8.溶ける希望


 あの夜は、何回心臓が止まりそうになっただろう。八左ヱ門くんの部屋の天井から人が降ってきたとき。会話が通じる二足歩行の犬。学園長の庵に人が飛び込んできたとき。八左ヱ門君の部屋に異変が起きたと知ったとき。
 
 そして、自分が立っている場所に色がないと分かったとき。

 訪れたての春にまだ染まっていない、冬の肌の色すら毒々しく思えるほど鮮やかに見えたあの光景は、きっとこれからさきもしばらく忘れることができないだろう。

 咄嗟に家じゅうを見て回ったけれど、誰もいない。手にした懐中電灯だけを頼りに、私はいろいろなところを見て回った。外に出ても、誰もいない、何もない。音のしない街に、気が狂いそうになった。空は夜のはずなのに雨が降る前みたいな鉛色だ。夜の音がどんなものだったか、うまく思い出せない。こんな場所、私のいた場所じゃない。なんでこうなったんだろう。なにが……もしかして、向こうのものを口にしたから?

 もうこれ以上見て回ることなんてできそうになかった。これ以上あの押し入れから離れたら、もうこの場所に完全に一人になってしまう気がして、必死に元来た道を走った。押し入れはまだつながっていて、飛び込むみたいにして体を押し込んで。八左ヱ門くんの手が肩にのった瞬間、安心で触れられた箇所から溶けてしまいそうになった。


 次の日。医務室に来た八左ヱ門くんは、深い青の服を身にまとっていた。私の体調を心配していたけど、話の途中で突然私を持ち上げて、部屋から飛び出した。


「色……だ、それだ。学園中に散らばってたあれ、砂じゃない、色だったんじゃないか!?行こう!」


 彼の言葉の意味は、部屋を出てすぐなんとなく分かった。廊下や屋根の上がきらきらといろんな色に光っている。昨晩ちらばっていた砂の正体がこれか。おそらく、彼はこの砂のようなものが鍵になると考えているんだろう。

「ねえ、なんとなく話は分かったから一旦戻ろう。先生たち度肝抜かれてた」

 さすがにまずいと声をかけると、八左ヱ門くんは一度足を止めた。

「一刻を争うかもしれないのに?」

「それは……じゃあ行くから、行くから降ろして!申し訳ないし」

「一応病み上がりみたいなもんなんだから、素直に甘えてくれ」

「病み上がりの人間を突然布団から引っ張り上げて持ち上げたりするのはいいんだ」


 八左ヱ門くんは戻る気がないらしい。私の少しの皮肉にはこたえず、「下級生に鉢合わせると面倒なことになるから、直接五年長屋に行く」とだけ言ってまた走り出した。それにしても、私を持ってこの速さで走って、息も切らしていないとは何者なんだ。これじゃまるで…

(忍者……!そうだ、忍者はガッツじゃ……)

 昨日話を聞いた学園長の部屋の掛け軸の字を、今思い出した。蠟燭で照らせる範囲は限界があったし、「忍者」の部分は本当にそう書いてあったかどうか定かではない。しかしでかでかと「ガッツ」なんてワードが書かれているのを見てどうもおかしいと思ってよく目を凝らして見たから、やっぱり本当にそう書いてあったとしか思えないのだ。

 私はこの時代の人間がどんな服を着ていたかなんてあまり詳しくないが、にしても珍しい服だなと伊作くんを見た時から思っていた。新野先生は白、伊作くんは深緑、八左ヱ門くんは深い青。あまりイメージにない色だが、彼らが着ているのは忍者服なのだろうか。しかし、聞けるはずもない。本物の忍者に「忍者ですか?」と言って無事で居られる気がしない。でもあんなに堂々と掛け軸を飾ってたからいいのか?

 脳内でぐるぐると考えを巡らせている間に、私たちは五年生の長屋の部屋についた。どうやらそれぞれの長屋の清掃中らしく、見た限りだと八左ヱ門くんと同じ服の色をしている生徒だけしかいないようだ。たぶん、学年ごとで色が分けられているんだろう。ちらほら頭に頭巾を巻いている人がいる。やはりどうみても忍者としか思えないが..


「なにしてるんだ……お前、話をしに行ったんじゃないのか」

「飛び出して来たんだね?彼女、裸足じゃないか」

 最初にこちらに声をかけてきたのは、昨日少し話した顔のそっくりな二人組だった。驚いて目を丸くする姿まで似ている。この状況をみられるのが恥ずかしくてすぐに顔をそらしてしまったけれど。

「いろいろあったんだよ。なあ、集めた砂今持ってないか?」

「廊下や屋根の上にあったものは大抵回収してしまったが..八左ヱ門の部屋の中の砂はそのまま放置してある」

「掃除しといてくれたっていいのに!いや、今回はその方が都合がよかったからいいか」

 彼は二人に軽く礼を言って、部屋に飛び込んだ。ここまでくればもういいから、歩けるから、と言ってやっと八左ヱ門くんの腕から解放される。外へ出るのに、真っ先に横抱きにするなんてワイルドすぎやしないだろうか。さっき起きたところなのにすでに疲れを感じながら、部屋中の砂をかき集めようとする八左ヱ門くんを手伝った。

「光を当てたらきらきらする」

「そうだな。昨日の白い光ではこうなってなかったし、太陽光に反応するんだろうか」

 手ですくった砂を部屋の入口から漏れてくる陽の光にあてればグリッターみたいに色とりどりに光る。思わず「きれい」と声が出た。

「さて、こんなもんか。単純な考えだが、一度向こうにこれを落としてみよう。何か起こるかもしれない」

「なるほど、了解。私がやるから、ここに集めて」


 押し入れの中に体を押し込んだ後、両手でお椀をつくって砂を受け取る。私の手でギリギリ支え切れるだけの砂が集まった。できるだけ零れ落ちないようにゆっくり向こう側を振り返る。思い切って手を開けばさらさらとフローリングの上に落ち、そして溶けるようになくなってしまった。


