9.考えなしではない…?


「夢子?夢子、聞こえるか!」


 返事はない。体力的に限界なのだということは考えるまでもなく分かった。腹をくくった八左ヱ門は、彼女を医務室へ連れていくために灰色の世界へ足を踏み入れた。ものを食べなければ大丈夫なはずだと分かっていても、元居た場所に戻れなくなるかもしれないという未知の恐怖は彼をじんわり支配しそうになった。けれども、それに飲まれることはなかった。ぐったりと意識を失っている夢子を優しく持ち上げれば、数週間前に同じように持ち上げた時と比べて随分軽くなっていることに気づく。目元は泣いたのか腫れていて、無理もないか、とひとつため息をついた。

「限界、だと思います」

 八左ヱ門は、彼女を医務室へと運び込んだ。中から顔を出した伊作は、何も言わずに中に招き入れた後、寝かせるように指示をする。

「十日か。もう無理を言ってでも食べさせないととは思っていたよ。さて八左ヱ門、食堂のおばちゃんに重湯を作るよう頼んできてくれないか」

「分かりました」

「い……伊作先輩、どういうことですか?この人はどういう……十日ってなんですか……?」

 意識のない女性を医務室に寝かせた八左ヱ門に、当たり前のように対応する伊作。何も知らされていない三年の三反田数馬は、目の前に横たわった女性の体に障らないよう控えめに伊作に説明を求めた。


「下級生はまだ知らされていないんだったね。……彼女は今度から、事務員として働くことになる人だよ。まあ彼女自身もまだそのことを知らないんだけど」


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 数日ぶりの米のにおいはかなり薄められたものだったけれど、それでもほとんど気絶状態だった私の本能を揺り動かした。

「食堂のおばちゃんが作ってくれた重湯だよ。匂い、なんとなくわかる?」

 目を覚ました私の耳に、優しい声が聞こえてくる。体が重くて、とても起き上がって確かめることはできそうにないが、聞こえてくる声は伊作くんのもので間違いないだろう。

「もう夢子の体は限界だ。このままみすみす餓死させるなんてことはできない、食べることで元の世界に戻れなくなってしまったとしても。分かって欲しい」

 これは八左ヱ門くんの声だ。群青が視界の裾で揺れる。そっと上体を支えてもらいながら起こすと、伊作くんと見慣れない少年が一人、こちらを見ていた。少し哀れむような目だった。きっと私はひどい顔をしているんだろう。覆ってしまいたくなったが、それすらだるくてやめてしまった。

「餓死するのだけ阻止して放り出すくらいなら、もうこのまま殺してくれていい」

 思っていたことをそのまま口に出せば、なんとなく背後の八左ヱ門くんから動揺が伝わってくる。目の前にいた伊作くんは、「そんなことはしない」とまっすぐな目で私を射抜いた。

「君がここで生きる覚悟さえ決めれば、君のこのあとのことは学園が_」

「高く売られる自信、無いよ……」

 伊作くんの横にいた少年はびくりと体をこわばらせたように見えた。どう考えても小学生くらいの男の子がいるところで話すべきではなかったけれど、私はもういっぱいいっぱいで、そんなところに気を配る余裕はなかった。

「売ったりしない。君はここで働くんだ」

「……」

「学園長が、今は分からなくても、きっと君の部屋とつながったことには何か意味があるはずだからと」

「……あまりにも曖昧過ぎるんじゃないかな」

「いつだってそうなんだ、あの人は」

 真面目な顔をしていた伊作くんも、これには困ったように笑った。殺されないし売られもしないということが分かってさらに力が抜ける。「ありがとう」と声に出した時、気を抜けばまた泣いてしまいそうだったが、腹をくくれ、と自分を鼓舞してなんとか踏みとどまった。


「食べてくれるね」とお椀を近づけてくる彼に頷けば、匙が口元まで運ばれる。流石に悪いと手で拒もうとしたけれど、その手はそっと背後の八左ヱ門くんに捉えられてしまった。観念して口を開く。味わった後そっと飲み込めば、食道をあたたかいものがどろりと落ちていく感触がはっきりわかった。

 後で聞いたことだが、私が重湯を口にしたとき、穴に入れていた例の砂はすべて溶けるように消えてしまったらしい。きらきら光り出したのを下級生が見つけたということだったけれど、一瞬のうちになくなってしまったとか。



 それからしばらくしたあと、医務室にやってきた学園長から説明を受けた。私はこの学園の事務員になるらしい。今は常駐の事務員が一人、たまに手伝いに来るおばちゃんが一人。そこに仲間入りすることになる。研修期間が終われば給料も出すと学園長は宣言した。そして一気に、今まで隠していた「ここは忍者の学校である」ということも説明された。見当がついていたので声に出して驚くようなことはなかったけれど、改めて言われればやはり衝撃的だ。何度も感謝を述べようとする私を手で制して、詳しい仕事内容はまた後日、と学園長は嵐のように去っていった。

