トラウマ(心的外傷)
人間、恐怖心で脳みそを支配された時は、自分自身がまるで氷のようになってしまうのだ。
その場から一歩も動くこともかなわず、頭から手足の末端まで、神経が通っていないのではないかと疑うほど冷たくなる。
視覚から得た情報を、頭が処理しきれていないことが自分でもわかるのだ。
私は自身を何とか鼓舞して、脚を動かした。小さな子どものように、自分の部屋の机の下へと身を隠した。
私が部屋で仕事をしていた時のこと。せわしない呼び鈴の音が家に鳴り響いた。急患だろうかと窓から外を覗くも、車は停まっていなかった。
ドクターキリコ、という医者が一度先生を訪ねてきて、私が応対したことがある。
その日は先生の機嫌が悪く、後日、「私が居ないときにキリコが来たら居留守を使え。」「どんな患者が来たとしても、相手の車と顔を確認しなさい」と、耳にタコができるくらい言われたのである。
しかし、先生の言葉と、それに素直に応じてきた自分に感謝した。
あの横顔は、見間違えるはずがない――私の実の母親と、宗教団体の支部長が立っていた。
夢かと疑った、むしろ夢であってほしいと願うくらいだった。
しかし、痛いほど冷たい手足と、腰の痛みが、目の前の出来事が現実であることを無情にも語っていた。
私はやっとの思いで机の下へ逃げ込んだ。はたから見れば大げさな「命からがら」という表現が、私の今の状況をぴたりと表している気がした。
息をひそめなくてはと思うのに、自分の意思に反して、呼吸が浅く、荒くなっていく。
どうしよう、なんでここに?連れて帰られる?どうして?なんで?頭の中で疑問符を浮かべながら時が過ぎるのを待つばかりだった。
すると、部屋の奥から先生が出てきたようだ。
そうだ、先生に言って、居留守を使ってもらえばよかったのに――自分が思っているよりも頭が上手く働いていない。冷たい体をただ震わせるだけだった。扉一枚を挟んだ向こう側で、先生と、母と、長の会話が聞こえた。
「ごきげんよう、ブラック・ジャック先生。こちらに私の娘、マリアがいるでしょう?お返し願えませんかしら」
嫌味なほど取り繕った上品な言葉遣いに吐き気がする。あの人が長と居るときはいつもそんなしゃべり方だった。嫌な思い出がよみがえる。
「…いきなり訪ねてきて失礼じゃないですかい。」
「失礼なのはどちらかね、君。確かな筋から、こちらのお方の娘さんがここに居ることは存じ上げているのだよ。どういう理由があるのかは知らんが、本来君のような人間の下に居るべきではない。そもそも君の悪行は私共の団体でも有名な話だ。そのような行いを神が許すとでも思うかね」
先生は、その言葉を聞いたあと、「あぁ」と合点がいったような、あきれたような声を出した。
「そのような行いを悔い改めろと?別に宗教が悪だとか、私の職業が高潔だとか、優劣をつけるつもりは一切ない。だが、神頼みで病気が治るという考えは嫌いでね。お前さんがたが信じている神とやらがそんな教えか知らないが、あいにく、目に見えないものは信じない主義なんだ。宗教の勧誘なら間に合っている」
「話をそらさないでよ!マリアを渡しなさいよっ!!ここの支部の人がマリアを見つけてくれたんだから!!!」
母の怒号がこだまする。肩が跳ねた。
母が所属している宗教団体は、新興宗教ながら全都道府県に支部がある。そして時に、支部同士、信者同士は恐ろしく妙な絆で繋がっているのだ。きっと、母か、長が、全国の支部に捜索願のようなものでも出したのだろう。吐き気がした。
母と暮らしていた時の思い出が蘇る。殴られる前の、あきらめに似た感情と、時間が過ぎるのをやりすごそうとする感情。人間の感情とは厄介なもので、なにかひとつ思い出すと芋づる式に負の感情を思い出す。
あの時も、あの時も――逆上した母は手が付けられない。
「おっと。これ以上、我が家に入ろうものなら住居侵入罪で警察を呼びますよ」
無理やりにでも自分の思い通りにする母の事だ。私を探して引きずり出そうと、家にあがろうとしたのだろう。「警察」という単語にひるんだのか、言葉を詰まらせた。
「まぁまぁ。落ち着きなさい。先生のお宅にマリアさんが居るのはこちらも分かっているんですよ。大事な娘さんを奪われた母親の気持ちが貴方に分かりますか?分からない人間は人にあらず、私どもは悪魔とみなします。」
「どちらが冷静か、胸に手を当てて考えてみろ。あいにく、その単語は言われ慣れているものでね。…成人している人間が、自分の行動に責任を持って行動して何が悪いのかねぇ。今日のところはお引き取り願おう。こちらも忙しいんだ」
「…分かりました。また、来させていただきます。」
「あぁ、これは余談ですがね。医者にも守秘義務ってものがあるんですよ。患者がどんな怪我、病気を患っているか、どういう人間でどこに勤めているか、どんな人間か――個人情報や病状は漏らしてはならないんです。相手が誰であっても…ただ、例外を除いてね。」
私を患者として扱ってしまえば、確かに情報を漏らすわけにはいかない。先生はそんな風に機転を利かせたようだ。ただ、「例外」とは何だろう?先生の言葉を待った。
「業務上、家庭内暴力を見つけてしまった時は、警察に通報することができるし、守秘義務違反には当たらない」
「…何が言いたいのよっ!わ、私が暴力を振るってるとでも言いたいの!?」
「私はそんなこと一言も言っちゃないさ。ただ、警察に通報できるという世間話ですよ。たとえ私じゃなくとも、ふもとの大学病院の腕のよい医者でも同じことです。まぁ、重ねますが、あくまで世間話ですから。お気になさらず」
長の、「帰ろう」という声が聞こえたあとに、砂を踏みしめて去っていく2つの足音が聞こえた。帰ってくれたという安堵感と、またいつ来るかも分からない恐怖心と、複雑な心境だった。
自室のドアの乾いた木を軽く叩く音が響く。一瞬びくりとしたが、先生の声が聞こえた。
「XXX、入るぞ」
「せんせいっ…」
先生の顔を見ると気が抜けたのか、視界がにじむ。
「あの女性は…たしかに、私の母親です…だけど、あの人から逃げたくて、私は…。先生、あの人たちに帰ってもらえて良かった…ありがとう」
「あぁ。大丈夫だ。おいで。」
私は初めて自分から先生に抱きついた。
先生は、少しいたずらっぽく「まぁ、家庭内暴力の話はとくに配偶者からのDVだったり、児童虐待だったりなんだがな。しかし『正当な理由』があれば、守秘義務違反には当たらない。ギリギリな話だが、あやつらを脅すにはぴったりだろう」と笑っていた。
自ら体温を求めてわかったことがある。私はこうやって誰かに甘えたかったのだ。私は、人に何かをしてあげられるほど余裕がある人間でもないし、人に与えてあげられるほど愛に溢れた人間ではないのだ。
「愛が、ほしい…」
蚊の鳴くような声で口から零れ落ちたその言葉は、先生に届いたようだ。
先生の抱きしめる力が少しだけ緩んだ。
「あぁ、人間、誰しもその欲求は持っている。誰かを愛し、愛されたい」
先生は私の頬を撫で、涙を指の腹で拭ってくれた。
私の顔をじっと見つめて、目を細める。
「――なぁ、XXX。私は、XXXの事を、家族のように大事に思っているよ。」
その言葉はきっと、先生の本心からくる言葉だったのだろう。そして、大事な家族として扱ってくれるくらい、本当に私の事を気にかけているのだろう。
嬉しいはずなのに、喜ばしいことなのに、どうしてこんなにも残酷な言葉に聞こえるのだろうか。
きっと、仕事を始めてすぐの頃に言われていたなら素直に喜べただろう。私は、家族からの愛だって欲しかったはずだ。唯一の肉親である母親から虐げられて生きてきたのだから。
私を必要としてくれて、大切に思ってくれているのに、どうしてこんなにも心に響かないのだろう。どうしてこんなにも、心が空っぽみたいなのだろう。
「ありがとう、先生。なんだか、疲れちゃったみたいで。少し休みますね」
私は、先生の言葉はそれ以上聞きたくなくて、そう言って無理やり話を終わらせることにした。私はもう、今までのように先生に愛を与えることは出来ないだろう。
今まで積み上げてきたものが一気に崩れるような感覚だった、いや、積み上げてきたものなんて、ほんとうは、なにもなかったのかもしれない。
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