超自我
ある初夏の夜。本を読んでいたら、平生よりも、少しだけ夜更かししてしまった。同じく夜更かしの野鳥が遠くで鳴いている。
日付が変わっていたのでそろそろ寝ようと、夕日色のランプを消した。
夢と現実の狭間を、水面を揺蕩うように、眠気に身を任せていた。このまま意識を手放して、眠りに沈んでしまえたら、どんなに幸せか――そんなことを考えていた時。
部屋のドアがそっと開けられる音がした。私はとっさに寝たふりをしてしまったが…泥棒だったらどうしよう。先生の資産を狙う人だって少なくないはずだ。
一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。だんだんと動悸が激しくなってゆく。
床がぎぃ、と鈍くきしむ音がする。その音は、私の体の左側でぴたりと止まった。
人が立っている気配がする。布団の中で握りこむ手に、じんわりと汗がにじんできたのが分かった。まさか、お金ではなく―――
「――さん」
声がした。かすれて少し上ずっているが、この声は先生だ。
とりあえず泥棒ではないことが分かり、ほっとした私は先生に気づかれないように長く深呼吸した。
…しかし、なぜ先生がここに来たのだろう。私は先生の様子を伺う。
「おかあさん…」
やさしく、いとおしげに、せつなく、先生は確かに「おかあさん」と言った。
私の頬に何かが触れた。温かく、少しかさついている。先生の手だ。
指の腹で、頬の産毛を撫でるようにそっと触る。くすぐったくて、一瞬身じろいでしまう。
先生は触るのを止めて、私の様子を観察している。
私が眠っていると思ったのだろう、しばらくして、今度は手のひらで頬を包み込む。
心臓がよりいっそう跳ねた。
先ほどよりも直に伝わる先生の体温につられてか、自分の体温も上がっていくのが分かる。
先生は、私の顔の横に片手をついて、もう片方は反対側の顔の横に手をついて自身の顔を近づけた。先生の髪の毛が私の顔を撫でる。先生は、私が寝ているまくらにおでこを軽くうずめている。重さにつられて少しだけ私の頭が動いた。
体のどの部分も触れ合っていないはずなのに、先生が近くにいるというだけで、首筋が汗ばんできた。心臓の音が、先生に聞こえてしまうのではないかと心配になった。
「…愛してる」
私の耳元でそう紡がれた言葉が、「私自身」に向けられたものではない事くらいわかっている。私の「外側」だけに向けられた言葉だ。私はただ、先生のお母さんに似ているだけだ。
私に向けられた愛の言葉ではないことは分かっているのに、どんなに言い聞かせても心臓の高鳴りはおさまらなかった。
むしろ、このような状況下で、寝たふりを続けられている自分を褒めてあげたいものだ。耳元で囁かれた言葉が、私の頭の中にいつまでも反芻して離れない。
先生は、私から離れ椅子に座ったようだ。金具がきしむ音がした。
私の眠っている様子をしばらく眺めた後、
「おやすみ、おかあさん」
少し乱れていた私の髪の毛を手で梳かし整えて部屋から出ていった。
ドアが閉まる音が部屋に響き、すぐに静寂に包まれる。
私はむくりと起き上がり、頭を抱え、長く溜息をついた。その日は眠れるはずがなかった。
*
次の日の夜のこと。
私は、先生が眠るのを待っていた。その日はなんとなく気まずくて、あまり先生の顔を見られずじまいだった。
本当は眠くて仕方がないのだが、先生が眠るのを待ってから寝ようと思っていた。また、昨日のようなことがあったら、眠るに眠れない。
先生はまだ、リビングで何か作業をしているようだった。眠らないように、デスクで昨日読んだ本の続きを読んでいたのだが、何度も眠りに片足を踏み入れそうになった。
そうしながらしばらくは、リビングから聞こえる音に注意して耳を傾けていたのだが、どうも静かだ。
ドアを開けて、リビングの様子を伺ってみると、先生はソファでカルテを読みながら眠ってしまったようだ。
毛布を持って先生に近づく。肩のあたりまで毛布を掛けると、先生が目を開けた。私の方をぼんやりと眺めたのち、はっと、目を大きく開けた。
「…どうしました?起こしてしまいましたね」
「――なんだ、XXXか…、すまん。毛布ありがとう」
先生は、眉間を押さえて伸びをした。
口をついた言葉に過ぎないのに、なぜか、先生が言った「なんだ、XXXか」の言葉がナイフのように胸に突き刺さる。
そうだ、先生はただ、私の見かけを求めているにすぎないのだ。昨日、そうやって自分を落ち着かせた言葉が、いざ、先生から無意識とはいえ向けられてしまうと、なぜこんなにも心をえぐられるのだろう。なぜ、そのことがさみしいと思ってしまうのだろう。
「私の中身を見てくれないからさみしい」なんて、思ってはいけない。先生はきっと、お母さんと私の似ている部分のみ、私の価値を見出してくれている。それでもいいと思ったはずだ。先生が求めるならば、無償の愛を惜しみなく与えようと決めたはずだ。
こんな感情を抱くなんて、自分自身が汚らわしいと思ってしまった。
――“お前はなんて汚い子だ”
私は、ふと、母から言われた言葉を思い出して、溜息をひとつついた。
私は、「私を見てくれなくてさみしい」という感情の根源は深掘りせずに、母から文字通り叩き込まれた強い道徳心を以てして抑え込む。
あの時殴られた腰や背中が、ちくちくと熱を持って疼きだした。
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