「どうだ?」

「何も起こらないね……」

 床の上に散らばるどころか、手掛かりになりそうなものが跡形もなく消えてしまったというのはやはり少しこたえた。ため息をつけば、「進展はなかったか」と声がする。振り返った扉の向こうにいたのは学園長だった。

「保健室のところから一連のやり取りは見ておった。盗み見たこと、まずは謝罪しよう」

「いえ……大丈夫です」

「わしに思うところはあるかもしれぬ、いやあって当然じゃろう。しかし今は、お主の考えを聞かせてくれぬか。わしはできる限りお主に協力する」

 学園長は私にお茶をふるまったことを後悔しているだろう。それでも、転がり込んできた厄介者と話し合っていただけるのなら。私は学園長の言葉に頷いた。



 しかし、その後の話し合いでも大した進展はなかった。学園中から集められた砂は、今は深く掘られた穴の中に保存してあるというが、それもいつまでもつか分からない。天候が悪くなればまたなにか変化が起こるかもしれないし、時間が経てば消えてしまうかもしれない。急ぐ必要があった。それでも、なにも起こらない。もっと多い量の砂を部屋に運び込んでみたこともあったが、それもまた跡形もなく無くなってしまった。学園長の古い知り合いに似たような出来事を経験した人がいないか手紙を介してそれとなく聞いているという話や、手の空いた図書委員の上級生が文献を調べてくれているという話を八左ヱ門くんから教えてもらった。

 私はというと、あの日からずっと色のない自室で過ごしている。学園の生徒が日常的に訪れる医務室はもちろん、どこにだって私が一日中ひっそりお借りできるような場所はない。できればこんな場所にずっといることは避けたかったが、しょうがない。布団に潜り込んでしまえばすべてを遮断できるだけましだった。

 電気やガス、水道はすべて止まっていた。どうりで部屋の電気がつかなくなったわけだ。これはまずい、と冷蔵庫の中を確認したけれど、冷凍食品が入っていたはずの袋や作り置き用の真空パックは中身が空になっていた。ネットも繋がらない。スマホはほとんど文鎮と化した。停電時に使えればと買ってあったソーラーパネル式の持ち運び電源があれば音楽を聞いたり写真を見たりすることはできるけれど、それだけだ。それも、灰色の世界の太陽光では意味がないらしい。こちらの世界は日が暮れることもなく晴れ渡るでもなく、ずっとぼんやり曇り空のままだった。

 三日ほど経過してからは、私はじっと横になっているようになった。あの日からお茶以外のなにも摂取していない。色のなくなった世界に、食べ物は無かった。おそらく、植物も含めて生物がいない。実験的にもう一杯学園のお茶を飲んだところ、砂や部屋になにも異変は起こらなかったため水分補給はできた。しかしこれはお茶だからで、次本当に「この世界の窯で煮炊きしたもの」を食べてしまえば、もう鍵となる砂どころかなにもかもなくなってしまう可能性があるのではないかと私は考えた。伊作くんや新野先生が眉をひそめたのを見ないふりをして、私は断食を申し出た。

 八左ヱ門くんは部屋に人が入らないように気を配りながら押し入れの戸をあけっぱなしにしてくれていた。他人がいるなんて休まらないだろうから気にしないで閉めてと言っても、時間があれば様子を見に来てくれた。ここが完全に閉ざされていたなら、私はもう駄目になっていたかもしれない。彼らはこの戸を閉ざしてしまうだけで厄介払いできるのにと思うと同時に、八左ヱ門くんはきっとそれを許さないんじゃないかともぼんやり思っていた。後半のそれはほとんど願望でしかなかったけれど。


 ついに異変が起こって十日ほどが経った。何も変わらない。私自身も何もできないし、学園長や図書委員の一部が協力してくれていたという話も進展はなさそうだ。空腹すらもう感じなくなってきて、今は頭痛がひどい。体力と気力だけがなくなっていき、夜更けに誰も使わなくなった学園のお風呂を借りるために押し入れを乗り越えるのですらそろそろ限界だ。気にかけてもらうのも心苦しい。砂が残っている限りなにかやりようがあるはずだ、と前向きでいるのにも疲れた私は、元の世界に戻れないこれからのことについて考え始めるようになっていた。

 きっと学園には居られないだろう。教育機関で見知らぬ人間を保護するとは到底思えない。しかしそうなれば、私はどうなる?もしかしたら、学園関係者のもとで働かせてもらうことができたりしないだろうか。ここで生きる術は私にはないが、生きるためならきっとなんだってできる。家事はたまに手伝う程度でスキルはないが、それでも死ぬ気で働けばお手伝いさんとか…。

 それとも、売られるだろうか。あまり詳しく知らないが、きっとそういう場所があるのだろう。学園にとっては多少利益も入るし、生い立ちを隠している子も多いであろう空間になら、私を放り込めるかもしれない。術がないなら体を差し出すしかないだろう。

 未だに聞けていないが、ここは忍者を育成する機関だと見当がついている。この中のことを知ってしまった私を、殺してしまう可能性だってある。死にたくない。そんな風に死んだって救われる気がしない。でも売られるのも嫌だ。この期に及んで売られたくない、でも死にたくはないなんてきっと無茶苦茶だ。でも実際ずっと無茶苦茶じゃないか。なんで私がこんなことになってしまったんだろう。

 私はまた泣いてしまった。体力を使ったせいか、意識が朦朧とする。薄れていく意識の中で、誰かが何かを言ったような気がしたけれど、聞き返すような体力はもう残っていなかった。



ぬるま湯