アイデンティティ・クライシス
「――もしかしたら、その痛みは、精神的なものかもしれないよ」
そういって、ばつが悪そうな表情でカルテに記入しているのは、眼鏡と丸い鼻、優しそうな瞳が特徴的である、手塚先生という医師だった。
私はここ1か月ほど、腰の痛みが良くならなかった。仕事柄座って作業をすることが多いので悩まされていた。
何がきっかけかは分からないが、腰がじくじくと痛む。少しでも痛みが和らぐかと、手でさすってみたが一向に治らなかった。
湿布や鎮痛剤を処方してもらったり、レントゲンやCTスキャンを撮ってもらったりもしたが、特に異常はないようなのだ。
思いつく治療を施してくれたがあまり改善は見られず、先生のプライドが許さなかったのだろう。治療の事で先生が頭を悩ましているところを見るのは初めてだった。
先生が仕事で、とある病院へ赴いた日があった。帰宅して早々、私の顔を見るなり先生が口を開いた。
「私の知り合いの医者で、XXXと似たような症例の患者を診た人がいるんだ。診察してみないことにはわからないとは言っていたが…。明日の3時から予約したから、そこに行ってみよう。話をつけてきた。」
しかし、翌日。朝一番に急患の電話が入った。
先生とピノコちゃんは手術の準備に追われている。2人は、白衣に着替えて、せわしなく家じゅうを走り回っていた。ピノコちゃんは「らいシウツになるのよさ!」と言っていた。きっと重篤な患者が運ばれてくるのだろう。
「すまない、XXX。日にちを変えてもらうか?」
「いいえ、一人で大丈夫ですよ。気を遣わせてすみません。〇〇病院ですよね」
私は腰をさすりながら、バスや電車を乗り継いで、病院へと向かった。休日だからか、人が多く、予約の時間を少し過ぎてから診察室へ通された。
手塚先生は、予め先生から聞いた話や、カルテ、自分の患者さんの症例から、私の腰痛の症状もそうではないか、と予想したらしい。
「最初に伝えておくべきこととして、君のことをブラック・ジャック先生から聞いているよ。漠然とした君の生い立ちや…プライバシーを推測することが出来るのだけれど、言いたくないことは無理して答えなくて大丈夫だからね。」
おそらく、手塚先生がおっしゃるのは幼少期からの「虐待」、そして「未遂」の事だろう。
「腰痛がひどくなったのは、ここ1か月と聞いた。最近、大きな環境の変化がありましたか?」
「環境の、変化ですか…」
人生のターニングポイントと言って過言ではない出来事は、どう考えても自殺未遂を先生に助けられて、そこから仕事を始めたことだろう。環境が大きく変わったという自覚はあるが、その出来事はもう1年以上も前の話だ。
「何でしょうね、仕事も慣れてきたし…」
「転職されたんですか。前は、何の仕事を?」
「前は…地元の小さな会社で事務をしておりました。その、ここへは1年前くらいに来たばかりで」
手塚先生は相槌を打ちながら私の話を聞いてくれている。
「実家に帰ったりは?」
「…いえ。しばらく、帰ってないですね。手塚先生がどう思われているか分かりませんが…もう実家には、帰りたくはないんです」
「…背中や臀部の傷あとに関係がありますか?」
「はい」
手塚先生は「なるほど」と、眼鏡をくい、と上げた。
そして、ひと呼吸おいて、話を切り出した。
「なぜ、このような事を聞くかというとね、」
そして、この後に続いた言葉が冒頭のセリフであった。
「精神的なものかもしれない」と言われ、腰痛との関連性がピンとこなかった。
「仕事とか家庭内の不和などで、ストレスを抱え、自律神経が乱れると神経や骨に異常が無くとも、腰や、その他の部位に痛みが出ることがある。先ほど書いてもらった問診票も見たけど、貴方は少々、ストレスを我慢する傾向にあるようだ」
