと言ってくれているような気がした。

「精神安定剤を注射してやるから、そのまま休むといい」

そういって私に処置を施すキリコ先生を見ながら、だんだんと気分が落ち着きまどろんでゆくのが分かった。

「せんせ、ごめんなさ、ねそう…」

「いいからそのまま寝ておけ」

枕もとで私の様子を見つめるキリコ先生。誰がこの人を死神と呼び始めたのだろう。私の目に映る彼は、死神というにはいささか優しすぎる気がした。

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