 変わったことと言えば、まず寝る場所。絶対安静を言い渡されたため、医務室の一角に目隠しを立ててもらいそこで過ごすようになった。それに伴い、まだ私の存在を知らされていなかった下級生とも顔を合わせることになる。まだ紹介をしてもらったのは保健委員だけだけれど、それ以外の下級生とも目隠しの向こうからたまに噂話が聞こえたり、日中厠をお借りするときにすれ違ったりするようになった。隠す必要もなくなった今、私のことについて一応学園長からざっくり説明はされているらしい。なんと言って説明したのかが気になるところではあるが。

「夢子さん、お粥持ってきました〜。入ってもいいですか?」

「あ、伏木蔵くんだね?いいよ」

 目隠しの向こうからひょこりと顔を出した彼は、忍び寄るようにこちらへずずっとやってきた。これまで関わった保健委員の面々の中で、おそらく彼が一番私に興味を抱いている。というか、どこかおもしろがっている節がある。説明を受けたとき、保健委員下級生が呆然とする中彼だけが「スリルとサスペンス..!」という声を漏らしたのだ。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 重湯を口にしてから二日、徐々に持ってきてもらえるお米も形のあるものになってきていた。ゆっくり味わっている私を、伏木蔵くんはじっと見つめてくる。

「やっぱり怪しい?私」

「そんなことは無いですよ〜。学園の一員になるって先生方が認めたんですから。学園長先生も考えなしに決めたわけじゃないと思うし……たぶん」

「最後の間が気になるところだけど……。にしても、突拍子もない話だしさ。もっと疑ったりされるかと」

「ぼくたち、竹谷先輩のお部屋の押し入れ見たんです。だからみんな、話が本当だって知ってます」

 まだ押し入れは閉ざされていなかったらしい。下級生たちみんなが列をなして部屋を出たり入ったりしていったと聞いて、自室が展覧会状態なんて八左ヱ門くんも災難だねと口に出せば、「気にしないでください」と目隠しの向こう側から聞こえてくる。


「あれ、八左ヱ門くんいつからそこに?というかその敬語もいらないって言ったのに」

「だって…だって4歳差って……」


 重湯を食べたあの日。まるで赤ん坊みたいに介抱されていた私がぽろりと「18にしてこんな風にご飯を食べさせてもらうとはなあ」と口にした瞬間、八左ヱ門くんはえっと声をあげた。年上だとは話していくうちになんとなく予想がついていたけれど、1、2歳差くらいだろうと高をくくっていたらしい。彼は14歳だった。15歳の伊作くんも八左ヱ門くんの態度を見て勝手に同い年くらいだと思い込んでいたらしく、知らずにすみませんと平謝りされた。もちろん止めたし敬語はいらないと言ったけれど、まだなんとなく敬語が抜けきらないままだ。

「急に年上扱いされても」

「だって実際、四年も長く生きてるんだ」

「向こうの四年で得たものなんてこっちの一年で積む経験値にも満たないと思うし」

「どういうことだ……まあなんにせよ、体調は戻ってきてるみたいでよかったよ」

 俺は委員会に戻らないといけないから、と言って八左ヱ門くんは医務室を出て行った。しばらくして伏木蔵くんが空になったお皿を回収してくれた後、委員の他に誰もいないのを確認してまた目隠しの向こうに声をかけた。

「ねえ、私はいつから働けるようになるのかな?私的には結構すぐにでも動けると思うんだけど」

「最低限自分で歩けるようになってから言ってください!まだふらついてるじゃないですか」

 目隠しの向こうから厳しい返事をするのは二年の川西左近くんだ。保健委員は私が移動するときに倒れたりしないようについてきてくれる。過保護すぎると拒否をしても、断固としてついてくるのをやめない。最初は監視されているのかと思っていたけれど、様子を見ている限りだと彼らは本当に病人をきちんと保護していたいだけらしい。保健委員のみんなは「慣れているので」と言って見知らぬ私にも抵抗なく関わってくれる。八左ヱ門くんといい彼らといい、忍者を志すにしては少しお人よし過ぎないだろうか。この世界線の忍者ってみんなこうなのだろうか。


「……もう少し固形物が食べられるようになれば、考えてもいいでしょう。あと二日は回復することだけ考えてください」

「おお」

「なんですか」

「優しいなあと。みんな結構変だよね、ありがたいんだけどさ」

「別にあなたの気持ちを汲んで言ったわけじゃないですから!事実を述べただけです。あと変じゃないです!」


 伏木蔵くんの控えめな笑い声が聞こえた後に、笑うなっと左近くんの声が聞こえる。あまりにもこの世界の生活になじみ過ぎていることに違和感を感じつつ、私はお言葉に甘えて回復に専念することにしたのだった。


---- 第一章 完 ----



ぬるま湯