なるほど、私の仕事の話や家庭環境を聞いたのは、ストレスの原因を探ろうとしていたのだと納得した。しかし、仕事に不自由なことはないし、家庭環境と言っても、現在は実家と離れていて、消息を絶っているような状況だ。何か他の要因が働いているのだろうかと、考え込んでいると手塚先生は続けた。
「今すぐに原因が思い浮かばなくても、たとえば、自分が強く抑圧していることがあって、それがストレスになっていることもあるんだ。難しいことだが、ゆっくりできて、ストレスが溜まらない環境に身を置くことが大切だよ。」
「そうですか…」
「気を落とさなくとも、なにも珍しいことじゃないからね。私はそちらの方は専門じゃないから深くは分からないが、19世紀のころから、無意識で抱えている悩みが体の不調に表れるという症例はあるんだよ」
「へえ、そんなに前から…」
手塚先生は意外とおしゃべりが好きなようだ。しかし、それは看護師さんによって遮られた。会議の時間が近いことを知らせに来たようだった。
「あぁ…もうそんな時間…」
「手塚先生。私は大丈夫ですから。診察していただきありがとうございました。」
「そうか、あんまり続くようなら、そっちの専門の先生の紹介状を書くけど、」
「いえ…また、何かあれば、相談させてください。それで、その…先生には…あまり…」
「ん、あぁ、うまいこと言っておくよ」
私は腰に痛みが響かないようにそっと歩きながら病院を後にした。
帰り道、電車で外の流れる景色をぼんやり眺めながら、手塚先生の言葉を思い出していた。
自分が無意識に抑圧していること――腰をさすりながら、私自身のことを回顧する。
腰が痛みだしたのは、ここ最近のことだ。
1か月前、何があっただろうか。記憶の糸を手繰り寄せて、自分の身に起きた出来事を思い出そうとしていた。
目を閉じて神経を研ぎ澄ませる。ここ最近の出来事が走馬灯のように映像で頭の中を流れる。暗闇の中の一筋の光を求めて手を伸ばすように。光で目を細めてしまいたくなるほどの景色の先には――
“おかあさん”
はっと目を開ける。先生の、“おかあさん”という声。腰がずきずきと痛む。全身が汗ばむ不快感。
…私は、ほんとうは、先生にどうしてもらいたい?
結論を出すのが怖かった。首を振ってうやむやした。
私は、先生に望まれて、先生と共に居るのだ。それが、私の幸せなのだ。
では、なぜこんなにも、苦しいのだろう。
外を眺めていると、電車がトンネル内に入る。暗がりに映る窓ガラスの自分に吐き気がした。そこに映った自分の顔は、肌は真っ白く、とても怖い顔をしていた。
重たい腰を引きずって、何とか改札口から出た。バス停まで這いつくばってでもたどり着かなくては。
日が傾いていて、正面から差し込む夕日がまぶしかった。視界が、白飛びしたようにくらむ。
先生の、“おかあさん”という声が響く。どうにも腰が痛くて、歩けない。バス停のベンチに座って少し休んだ。
「帰らなきゃ…」
そう思っているのに、あの家に帰るのが、先生の顔を見るのが怖かった。
どれくらい時間が経っただろう。そういえば、岬まで行くバスが来ていないことに気が付いた。交通の便が悪いところだ。バスの本数も多いわけじゃない。時刻表と時計を見比べる。
来るはずの時刻に、バスが来ていない。
「!そうだ、今日は休日ダイヤか…」
バスは、あと2時間ほど待った最終便しか残されていなかった。ここで2時間も待つのかと途方に暮れる。それとも、どこかでタクシーを拾おうか?手持ちがそんなにないけど、家に帰りさえすれば先生にお給料から出してもらえる。申し訳ないけど、そうさせてもらおう。
そう思って立ち上がるが、腰の痛みが足の付け根にまで広がっているようだ。体重を支えるだけでしんどかった。せめて、支えにできる杖でもあったなら…
苦肉の策だが、先生に迎えに来てもらおうか。藁をもつかむ気持ちで家に電話をしてみるも誰も出なかった。そうだ、きっとまだ手術中だ。手術が終わっていたとしても、疲れているはずだ、やっぱり先生に来てもらうという選択は出来ない。
