物心つくかつかないかわからないくらいの頃、仲良くしていた男の子がいた。藤堂平助という名前の男の子で、暇さえあればずっとべったりだった。お互いしかいないからというわけではなく、本当に気が合うから一緒にいた。何かでペアを組むことになったら必ず平助のもとに駆けた。平助は少し不安そうにしながらも、私の姿を見た瞬間、ぱっと表情を明るくしていた。
へいちゃん、と呼んでいた。かわいらしすぎる呼び名が照れくさいのか、返事はいつも小さかった。他の人がへいちゃんと呼ぶと毎回怒っていた。それでも私にだけはその呼び方を許してくれていた。
小学校に上がって少し経ったくらいのことだ。いつものように一緒に過ごしていると、同じクラスの少し意地悪な子が私たちを揶揄ってきた。今となっては取るに足らない、本当にくだらない揶揄いだ。無視すればよかったのに、私は何故だか無性に恥ずかしくなってしまった。
私はその日から平助と関わることをやめてしまった。彼を慮っているわけでもない、ただ自分の保身のために関わることをやめたのだ。
幸いと言っていいのか分からないが、私は別のグループに混ざることができた。平助の方はどうなのかは知らない。知ることが怖かった。馴染めているようであれば、絶対に安心する自分が現れる。馴染めていないようであれば、言うまでもない。
平助はいつの間にかいなくなっていた。転校したのである。家庭の事情か何かだったようだが、その頃には私と平助の仲が良かったことを覚えている人がほとんどいなくなっていたので、詳しい理由は知らない。
自分勝手な理由で生まれた罪悪感を心の奥に抱きながら、やがて私は中学へと進学した。六年間使ったランドセルを押入れの奥にしまい、制服と一緒に買ってもらった学生鞄を使って新しい校舎を目指した。名簿をもらい、割り当てられたクラスの教室へと向かう。既に人が大勢いて、ざわざわと騒がしかった。なんとなく前のドアから入るのは嫌だったので、後ろのドアから教室に入った。
席は後ろの方だった。周りに知り合いは誰もいないので、話す相手がいない。ぼーっと過ごしていると、担任らしき人物が前のドアから入ってきた。
程々に話を聞き流していると、体育館に行くことになった。ガタガタと椅子を引く音があちこちから聞こえる。聞いていてあまり楽しくも嬉しくもない音なので、自然と眉間に皺が寄った。
男女別の出席番号順に列を作って、担任の先導に従って歩いていく。体育館に入ると、いかにも一年生が座らされそうなパイプ椅子ゾーンがあった。もたもたする人もいればサッと座る人もいる。私はさっさと自分の席に座り、同じ一年生の別クラスの到着を待った。
気がつけば入学式が始まっていた。新入生の名前が呼ばれていく中で、とある名前が聞こえてきた。藤堂平助、と聞こえてきて、私は耳を疑った。反射的にその方を向くと、確かにあのへいちゃんがそこにいた。背が伸びていて、しゃんと背筋を伸ばして立っている。それでも周囲と比べると小柄なところは相変わらずだった。だから教室から体育館に向かう時も気づけなかったのだろう。一気に心臓が速くなっていくのを感じながら、私は視線を戻した。
そして全員の名前が呼ばれ終わった。彼が気づいていないわけがない。彼の名前が呼ばれたのと同じように、私の名前も呼ばれているからだ。
入学式はあっという間に終わって、教室に戻ることになった。周囲の様子を気にしながら立ち上がったが、彼は少し離れた席にいたので、移動が終わっても顔を合わせることはなかった。
やがて解散の時が来た。さっさと帰りたいのか真っ先に親のもとに行く生徒もいれば、席を立つことなく他の生徒と喋り倒している生徒もいる。
私と彼は別のクラスのようだった。けれどもいずれは必ず顔を合わせることになるだろう。それでもひとまず今日のところは家に帰りたかった。私の逃げ癖は今でも直っていないようだ。
できるだけ目立たないようにしながら靴箱まで移動し、上履きから外履きに履き替える。高い位置から靴を落としたせいですぱんと大きな音がした上に、片方の靴が横に倒れた。面倒だったので、手で直さずに足を使って靴を履いた。そのまま急ぎ足で帰ろうとしたその時だった。
全く同じタイミングで、もう一列横の靴箱から誰かが出てきた。まさかな、と思いつつ横目で見ると、藤堂平助だった。思わず『あっ』と口から声が出てしまう。反射的に手で口を塞いだのが余計にまずかったようで、藤堂は私の名前を呼びながら、こちらに一歩踏み込んできた。
「え、えっと…久しぶり、藤堂くん」
言葉に詰まりながらもなんとか返事をしたが、藤堂は嬉しそうに綻ばせていた顔を苦しそうに歪めてしまった。まさか返事をしたことでそんな表情をさせてしまうとは思ってもいなかったので、私はとても戸惑った。
「ど、どうしたの?」
「…ごめん、久々で、何を話したらいいのか分からなくて。話したいことが沢山あったのに」
一緒に帰らないか、と誘われたので、私は素直に応じた。観念したと言った方が正しいのか、腹を括ったと言った方が正しいのかは、私にも分からなかった。
