モラトリアム-1
「いつかは連絡がくると思っていた」
私はここ最近の出来事に気持ちと体がついていかなかった。実の母が私の居場所を突き止め押しかけてきたこと。先生の母を求める気持ちに応えられないと悟ったこと。それらが一度に押し寄せてきた夜、衝動的に連絡を取り、最低限の荷物と貴重品を持ち先生の家を抜け出してやってきた。目の前に立つのはキリコ先生である。青白い肌が月夜に照らされていた。
「入れ」
私は小さな声で「おじゃまします」と呟いて、促された通りに部屋の中へ入る。
家主の背中を追いながら、歩くたびに揺れる髪の毛を見つめる。絹糸のようだと思った。リビングに通されたと思うと、キリコ先生は食器棚からマグカップをふたつ取り出した。椅子があるが、勝手に座るのもいかがなものかとためらっていると、「やりにくいから座って待っておけ」と言われる。
座っていても手持ち無沙汰であたりを見回してしまう。必要最低限の家具で揃えられたリビングで、先生の家と比べるとあまり生活感がなくて余計そわそわした。
しばらくして、キリコ先生は自身もお茶をすすりながら私にマグを手渡した。マグカップにはルイボスティーが入っていた。
「ルイボスティー…」
正直なところこの人には似合わないなぁ、と思っていたら顔に出ていたのだろう、「妹が置いていったんだ」と付け加えた。
「お前さん、おれに対して大概失礼だな」
「…、すみません」
彼がそういうのも無理はない。私は先生に言われるがまま彼を拒絶し、悪だと認識して行動してきたのだから。私自身が何をされたというわけでもないのに。
「今までのご無礼お詫びします。申し訳ありませんでした。虫の良い話だとは承知しています、どうか」
どうか、私を死なせてくださいませんか――
そういうと、キリコ先生は「やはりな」という顔で溜息をひとつついた。
「何か勘違いしているようだが、私は自殺の請負人じゃあないんだ。先生のとこのが『殺し屋のできそこない』なんて言っているが、おれは殺人する主義はない。それに安楽死させるとしても施術料がお前さんに払えるのか?」
「先生のところで働くときに、生命保険に加入しました…、それを充ててください、私、は…もう、生きていたくない…けれど、」
けれど、何だ?私は一度きちんと死のうとしたのに、なぜ今回は首をくくろうとせずにこの人に連絡したのだろう?もう一度木の枝にロープをくくって、首に掛ければいい。数分とすれば召されるだろう。そういえば、長の教えによれば自殺は大罪だったっけ。楽園には行けないな、なんてどうでもいいことを思い出す。
「死ぬのが、怖くなってしまった…?もう一度、首を吊ればいいだけなのに」
「…なぜ、今回は自分で死のうと思わなかったんだ?なぜ、死ぬのが怖いと思った?」
「なぜ…」
私はキリコ先生の言葉を反芻して理由を考えた。なぜ、死ぬのが怖くなってしまったのだろう。確実に楽になれる手っ取り早い方法は知っているのに。私は、この世に、この地獄みたいなこの世に、未練があるのだろうか?
黙りこくっていた私を見かねて、キリコ先生は話題を変えた。
「そういえば、腰はもういいのか?」
無我夢中でキリコ先生の所へ行くことばかり考えていたから、腰の痛みに気づかなかった。
先生の家にいた時は――母や長が来たときは、鉛のように重かったのに。思い出すとずきずきと痛んだ。考えないようにと頭を振った。
「…先生に、ブラック・ジャック先生に診てもらったんですが、良くならなくて…そして大学病院を紹介してもらったのですが、その、精神的なものじゃないかと」
「―――なるほど、あぁ。あの時はその帰りだったのか」
『あの時』とは、私が街の大学病院へ診察に行った帰りに、腰の痛みがひどくて動けなかったところをキリコ先生が家まで送ってくれたことがあったのだ。送ってくれたのはいいものの、その姿を見た先生とピノコちゃんは激昂し、ひと悶着があり大変だったのである。
「精神的なものが問題なら、天下のブラック・ジャック先生も治すのは難しいかもな」
私は少しだけその言葉にむっとした。キリコ先生の言葉には皮肉が混じっているように思えたのだ。しかし、キリコ先生はその言葉を言ったきり黙り込んだ。何かを考えているようだった。私はキリコ先生から発せられるだろう次の言葉を待つ。マグカップの中をただ見つめた。
「――わかった。お前さんの望み通りにしよう。しかし、条件が三つある。」
私はその言葉に思わず顔を上げる。私の中に希望の光が一筋差したように思えた。キリコ先生は3本立てた指を私に向ける。
「ひとつは、しばらくここを去る。ブラック・ジャック先生がお前さんを探して必ずここへ来るだろう。面倒ごとはごめんだ。あの先生は、お前さんに『ずいぶんと』お熱みたいだからな」
「な、言っておきますけどそういう関係じゃありませんから!」
「お前さんを飼い殺しにしているじゃないか、まぁこの話はいい。ふたつめ、お前さんを今から患者として扱う。余計なマネをしたらどうなるか考えろ。そして最後。」
キリコ先生は私を指さした。私はごくりと生唾を飲み込む。
「おれがする処置に関して文句を言わないこと、分かったな」
「…分かりました。お願いします」
「よし、交渉成立だ。じゃあ今から出発するぞ」
え、と声を発すると、「夜が明けてからじゃあ、先生に見つかってしまうだろ」と言われた。キリコ先生はいそいそと荷物を纏め始めた。私は荷造りする荷物などなく、ただキリコ先生の様子を眺めるしかなかった。
「あの、化粧品とか…どうすれば…」
様子を眺めながら、私は恐る恐る声をかけた。
「…今から向かうところに、妹が置いていった日用品が一通りあるはずだ。それを使え」
一拍置いてキリコ先生はそう言った。少し、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
その言葉の後、アタッシェケースを閉める音が響いた。
- 9 -
*前次#
ページ: