「ヒステリー研究」―エリザベート嬢の症例
目が覚めた。
そこで感じたのは、腰の違和感と、化粧を落とさなかった罪悪感と、お風呂にも入らず、服も外着のまま眠ってしまった不快感。とりあえず化粧を落として服を着替えなくては。だが、服を脱ぐのも億劫だ。
…私は、何のために生きているのだろう。また、あの頃に逆戻りだ。母親からただ逃げて、生きる意義も意味も分からずに、死ぬことを考えていたあの頃と変わらない。
私は何も成長していない。自分に嫌気がさした。
湯船に頭を浸ける。耳に湯が入ってきて、外との音を遮断する。このまま、何かに飲み込まれて、泡となって消えてしまえたら。痛みも感じず、私の存在のかけらを何も残さず、この世から去れたなら。そんな現実逃避をしつつ、温まった体を湯船から出す。
しかし、先生と約束した3年間の残りを、この気持ちを悟られないように全うしなくては。排水口へと流れてゆく泡を見てそう決心した。髪の毛や体を洗うと、ほんの少しだけ思考がすっきりした。
部屋着に着替え、鏡に映る自分の顔を見る。昨日電車で見たような怖い顔をした自分はいなかったが、不機嫌そうな不満を抱えているような表情をしていた。化粧水をつけて、口角を上げてみるも、すぐにばかばかしくなり溜め息がでた。
そっとドアを開けて、リビングの様子を伺うと、コーヒーを飲んでいる先生がいた。
深呼吸をひとつする。
「先生っ、おはようございます」
つとめて明るくふるまおうとしたのだが、背筋を伸ばすと腰が痛かった。すこし前かがみになりつつも、「いつも通り」を心がけて、先生に声をかけた。
「…おはよう、腰の調子はどうだい」
先生は、何かを考えていたのか、一拍遅れて挨拶を口にした。コーヒーに口をつけて、ローテーブルに置く。
「お風呂に入ったからか、昨日よりは痛くはありません。せっかくピノコちゃんがお風呂を沸かしてくれたのに、入るのが今日になってしまいました。…昨日は、ご迷惑をおかけしました。本当にすみませんでした」
「昨日のことはもういいさ。たのむから顔を上げてくれ」
肩に手を添えられる。刹那、私の体温が1度も2度も上がったような気がした。
先生の体温は毒だ。毒ならば、本当に殺してくれればいいのに。私の体に侵食して、思考を溶かすだけで、殺してはくれないのだ。
懸命に意識を逸らしながら、先生の方を向く。先生と今日、初めて視線がかち合った。
次の瞬間、私は先生に抱きしめられていた。私はいつになく困惑していた。何度か抱きしめられたことはあれど、今までの抱擁には私の貧相な頭脳でも正解にたどり着ける、「理由」と「脈絡」があったからだ。
今回の抱擁にはそれらが見当たらなかった。
先生が私に甘えてくるたびに、自分の腹の底から何かが湧き上がってくる感覚があった。
しかし、そのたびに目を背ける。自分の中からあふれ出る甘いような切ないような感情をありのままに表現するのは憚れた。認めてしまえば、ここには居られなくなると感じていた。
先生が覆いかぶさるように私を強く抱きしめているからか、せっかく治まった腰の痛みが顔をのぞかせた。
私はそれからどうやって自分の部屋に戻ったのか覚えていない。
*
洗濯かごに入れておこうと昨日着ていた服を持ち上げた。ふと、ポケットに手を入れると、身に覚えのない紙切れが入っていた。
流れるような筆記体と、11桁の数字が記されていた。
「ドクター、キリコ…」
――私は、小一時間、番号と名前が書かれた小さな紙とにらめっこをしていたことに気づく。捨てるか捨てまいか迷った挙句、携帯電話に登録してしまった。その日は電話をかける気は起きなかった。
しかし、寄る辺が出来たような、少しだけほっとしている自分が居た。
*
〇〇病院医局、手塚医師のデスクにて。
「あったあった。確かこの本だ」
心理学の書物に書かれてある文章を目で追いながら、最近診た患者のことを思い出していた。
専門分野ではないが、興味があって一時期集めた心理学の本たち。
その中でも、精神分析学の父と言ってもいいだろう、フロイトの著書を医学生時代によく読んでいた。
――エリザベート・フォン・R嬢(仮名)は、三姉妹の末っ子としてハンガリーに生まれ、父をよく慕っていた。彼女は好奇心が旺盛で、男勝りな一面があり、大学教育を受けたいという野心もあった。
ウィーンに移った後、父が病に倒れるも、エリザベート嬢は献身的に看病した。だが、一度だけ看病から離れ、ボーイフレンドと遊びに行ったことがあった。帰宅し父の体調が悪化していたのを見て、彼女は自責の念に駆られた。恋愛に現を抜かしていた自分に罪悪感を覚え、初恋はうまくいかなかった。その後、彼女はさらに献身的に父を看た。しかし、看病むなしく父は他界し、彼女は喪失感を覚える。その頃から、元々体が弱かった母の持病も悪くなっていった。
気弱になっていたエリザベート嬢は、母の容態が落ち着いた時に訪れた避暑地で、優しく繊細な姉の夫を見て「義兄のような人と一緒になりたい」という思いを募らせた。彼女はその旅の最中、歩行困難になるほど、脚に痛みを覚えた。
そして、姉の死という更なる悲劇が襲いかかる。だが、姉の死の知らせを聞いたエリザベート嬢は「これで私が義兄と結婚できる」という考えが浮かんだ。彼女の脚の痛みはさらに悪化した。
エリザベート嬢は自分にそのような反道徳的な考えが浮かんでしまったことに、強く罪悪感を覚えたのは想像に容易い。自分が受け入れられない感情や、道徳的に認められない欲求などを無意識的に抑圧し、それが脚の痛みに転換され、彼女を苦しめたのである。
フロイトは、人間が道徳心を以って強く抑圧する願望として「反道徳的な性的欲求・恋愛感情」を想定した。
*
「実の母」、「先生の母」、そして、「自身が演じる母」。私は、3人の「母」に苦しめられている。
先生が、「母」を求める時、私は、「母」が、俯瞰で私たちのことを眺めている感覚を覚えた。
先生の甘い体温を享受する私自身のとなりで、「母」が囁くのだ。
――「母」が息子にそのような感情を抱いてはならぬ、“清く正しく”ありなさい、と。
私に耳打ちする「母」は、どの「母」なのだろう。
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