私と彼は並んで歩いていた。藤堂は私の家への道のりをまだ覚えていたようで、私の後に着いてきたり、道を聞いてきたり、その歩みが鈍ることは一切なかった。しばらくの間無言だったが、私はどうせならここである程度蟠りを消化したかったので、道中にある公園に行きたいと思い切って誘ってみた。そこは私たちが遊びに頻繁に使っていた公園だった。藤堂は『うん』と言って着いてきた。
「ここさ、いつも来てたよね」
「あ、ああ。おまえが『人が多いところは嫌だ』って言って、しょっちゅう来てたな」
「そう。他の子と色々取り合いになるから、嫌だったんだ」
ブランコと砂場とベンチがあるくらいの、遊んでいるとすぐに飽きてしまいそうな小さな公園だった。他に大きな公園がいくつかあったが、そちらの方にはあまり行きたくなかった。彼には遊具や場所の取り合いになるから嫌だといつも言っていたが、本当は違った。藤堂は家庭環境が少し複雑で、他の子はあまり遊びたがらなかったからだ。何を言われても言い返さず、ただ悲しそうに顔を伏せる藤堂を見ていられなかった。
実際は子供が藤堂を嫌っているわけではなくて、保護者の方が少し疎ましく思っているようだった。『あの子とはあまり遊ばないように』みたいなアレだ。酷い話だ、と思うが、私も結局同じようなことをしてしまった。昔の私は藤堂を揶揄う者がいればすぐに食ってかかるような勇敢さを持っていたのに。『つまんないからあっち行って遊ぼ』と言って、彼の手を引いて別のところに行くことだってしていたのに。どうしてあの時だけは無性に恥ずかしくなってしまったのかは、本当によく分からない。
身体は自然とブランコの方に向かっていて、座板に腰を下ろしていた。昔は地面に足がつかなかったのに、今では余裕で地面に足がつくようになっている。藤堂も同じように隣の座板に座っていた。
「ずっと、謝りたいことがあったんだ」
「え…何が?」
私に謝ってほしいことならともかく、藤堂が謝りたいことに心当たりがあまりにもなさすぎて問い直してしまった。
「僕が…僕がもう少し強ければ、おまえが離れていくこともなかったのに」
「ま、待って待って、何の話?」
「…あいつに揶揄われた時だよ。覚えてないか」
「いや、あれは…あれは、私が悪かったんだよ。藤堂くんは何も悪くない」
「怒ってるんだろ?おまえに守られてばかりで、僕が何も言い返さなかったから」
「怒るって、何を?君が私に怒るなら分かるけど…私が藤堂くんに怒りを感じることなんて何もないよ」
「だって、もう前みたいに呼んでくれないから…嫌いになったんだろ?僕のこと」
藤堂は今にも泣き出しそうな顔をしていた。被害者でしかない彼が、これまでずっと自分を責めてきたことを考えると、自分が情けなくて仕方なくなった。
「ごめん。会わない時期が続いたから馴れ馴れしいかなって思っちゃっただけで、藤堂く、じゃなくて、えっと、へいちゃんを嫌いになったわけじゃないよ」
「そ、そっか…よかった」
へいちゃんは胸を撫で下ろしていた。目尻には涙が浮かんでいて、ごしごしと制服の袖でそれを拭っていた。
「私こそ本当にごめん。あの時、いつもみたいに言い返そうと思ったのにできなかった。その後だって、へいちゃんに会いに行こうと思えばできたのに、何にもしなくて」
「違う、あれは僕が…いや、もうやめよう。このままじゃ多分、ずっと終わらないだろうから」
「そう、だね」
私は初めてまともに顔を上げてへいちゃんの方を見た。遠目で見た通り、基本は変わっていない。変わったのは身長と声くらいだった。よく見たら若干身体に厚みが出てきているような気もする。
「へいちゃん、声変わったよね」
「ああ。…嫌か?」
「ううん。前の声も好きだったけど、今の声も好きだよ。かっこいいから」
「そ、そうか…おまえも、変わったよ。その、大人になった、っていうか」
「そう?ありがとう」
よく見ると、髪の隙間から見える耳が真っ赤になっている。どうやら相当照れているらしかった。
私たちはブランコから降りて、再び歩みを進めた。公園に来る前とは違って、二人とも明るい足取りで会話も弾んでいた。まるで今までずっと一緒に過ごしてきたかのような感覚だった。
話し込んでいるうちに、すぐ私の家に着いてしまった。彼は私の家を見て懐かしそうに目を細めると、その場に立ち止まって私が家に入るまで見送ろうとしていた。敷地内に一歩足を踏み入れたところで、私はあることに気がついた。
「そういえばさ、へいちゃんの家って前と変わった?今どこに住んでるの?」
「あっちだよ」
へいちゃんが指差した方向はなんと真反対だった。その方を見て私は思わず固まってしまった。ということは、これから彼はさらに歩いて帰ることになる。
「え、ご、ごめん、うそ、気づかなかった」
「いいよ。おまえと久しぶりに一緒に帰れて楽しかったし」
「……へいちゃん、モテるでしょ?」
「なんだよ急に。どうだっていいだろ、そんなこと」
「彼女がいるかいたに決まってる!五人くらい」
「僕を何だと思ってるんだよ!いないに決まってるだろ!大体僕は、僕は…」
「僕は?」
「…もういい!また明日!」
彼はそう言い残すと、踵を返して走り出してしまった。足が思ったよりものすごく速くて、すぐに見えなくなってしまった。