私の視界には、石のように動かない憎たらしい下半身が映っている。
どこか近くに、時間をつぶせる喫茶店でもないだろうか、そう思って顔を上げた。
「なんだ。やっぱり先生のとこのお姉さんじゃないか」
「び、びっくりした!あなたは…!」
銀髪が夕日に透けて、風でたなびいている。先生のお知り合いで――先生が、「関わるな」と言った人物だ。先生の、怒った顔が、頭から離れない。
「先生はいないのかい」
「...ええ。ご自宅でお仕事を」
「で?おまえさんだけがなんでこんなところにいるんだ」
「ただの私用です」
ふぅん、と言ってあたりを見回した。私は、病院で処方された痛み止め、漢方と湿布が入ったビニル袋を後ろに隠した。早く、どこかへ行ってくれないだろうか。この人と関わった日は、気が気でなくて嫌だった。
「先生の家の方向のバスまで、あと2時間もあるじゃないか。腰が痛くてろくに歩けないんだろ?」
なぜそれを、と言いかけたところで、「これでも医者のはしくれだからな」と言った。私は、彼から視線を外し、服の裾を握りしめた。
「先生の家だな。乗れよ」
「えっ!?今なんて、」
車の鍵を私の方に見せる。金属同士がぶつかりあう、チャリ、と言う音がした。
私は全力で丁重にお断りした。先生に見つかったなら、何と言われるか分からない。
「別におまえさんのためじゃないさ。あの先生はきっと、俺に貸しを作るのなんて嫌だろうからな」
子どもがいたずらを思いついたような、いや、それよりもずっと、あくどい顔をして口角を上げている。以前会った時、おちょくられてイライラしていた先生の顔を思い出して、私は先生に同情した。
「…ですが、失礼を承知で申し上げますけど、先生に貴方と関わるなと言われているんですっ、先生に見つかったら、なんて言われるか…」
「そんな腰で、堅いベンチに2時間も座って待つのか?それとも、這って駅前まで戻って、タクシーでも拾うのか?何が一番賢い選択か、自分の頭で考えたらどうだ」
ごもっともな意見にぐうの音もでない。確かに、朝よりも格段にひどく痛む腰で、自力で帰るのは賢明な判断じゃないことは分かっている。腰痛に加えてこの状況に対して頭痛もしてきた。
――私は渋々、彼の提案を受け入れることにした。
車に揺られながら、フロントガラス越しに夕日で照らされた空を眺めていた。「腰が楽になる姿勢をしていろ」と言われたので、行儀は悪いが、後部座席で横になっていた。
「なんで街の病院に行ってたんだ。ブラック・ジャック先生に治してもらえばいいだろう」
あぁ、この人、見ていたのだ。隠したつもりではあったけど、病院の名前が入った薬の袋をばっちり見られたらしい。
「…先生に関わるなと言われた以上、必要最低限のことしかお話ししません。あと、家まで送って下さらなくて結構ですから、家の近くで降ろしていただけますか」
「フン、そうかい。『先生、先生』で、おまえさんの意思はないのかね。まるでお人形さんだな」
「こ、これは先生との約束ですから」
「道徳心が強いねぇ」
お人形という言葉は言い得て妙だった。確かにそうだ。
私は、母親のお人形だった。昔から母の言う通りに躾けられ、内心反抗しつつも、波風を立てないように生きてきた。
そして、母から逃げた今、先生のお人形だ――母も、先生も、意思の宿った私は求めていないのだ。
そう思うと、腰の痛みが強まる。苦しい。痛みに耐えかねて、唸り声がにじみ出る。
「うぅ…」
不本意ながらも、この方に送っていただけて良かった。一人じゃ帰れなかっただろう。脂汗が噴き出してくる。道路から伝わる振動が腰に響くたびに、痛みを逃がすように息を吐いて耐え忍んだ。
車が停止した。目を開けてみると、家の目の前まで車が付けられていた。
「ちょっ、なんで家の前に停めているんですっ!!」
「ばかやろう。おれも酷い腰痛の人間を歩かせるほど冷酷な人間じゃないさ。…どうせ、一人じゃまともに立てないくせに」
後部座席のドアを開け、私を引っ張りだす。腰から下は使い物にならないので、抵抗しても無駄骨だった。やすやすと抱え上げられる。
「やだやだやだ!!!降ろしてくださいぃぃ!」
「ばか、落ちるだろう!落とされたくなかったらおとなしくしろ!」
玄関前でそんな言い合いをしていたら、焦った様子の先生とピノコちゃんが出てきてしまった。
「キリコっ!!何してる!」
「XXXがこよされちゃうのよさ!ばかー!はなちなちゃーーーい!!!」
「うるさい!せっかく助けてやったのになんだその言い草は!」
「は、ははは…」
収拾がつかなくなったこの場に対して、乾いた笑いが出てきた。どう、丸く収めるべきだろうか。いや、丸く収める方法なんてないだろう。そう思うと笑いながら涙が出てきた。
「腰痛がひどくて歩くのもつらそうにしていたから、ここまで送ってやったんだっ。道中もずっとうなされてたんだぞ。感謝しな。これは貸しだ」
彼はそう言って私を先生に引き渡す。私は、先生に強く抱きかかえられた。先生の香りがして少し安心している自分がいた。
でも、こんな形で、この人と一緒に居るところを見られたくなかった。涙がぼろぼろとこぼれた。
「先生、ごめ、ごめんなさい…」
「…ここまでXXXを送ってくれたことは感謝する。だが、もう、XXXとは関わるな」
「へぇ。先生、いやにこの子に肩入れするじゃないか。」
「おまえには関係ないだろう!帰れ!」
ピノコちゃんまで、「かえりなちゃい!」と応戦していた。
死角になっていて見えないが、キリコという人にどうやらパンチをおみまいしているようだ。
「あぁ帰るとも。ばかばかしい――」
先生は、ピノコちゃんにドアを開けるよう頼んで、家の中に入った。そして、ピノコちゃんにお風呂を入れるように言った。
先生は私を、部屋のベッドまで運んでくれた。私を下ろし、そのまま無言で抱きしめた。
私はその力強さに、先生が男性である事を、否が応でも思い知らされた。
私は、この人のお母さんじゃない。お人形じゃない。先生のそばに居たい。「母」なんて存在、みんなだいきらいだ。腰がずきずきと痛む。もう、感情がめちゃくちゃで、疲れてしまった。
「せんせ、ごめ、なさい、ごめん、っ、ごめんねっ…」
「…いいんだ、私のほうこそごめん、迎えにいってやれなくて。さっき患者を帰したんだ…いや、そもそも『治してやれなくてごめん』だな。」
そして、先生は抱きしめていた力を緩めて、私の肩を添えて寝かせてくれた。指で涙を拭う。頬に手を添えて、おでこ同士をくっつけた。
「帰ってきてくれただけで、嬉しいよ…だから」
先生は私の頬に手を添えたまま、私から離れる。
そして、言葉を続けた。
「あまり、ごめんと言って泣かないでおくれ。おまえさんに謝られて、泣かれると、胸がえぐられるようだ」
先生は悲しそうな顔をして私を見ていた。先生の言葉の意味が分かってしまった。
今この瞬間もまた、先生は私とお母さんを重ねている。きっと、幼い先生をひとり残してしまうことを謝りながら逝った、お母さんを――。
先生は、さんざん泣きじゃくった私を見かねて、飲み物を取ってくると部屋を出ていった。
だけど、私は急に部屋の温度が下がったような感覚を覚え、涙もぴたりと止まってしまった。
「せんせいは…ほんとうに…『私』を見てはいない…」
私は先生が部屋に戻ってくるのを待たずして、痛みを抱えた体に鞭をうって電気を消す。
絶望の渦に飲み込まれて消えてしまいたい。このまま目が覚めなければいいと、強く願う。
私は、緊張の糸が切れたのか、気を失うように意識を手放した。
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